三原脩監督がヤクルトアトムズを率いた3年間(1971~1973年)の「三原ヤクルト」の時代に、
松岡弘、安田猛、大矢明彦、若松勉という「1947(昭和22)年組」が台頭し、
ヤクルトは、成長期真っ只中という、成長期の時代を迎えていた。
そして1974(昭和49)年、ヤクルト球団は大きな転換期を迎える事となった。
それは即ち、ある事情から「スワローズ」という、国鉄以来の球団名が復活したという出来事である。
今回は、「ヤクルトスワローズ」という球団名が誕生し、プロ野球界全体で大きな分岐点となった1974(昭和49)~1975(昭和50)年にスポットを当ててみる事としたい。
<「ヤクルトスワローズドリームゲーム」の始球式に、ヤクルトファンの出川哲朗が登場!!~出川哲朗、安田猛からボールを受け取り、颯爽と(?)始球式>
2019(令和元)年7月11日、神宮球場で行われた、「ヤクルトスワローズドリームゲーム」の始球式で、
熱狂的なヤクルトファンとして知られている、出川哲朗が登場した。
神宮球場のオーロラビジョンで、始球式を務めるのは出川哲朗であると紹介されると、スタンドからは大歓声が起こった。
出川哲朗、いやはや大した人気である。
出川は、満面の笑みを浮かべながら、神宮のマウンドへと向かって行った。
ここで、出川哲朗にも知らされていなかったという「サプライズ」で、
かつて、ヤクルトで「王キラー」として大活躍した左腕投手、あの安田猛が、始球式のボールのプレゼンターとして現れた。
安田は、スキルス性の胃癌により闘病中と報道されていたが、この晴れ舞台に登場すると、神宮を埋め尽くしたヤクルトファンから、大歓声が起こった。
出川は、安田からボールを受け取り、本当に嬉しそうな笑顔を見せた。
さあ、出川哲朗、ヤクルトのレジェンド左腕・安田猛からボールを受け取り、颯爽と始球式!!
…と思いきや、流石は芸人(?)というべきか、出川が投げようとすると、
何と、出川が履いていたズボンがずり落ちてしまうというボケ(?)を見せた(※恐らく、ハプニングではなく、わざとであろう)。
これには、見ていた安田もズッコケ、スタンドからも笑いが起こった。
その後、出川は無事に始球式を終え、審判を務める(?)つば九郎も、「ストライク!」のジェスチャーを取った。
こうして、出川哲朗は無事に大役を務め(?)、捕手の古田敦也と、ガッチリと握手を交わした。
出川は、なおもグラウンドで名残惜しそうに(?)していたが、
つば九郎は、容赦なく「さっさと帰れ!」と言わんばかりに、出川が帰る方向を指し示していたのであった。
<1973(昭和48)年シーズンオフ…三原脩監督が退任~「三原ヤクルト」の3年間で、チーム再建の基礎を築く>
1973(昭和48)年のシーズンを終え、三原脩監督は、ヤクルトアトムズの監督を退任した。
三原監督は、ヤクルトを率いた3年間で、3年連続Bクラス(6位⇒4位⇒4位)に終わったが、
「三原ヤクルト」の3年間で、その後のヤクルトを担う若手選手達を育て上げ、ヤクルト再建の基礎を固めた手腕は、流石であった。
なお、稀代の名将・三原脩にとって、これが生涯最後のユニフォーム姿となった。
<1973(昭和48)年11月26日…手塚治虫の「虫プロ」が倒産!!~「アトムズ」の愛称も使用不可能に…>
1973(昭和48)年11月26日、手塚治虫率いるアニメ・プロダクション「虫プロ」が倒産の憂き目に遭った。
「虫プロ」は、初の国産アニメ番組である『鉄腕アトム』をはじめ、数々の作品を世に送り出して来たが、
近年は、「劇画ブーム」が起こり、「手塚の漫画は古い」と、手塚治虫の人気に陰りが出た事もあり、苦境に立たされていた。
そして、遂に「虫プロ」は巨額の負債を抱え、倒産してしまったが、これにより、ヤクルトの球団名である「アトムズ」も使用不可能となってしまった。
なお、一時は「もう終わった」「手塚は過去の人」などと、叩かれていた手塚治虫は、
この後、『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』などの大ヒット作を連発し、不死鳥のように蘇るのだが、
ともあれ、ヤクルト球団と「アトム」の縁は、一旦、ここで切れる事となった。
<1973(昭和48)年10月26日…ヤクルト球団が、球団名を「ヤクルトスワローズ」に変更!!~「国鉄スワローズ」以来の伝統のチーム名「スワローズ」が復活!!>
1973(昭和48)年10月26日、「虫プロ」倒産が決定的となり、「アトムズ」という球団名が使用不可能となる情勢を受け、
ヤクルト球団は、球団名を「ヤクルトスワローズ」に変更する事を発表した。
これにより、1965(昭和40年)以来、実に8年振りに、「国鉄スワローズ」以来の伝統の球団名「スワローズ」が復活する事となった。
これ以来、「ヤクルトスワローズ」という球団名が、今日(2020年現在)まで、ずっと続いているというのは、皆さんもご存知の通りである。
なお、「ヤクルトスワローズ」の初代ペットマークは、ご覧の画像のような、ツバメをモチーフとしたものであり、
その系譜は、現在の「つば九郎」にまで繋がっている。
<1973(昭和48)年シーズンオフ…荒川博監督、広岡達朗、沼沢康一郎、小森光生・各コーチの「早稲田カルテット」首脳陣が、ヤクルトスワローズに乗り込む!!>
さて、1973(昭和48)年のシーズンオフ、新生「ヤクルトスワローズ」の首脳陣として、
荒川博監督、広岡達朗、沼沢康一郎、小森光生という、いずれも早稲田野球部出身で、ほぼ同年代の4人組、
所謂「早稲田カルテット」が就任する事が発表された。
彼らは、早稲田以来の仲間として、非常に気心が知れている間柄だったが、荒川博監督は、巨人の打撃コーチとして、王貞治を育て上げ、
広岡達朗は、川上哲治監督と対立し、巨人に追い出されたという経緯が有ったという、いずれも巨人に因縁が有る人物である。
広岡は、1971(昭和46)年限りで、広島カープのコーチを退団し、今回、ヤクルトのコーチに就任したが、
この時、広岡の頭の中には「必ず、巨人を倒す!!」という「打倒・巨人」の一念しか無かった。
<1974(昭和49)年のヤクルトスワローズ①…すったもんだの末に、「史上最悪の外人」ペピトーンを解雇>
さて、新生「ヤクルトスワローズ」には、一つ、頭の痛い問題が有った。
あの、素行不良の「ダメ外人」として、悪評の嵐だった、ジョー・ペピトーンが、まだ球団に残っていたのである。
ペピトーンは、入団2年目(1974年)も、相変わらず日本のプロ野球界をナメ切っており、オープン戦が始まっても、来日しなかった。
挙句の果てに、前年(1973年)来日時の、荷物輸送料金と犬の空輸料金を、ヤクルト球団に請求するに及び、
これで遂に堪忍袋の緒が切れたヤクルト球団は、1974(昭和49)年3月20日、シーズン開幕前にペピトーンをクビにした。
全く、ペピトーンは絵に描いたような「ダメ外人」「不良外人」だったが、
元はと言えば、ヤクルト球団の調査の甘さが、このような酷い選手を掴まされる最大の要因だったと言われても仕方有るまい。
<1974(昭和49)年のヤクルトスワローズ②…太平洋クラブライオンズから、ロジャー・レポーズを移籍で獲得!!~以後、ヤクルトの中心打者として活躍>
ペピトーンをクビにしたヤクルトは、急遽、打線の中核になる、代わりの選手を探したが、
前年(1973年)に太平洋クラブライオンズに在籍し、66試合 打率.220 12本塁打 30打点という成績を残していた、
ロジャー・レポーズ(※太平洋時代の登録名は「レポーズ」)に白羽の矢を立て、ロジャー・レポーズを移籍で獲得した。
ロジャー・レポーズ(※ヤクルトでの登録名は「ロジャー」)は、ヤクルトに移籍後、中心打者として活躍する事となったが、
ロジャーは性格も真面目であり、ヤクルトの選手達の良いお手本となった。
ペピトーンはともかくとして、ヤクルトは基本的には外国人選手には、恵まれている事が多く、ロジャーもまた、素晴らしい選手であった。
(※なお、ロジャーのヤクルト移籍1年目(1974年)の成績は、打率.232 25本塁打 54打点)
<1974(昭和49)年のヤクルトスワローズ③…投打が噛み合い、60勝63敗7分 勝率.488で、13年振り2度目のAクラス(3位)確保!!>
こうして、1974(昭和49)年に新たなスタートを切った「ヤクルトスワローズ」であるが、
荒川博監督、広岡達朗コーチらの「早稲田カルテット」に率いられ、投打がガッチリ噛み合ったヤクルトは、
この年(1974年)、60勝63敗7分 勝率.488という成績を残し、国鉄スワローズ時代の1961(昭和36)年以来、球団史上13年振り2度目というAクラス(3位)を確保するという、大健闘を見せた。
ヤクルト13年振りAクラスという「快挙」達成の原動力となったのが、
この年(1974年)も17勝15敗1セーブ 防御率2.80という、大車輪の活躍で、
ヤクルトの大エースの貫禄を見せた松岡弘である。
まさに、松岡はヤクルトが誇る絶対的な大エースであった。
松岡弘のみならず、ヤクルト投手陣は奮闘し、
安田猛は、怪我での離脱が有ったものの、9勝5敗 防御率 3.18と、この年(1974年)も活躍し、
浅野啓司は、12勝15敗5セーブ 防御率2.39と、先発にリリーフにと、投げまくった。
すっかりヤクルトの正捕手に定着していた大矢明彦は、
そんなヤクルト投手陣を、よくリードしたが、
打撃でも、打率.239 14本塁打 41打点と、「打てる捕手」としても活躍した。
今やヤクルトの顔になっていた若松勉は、
この年(1974年)も、打率.312 20本塁打 74打点と、主軸として打ちまくった。
若松は、これで3年連続の打率3割達成である(※規定打席不足の1971年も含めれば、4年連続の打率3割)。
<1974(昭和49)年のプロ野球①…中日ドラゴンズが20年振りの優勝!!>
1974(昭和49)年のプロ野球は、時代の分岐点となるような「大事件」が次々に起こった。
まず、前年(1973年)まで「9年連続日本一」、所謂「V9」を達成していた、川上哲治監督の巨人を倒し、
巨人を追われ、「打倒・巨人」に燃えていた(※そんな人ばっかりであるが)、ウォーリー与那嶺監督率いる中日ドラゴンズが、エース・星野仙一の力投もあり、巨人とのデッドヒートを制し、中日が見事に20年振りの優勝を達成した。
遂に、「絶対王者」の巨人の時代が終わったのである。
<1974(昭和49)年のプロ野球②…「ミスター・プロ野球」長嶋茂雄が現役引退!!>
中日ドラゴンズ20年振り優勝の興奮も冷めやらぬ中、日本中を揺るがす衝撃のニュースが有った。
「ミスター・ジャイアンツ」「ミスター・プロ野球」と称された、スーパースター・長嶋茂雄が、遂に現役引退を発表したのである。
1974(昭和49)年10月14日、長嶋茂雄は後楽園球場で引退試合を行ない、
「我が巨人軍は永久に不滅です」という名台詞を吐き、野球界の太陽・長嶋茂雄の引退に、日本中が涙した。
なお、この時、巨人の正捕手として「V9」を支えた森昌彦も、長嶋と同時に現役引退したが、
森の引退は、誰にも注目されず、実にヒッソリとしたものであった。
しかし、これこそ「縁の下の力持ち」だった森らしい現役引退だったと言えるかもしれない。
<1974(昭和49)年のプロ野球③…かつての国鉄スワローズの大エース・金田正一監督率いるロッテオリオンズが、中日を破り日本一!!>
こうして、1974(昭和49)年の日本シリーズは、中日ドラゴンズと、かつての国鉄スワローズの大エース、金田正一監督率いるロッテオリオンズの対決となったが、「カネやん」のロッテオリオンズが、中日を4勝2敗で破り、見事に日本一の座に就いた。
この頃、「カネやん」こと金田正一は、現役時代以上の大人気となっており、「カネやん」ロッテの日本一に、野球界は沸きに沸いた。
<1975(昭和50)年のヤクルトスワローズ①…東映フライヤーズの主砲・大杉勝男がヤクルトに移籍!!>
1975(昭和50)年、ヤクルトスワローズにとって、大きな出来事が有った。
東映フライヤーズで、張本勲と共に主砲として活躍していた大杉勝男が、ヤクルトに移籍して来たのである。
強打者・大杉勝男の加入により、ヤクルト打線の厚みが増し、大杉は打線の中核に座ったが、
ヤクルト移籍1年目の1975(昭和50)年、大杉勝男は、打率.237 13本塁打 54打点という不振に終わってしまった。
しかし、この後、大杉は一念発起し、ヤクルトの主砲としても猛打を発揮する事となるのである。
<1975(昭和50)年のヤクルトスワローズ②…57勝64敗9分 勝率.471でBクラス(4位)に逆戻り>
荒川博監督、広岡達朗、沼沢康一郎、小森光生の「早稲田カルテット」体制2年目となった1975(昭和50)年、
大杉勝男の移籍により、更に戦力が上積みされたヤクルトスワローズは、前年(1974年)のAクラスの余勢を駆って、優勝を目指していた。
しかし、この年(1975年)のヤクルトは、今一つ、投打が噛み合わず、57勝64敗9分 勝率.471で、Bクラス(4位)に逆戻りしてしまった。
ヤクルトは、戦力的には決して見劣りしていたわけではなかったが、
この年(1975年)、長嶋茂雄新監督率いる巨人が、開幕さから最下位を独走し、残りの5球団による大混戦となったシーズンで、
年間通して、今一つ、波に乗れない状態が続いた。
エース・松岡弘は、13勝9敗6セーブ 防御率2.32と、相変わらず投手陣の柱として活躍したが、
若松勉は、打率.291 8本塁打 48打点と、プロ入り以来初めて、打率3割を割ってしまった。
しかし、主砲・ロジャーは打率.292 27本塁打 70打点という大活躍で、ヤクルト打線を牽引した。
この年(1975年)、エース・松岡以上に輝きを放ったのが、安田猛であった。
安田猛は、16勝12敗6セーブ 防御率2.73という、プロ入り以来最高の成績を残したが、
左腕からの、ノラリクラリとした投球に磨きがかかり、安田は王貞治をはじめ、各球団の主力選手を手玉に取った。
<1975(昭和50)年のプロ野球①…広島カープが、球団創立26年目で悲願の初優勝!!~「赤ヘルブーム」が巻き起こる~これで、セ・リーグでの優勝未経験はヤクルト1球団のみ>
1975(昭和50)年のセ・リーグは、この年(1975年)から帽子とヘルメットを、それまでの紺色から、派手な赤色に変えて、「赤ヘル軍団」と称された広島カープが、大混戦を制して、見事に広島が球団創立26年目の初優勝を達成した。
「万年Bクラス」の弱小球団だった広島カープの初優勝に、日本中で「赤ヘルブーム」が起こり、大騒ぎになったが、
これで、セ・リーグで優勝未経験なのは、ヤクルト1球団のみとなってしまった。
広島にまで先を越されてしまった、ヤクルトスワローズは、広島初優勝を見て、奮起しないわけにはいかなかったが、果たして、ヤクルトスワローズの運命や如何に!?
<1975(昭和50)年のプロ野球②…長嶋茂雄新監督率いる巨人、球団史上初(唯一)の最下位に転落>
前年(1974年)の現役引退で、日本中を涙させた長嶋茂雄は、現役引退後、即座に巨人の監督に就任した。
しかし、王貞治が怪我で戦線離脱するなど、この年(1975年)の長嶋巨人は、終始、大苦戦であった。
1975(昭和50)年の長嶋巨人は、終始振るわず、結局、巨人は球団史上初(唯一)の最下位に転落するという、屈辱の1年になってしまった。
しかし、負けに負け続ける長嶋監督を励まそうと、逆に巨人戦の観客動員は増え続けるという、珍現象も起こった。
やはり、スーパースター・長嶋茂雄に対する注目度は高かったのである。
<1975(昭和50)年のプロ野球③…史上2人目の通算600号本塁打を達成した野村克也、「ONが太陽に向かって咲くヒマワリなら、俺はヒッソリと咲く月見草」という名台詞を残す!!>
1975(昭和50)年5月22日、当時、南海ホークスの選手兼任監督を務めていた野村克也は、
王貞治に次ぎ、史上2人目となる通算600号ホームランを達成したが、その時、集まった記者に対し、
「ONが太陽に向かって咲くヒマワリなら、俺はヒッソリと咲く月見草」
という、歴史的な名台詞(?)を吐いた。
いくら活躍しても注目されないパ・リーグで過ごして来た野村の意地が込められた台詞であったが、
この後、野村もまた、「ON」に負けない大輪の花を咲かせる事となるが、それはもう少し先の話である。
<1975(昭和50)年のプロ野球④…上田利治監督率いる阪急ブレーブスが球団史上初の日本一!!>
1975(昭和50)年の日本シリーズは、上田利治監督率いる阪急ブレーブスが、
「赤ヘルブーム」で勝ち上がって来た広島カープを4勝0敗2分で破り、
阪急が、球団史上初の日本一の座に就いた。
ここから、阪急の無敵の黄金時代が始まるのだが、ヤクルトが無敵の王者・阪急に立ち向かう時が、この後、やって来る事となる。
(つづく)