去る2/11、野村克也が享年84歳で亡くなった。
当ブログでは、野村克也の追悼記事を書かせて頂いたが、
野村克也の功績は、あまりにも偉大すぎて、あのような短い記事では、とても書き切れるものではない。
そこで、野村克也への追悼の意味も込めて、
書きかけのまま中断していた、「ヤクルトスワローズドリームゲームと、ヤクルト球団50年史」の連載を、再開させて頂く事としたい。
前回の記事では、昨年(2019年)7/11に行われた、「ヤクルトスワローズドリームゲーム」の、両チームのスタメン発表と、
1970(昭和45)年、ヤクルトアトムズが歴史的な大惨敗を喫した所までを描いたので、今回は、その続きからである。
<スタメン発表の後、次々に神宮球場のグラウンドに飛び出して行く、ヤクルトの名選手達…ベンチで見守る、野村監督>
「ヤクルトスワローズドリームゲーム」における、両チームのスタメン発表が終わり、
いよいよ、両チームのスタメンの選手達が、グラウンドに登場する運びとなった。
野村克也監督率いる、1990年代のヤクルト黄金時代の中心メンバーで構成された、
「ゴールデンナインティーズ」で、捕手として先発出場するのは、勿論、古田敦也である。
野村監督が見守る中、古田は久々に、捕手のプロテクターを身に着けた。
「ゴールデンナインティーズ」で、センターとしてスタメン出場するのは、
当初、捕手として入団しながらも、野村監督に、野手としての適性を見出され、
二塁手に転向した後、外野手(センター)にコンバートされた、飯田哲也である。
飯田は、ヤクルトファンからの大歓声を浴びながら、元気良くグラウンドへと飛び出して行った。
真中満は、1993(平成5)年にヤクルトに入団し、外野手として活躍した後、
現役引退後は、ヤクルトの二軍監督、一軍打撃コーチなどを務めた後、
2015(平成28)年にはヤクルトの監督に就任し、ヤクルトを14年振りのリーグ優勝に導いた。
真中満もまた、野村監督の「ID野球」の薫陶を受けた選手であった。
土橋勝征は、野村監督率いる1990年代のヤクルトで、二塁手の定位置を確保し、
「つなぎ役」に徹して、しぶとい打撃と堅実な守備で、ヤクルト黄金時代を支えた。
野村ヤクルトに欠かせない、名選手の一人であった。
池山隆寛は、「ブンブン丸」と称された、豪快なバッティングが魅力だったが、
野村監督の指導により、「考える野球」を叩き込まれた。
ヤクルトの名ショートにして、球団史上に残る強打者として、球団史上最多の、通算304本塁打を放っている。
現役時代、大人気だった池山が登場すると、神宮球場のスタンドからは、ひときわ大きな歓声が起こった。
そして、野村監督の「ID野球」の「申し子」といえば、ご存知、古田敦也である。
野村監督の愛弟子として、野村監督の野球理論を全て教え込まれた古田敦也は、
野村ヤクルトの司令塔として、球界ナンバーワンの名捕手に成長し、
野村ヤクルトの象徴的存在として、通算2000安打も達成している。
古田は、野村監督とグータッチを交わし、グラウンドへと飛び出して行った。
その古田の登場で、神宮球場は、この日一番の大歓声に包まれた。
「さあ、役者は揃った!!」
私も、一緒に見ていた友人達も、ワクワクしながら、グラウンドを見ていた。
ヤクルトのチア軍団「Passion」と、つば九郎に送られ、各々グラウンドに飛び出して行った、
ヤクルトスワローズの歴史を彩った名選手達による、「夢の一夜」が、始まろうとしていた。
<1971(昭和46)年のヤクルトアトムズ…三原脩監督の就任1年目、最下位に終わるも、ロバーツが33本塁打と大活躍、若松勉、松岡弘が台頭!!>
1971(昭和46)年、ヤクルトアトムズの監督に、名将・三原脩監督が就任した。
三原脩監督は、娘婿である中西太と共にヤクルトに乗り込み、前年(1970年)に大惨敗を喫した、ヤクルトの再建に挑んだ。
ヤクルトは、前年(1970年)に続き、最下位にこそ終わったものの、52勝72敗6分 勝率.419と、前年よりも勝利数を「19」も増やし、
成績を向上させ、浮上の気配を見せた。
また、不動の4番、デーヴ・ロバーツは33本塁打 76打点という大活躍を見せた。
この年(1971年)のヤクルトは、次代を担うスター候補が台頭した年でもあった。
同年(1971年)、電電北海道からヤクルトに入団した若松勉は、身長168cmという小柄な身体ながらも、
高い打撃技術で、プロ1年目から、レフトのレギュラーを確保し、
若松勉は、規定打席不足ながらも打率.303を記録し(112試合 打率.303 3本塁打 15打点)、キラリと光素質を見せた。
その若松勉を、マンツーマンの熱血打撃指導で、鍛えに鍛えたのが、打撃コーチの中西太であった。
中西太は、文字通り、手取り足取り、若松を鍛え上げ、やがて若松がプロ野球を代表する大打者になる礎を築いた。
中西は、打撃コーチとして。この後も、次々に有望な選手の才能を開花させて行くという、稀有な名コーチとなって行くが、
その中西の指導に食らい付き、大打者に成長して行った若松も、見事であった。
この年(1971年)、プロ4年目の松岡弘は、14勝15敗 防御率.2.52(リーグ最多の37完投)と、
プロ入り初の二桁勝利を挙げ、松岡は大投手として歩み始めるキッカケを掴んだ。
このように、若松勉、松岡弘という、投打の柱が台頭し、この年(1971年)のヤクルトは実り多き年となった。
<「三原マジック」の片鱗①…1971(昭和46)年5月26日、ヤクルトVS巨人戦~代打・大塚徹に「1球も振るな」と指示し、大塚徹は押し出しサヨナラ四球を選ぶ!!~大塚徹は、プロ通算4度も「押し出しサヨナラ四球」を選ぶ>
このように、三原脩監督は、ヤクルトを建て直し、ヤクルト浮上のキッカケを作ったが、
この年(1971年)の5月26日、神宮球場で行われたヤクルト-巨人戦で、「三原マジック」の片鱗を見せるような、凄い采配を見せた。
4-4の同点で迎えた9回裏、ヤクルトは無死満塁という、一打サヨナラのチャンスを掴むと、
三原監督は、代打・大塚徹を起用したが、何と、三原監督は大塚に対し、「1球も振るな」という指示を出した。
すると、大塚徹はその指示の意図を汲み、1球ごとに鋭い素振りを繰り返し、マウンド上の高橋一三(巨人)を睨み付け、
打ち気満々という「芝居」をしたが、結局、1球も振らずに、大塚はカウント2-3のフルカウントから、見事に「サヨナラ押し出し四球」を選んだ。
まさに、「三原マジック」の面目躍如であったが、実は三原監督は、仮に大塚が打てなくても、
次の打者・武上四郎なら打ってくれるだろうという事で、「四球なら儲け物」というつもりで、大塚に「芝居」をさせたという。
大塚徹は、その意図通りに、見事に期待に応えて見せたが、実は大塚は、プロ野球人生で通算4度も「サヨナラ押し出し四球」を選ぶという記録を残している。
①アトムズ 1969年9月6日 対巨人23回戦(神宮)10回1死 投手:高橋一三
②ヤクルト 1971年5月26日 対巨人10回戦(神宮)9回0死 投手:高橋一三
③南海 1972年8月11日 対近鉄13回戦(大阪)9回1死 投手:神戸年男
④南海 1973年8月7日 対日拓後期1回戦(大阪)9回2死 投手:新美敏
高橋一三(巨人)からは、この2年前(1969年)にも「サヨナラ押し出し四球」を選んでおり、
高橋は大塚の顔を見て、その時の嫌な記憶が蘇ったのかもしれない。
大塚徹は、ヤクルト-南海と渡り歩き、水島新司の『あぶさん』の初期にも、しばしば登場したが、
その後、息子の大塚淳が2003(平成15)年にヤクルト入団を果たし、「親子鷹」として話題になった。
なお、大塚徹は、2018(平成30)年に、享年73歳でこの世を去っている。
<「三原マジック」の片鱗②…1971(昭和46)年に「投打二刀流」で活躍した外山義明>
ヤクルトにおける、「三原マジック」の象徴的存在となったのが、外山義明である。
1971(昭和46)年、外山義明は三原監督に「投打二刀流」として起用され、
外山は投手として5勝11敗、打者としても代打や外野手として起用され、打率.211 3本塁打 11打点という成績を残した。
外山は、その後、ロッテ-南海と渡り歩いたが、実働僅か4年という短命に終わってしまった。
しかし、「投打二刀流」の選手として、しばしば名前が挙げられる、印象深い選手であった。
<1972(昭和47)年のヤクルトアトムズ…三原ヤクルトの2年目、60勝67敗3分 勝率.472で4位に浮上!!~安田猛が新人王、若松勉が首位打者を獲得!!>
三原脩監督就任2年目、1972(昭和47)年のヤクルトアトムズは、
更なる大健闘を見せ、2年連続最下位の低迷から脱し、60勝67敗3分 勝率.472で4位に浮上した。
ヤクルトは、着実に力を付けつつあった。
そのヤクルト浮上の原動力となったのが、1947(昭和22)年生まれ、当時24歳という若手の台頭であった。
1947(昭和22)年生まれの、松岡弘、大矢明彦、若松勉は、この頃、既にヤクルトの主力として活躍したが、
彼らと同じ1947(昭和22)年生まれで、この年(1972年)、早稲田大学-大昭和製紙を経て、ヤクルトに入団した新人左腕投手・安田猛は、プロ1年目から、堂々の大活躍を見せた。
安田猛は、常に飄々としており、左腕からひょいと軽く投げるような投球スタイルで、各球団の打者を翻弄し、
特に、巨人の大打者・王貞治には滅法強く、「王キラー」という異名を取った。
安田猛は、プロ1年目の1972(昭和47)年、リーグ最多の50試合に登板し、7勝5敗 防御率2.08で、最優秀防御率と新人王のタイトルを獲得した。
若松勉は、プロ1年目(1971年)のシーズンオフ、背番号を「57」から「1」に変更したが、
若松は、その期待に応え、プロ2年目(1972年)は更に打撃技術を開花させた。
若松勉は、1972(昭和47)年に打率.329 14本塁打 49打点の見事な成績を残し、初の首位打者を獲得した。
ヤクルトのエース・松岡弘は、この年(1972年)、17勝18敗 防御率3.09という成績を残したが、
松岡は勝ち星も多ければ負け数も多かった。
しかし、この年(1972年)もリーグ最多の36完投を記録し、勝っても負けても、エースとしてヤクルトのマウンドを守り続けた。
このように、ヤクルトは投打に若手が台頭し、進境著しいチームとなって行った。
プロ2年目の荒川尭は、この年(1972年)、打率.282 18本塁打 42打点という好成績を残した。
荒川は、いよいよ素質を開花させたかに思われたが、やはり「荒川事件」の後遺症は大きく、視力も低下し、
この後、成績を下降させて行ってしまう事となった。
名選手になる素質が有っただけに、返す返すも「荒川事件」は非常に痛ましい出来事であった。
<1973(昭和48)年のヤクルトアトムズ①…「三原ヤクルト」3年目の集大成!!~大混戦のセ・リーグで62勝65敗3分 勝率.488で首位・巨人とは4.5ゲーム差の4位>
1973(昭和48)年、三原脩監督の就任3年目、「三原ヤクルト」体制3年目を迎え、
いよいよ「三原ヤクルト」は集大成の時を迎えた。
この年(1973年)、ヤクルトは62勝65敗3分 勝率.488で、優勝した巨人に4.5ゲーム差と肉薄する、4位という成績を残した。
1973(昭和48)年のセ・リーグは、歴史的な大混戦であった。
最終的に、優勝した巨人から、最下位・広島まで、1~6位が僅か6.5ゲーム差にひしめき合い、
全球団が、シーズン中に一度は首位に立つという、凄まじい混戦であった。
最終的には、巨人が阪神との「勝った方が優勝」という最終決戦を制し、巨人が「V9」を達成したが、
三原ヤクルトも、大混戦を盛り上げる大健闘を見せ、優勝戦線に加わり、「あわや初優勝か」という戦いぶりであった。
<1973(昭和48)年のヤクルトアトムズ②…松岡弘が21勝17敗、若松勉が打率.313と大活躍~若松は「オールスターMVP」を獲得!!>
1973(昭和48)年のヤクルトは、三原脩監督に育てられた選手達が、存分に素質を開花させたシーズンでもあった。
今や不動のヤクルトのエースとなった松岡弘は、21勝18敗 防御率2.23(25完投)という、抜群の成績を残し、
松岡は遂に初の「20勝」を達成し、ヤクルト大躍進の原動力となった。
若松勉は、打率.313 17本塁打 60打点の好成績(打率はリーグ2位)で、4番としてヤクルト打線の中核となった。
なお、若松はこの年(1973年)のオールスター第1戦でMVPを獲得し、
若松は「小さな大打者」として、押しも押されもせぬ大スターの仲間入りを果たした。
安田猛は、プロ2年目のこの年(1973年)、リーグ最多の53試合に登板し、10勝12敗 防御率2.02で、
安田は2年連続の最優秀防御率のタイトルを獲得した。
このように、松岡弘、安田猛、若松勉、大矢明彦の「1947(昭和22)年組」は、ヤクルトの主力として躍動していた。
彼らはいずれも、後のヤクルト初優勝(1978年)の中心メンバーとなるのである。
<1973(昭和48)年のヤクルトアトムズ③…「史上最悪のダメ外人」ジョー・ペピトーン騒動記>
さて、1973(昭和48)年のヤクルトアトムズといえば、歴史に残る「ダメ外人」の騒動に振り回された年としても記憶されている。
この年(1973年)、ヤクルトは、やや衰えの見えていたデーヴ・ロバーツを解雇し、
かつて、ニューヨーク・ヤンキースやアトランタ・ブレーブスなどで活躍していた「大物大リーガー」の、ジョー・ペピトーンと契約した。
しかし、このペピトーンという男は、アメリカ大リーグでも有名なトラブルメーカーであり、ヤクルトは、ろくに身辺調査もせず、この男と契約してしまったのであった。
ペピトーンは、シーズン途中の6月16日に、ヤクルトと契約したが、
ペピトーンは完全に日本のプロ野球をナメ切っており、
「あそこが痛い、ここが痛い」と言っては、ロクに試合に出場もせず、サボりまくった。
そして、「アキレス腱の治療」と言っておきながら、赤坂のディスコで踊り狂う姿も目撃されたりしていた。
挙句の果てに、シーズン中の9月12日、ペピトーンはアメリカに無断帰国してしまう始末であった。
結局、ペピトーンは14試合に出場、43打数7安打 打率.163 1本塁打 2打点という惨憺たる成績に終わったが、
何と、この後もヤクルトはペピトーンをクビにせず、翌年(1974年)更に、彼に振り回される事となる。
<その頃、野村克也は…鶴岡一人監督との「確執」を経て、南海ホークスで「選手兼任監督」として奮闘!!~1973(昭和48)年には南海をリーグ優勝に導く!!>
その頃、パ・リーグの南海ホークスの不動の「4番・捕手」だった野村克也は、激動の季節を過ごしていた。
1965(昭和40)年のシーズンオフ、南海・鶴岡一人監督が、一旦は辞任しながらも、後任の蔭山和夫監督が急死してしまい、
一転して、南海監督に復帰したという出来事が有ったが、その際に、鶴岡は監督復帰を懇願しに来た野村に対し、
「何が三冠王じゃ!!南海に本当に貢献したのは杉浦だけじゃ!!」と言い放ち、
野村は大きなショックを受け、これ以降、野村と鶴岡の関係は決定的に悪化し、修復不可能となってしまった。
1970(昭和45)年、野村克也は、南海ホークスの「選手兼任監督」に就任すると、
ドン・ブレイザーをコーチに据え、「考える野球」を南海に浸透させ、南海に意識改革を促した。
すると、南海は前年(1969年)の最下位から、一挙に2位に浮上した。
1973(昭和48)年、野村克也率いる南海ホークスは、この年(1973年)から前後期制となったパ・リーグで、まずは前期優勝を果たし、後期優勝の阪急ブレーブスと戦ったプレーオフで、南海が阪急を3勝2敗で破り、遂に南海がリーグ優勝を果たした。
後に「ID野球」でヤクルトで黄金時代を築き上げる事となる野村克也は、この時、38歳の若さであった。
<その頃、広岡達朗は…巨人を退団(現役引退)に追い込まれ、広島カープでコーチに就任~根本陸夫監督、関根潤三、広岡達朗の両コーチ体制で、後の広島黄金時代の基礎を築く>
一方、巨人の名ショートとして活躍していた広岡達朗は、
巨人・川上哲治監督と全くソリが合わず、1966(昭和41)年限りで、広岡は遂に巨人を退団に追い込まれ、
広岡は、そのまま現役引退してしまった。
川上監督は、キャンプの時にも取材陣に対し、徹底した取材規制を行ない、
その規制は「哲のカーテン」と称されたが、特に、現役引退した広岡が現れると、
「あいつとは、誰も口を利くな」と言って、巨人の選手達に、広岡を徹底的に無視させるという嫌がらせを行なった。
その時、巨人の選手の中で唯一、広岡と話してくれたのは、捕手・森昌彦だったという。
この後、広岡と森は、切っても切れない間柄として、親交を深めて行った。
広岡は、川上監督の嫌がらせにも負けず、その後、自費でアメリカに渡り、
独学でアメリカ大リーグを視察するなど、研鑽を重ねた後、
1970(昭和45)年、広島カープの根本陸夫監督に招かれ、広岡は関根潤三と共に、広島カープのコーチに就任した。
こうして、広岡達朗もまた、指導者としての道を歩み始め、「打倒・巨人」「打倒・川上」に向けて、虎視眈々と牙を研いでいた。
(つづく)