流行歌と野球の歴史②…1877(明治10)~1887(明治20)年~文明開化と新橋アスレチックス | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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法政大学野球部を中心として、東京六大学野球についての様々な事柄について、思いつくままに書いて行くブログです。
少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

「明治」という時代が幕を開け、日本は国を挙げて、西洋の文物を積極的に取り入れるようになった。

所謂「文明開化」の時代が到来したのである。

 

 

そして明治時代の到来と共に、日本は野球(ベースボール)という舶来の競技を受け入れ、

近代的な音楽教育も開始されたが、今回も野球と音楽(流行歌)というキーワードで、

「明治」という激動の時代を振り返ってみる事としたい。

 

<1877(明治10)年12月6日…「発明王」エジソンが、世界初の蓄音機を開発!!>

 

 

 

1877(明治10)年12月6日、アメリカの「発明王」、トーマス・A・エジソンが、

世界初の「蓄音機」を発明し、その「蓄音機」で音を録音、再生する事に成功した。

これにより、人類は「音を記録する」という、画期的な道具を得たのである。

 

 

ちなみに、エジソンが発明した「蓄音機」は、

「蓄音機」に付いているダイヤルをグルグル回し、

円柱の蝋管に音を深さで刻むという、蝋管式蓄音機であり、

音を出すには、音の溝を針でなぞり、そのまま機械的に振動板へ振動を伝える構造になっている。

振動板の中心点に接着してある紐が引っ張って、振動を伝える仕組みなのだが、かなり複雑な構造である。

しかし、兎にも角にも、「音を録音する」技術を発明したというのは、人類の歴史に残る偉業であった。

 

<1877(明治10)年4月12日…エリート養成学校「東京大学」が誕生!!>

 

 

 

 

1877(明治10)年4月12日、江戸時代の昌平坂学問所、蕃書調所、西洋医学校などを源流とし、

それらを集大成した国立大学である、「東京大学」が創立された。

東京大学(東大)は、国家を担うエリートを養成するための官立学校であり、

ごく少数の、選び抜かれた秀才のみが入る事が出来る、狭き門であった。

 

 

なお、東大の象徴たる、東大・本郷キャンパスの「赤門」は、元々は江戸時代の加賀藩邸の門として建てられたものである。

なお、1877(明治10)年の創立当時、東大は法・理・文・医の4学科が設置された。

 

<1878(明治11)年…日本初の野球チーム「新橋アスレチックス」が誕生!!~1888(明治21)年まで10年にわたり、活動>

 

 

前回の記事で述べた通り、日本野球史は、開成学校(※後の、旧制第一高等学校=東京大学)と、開拓使仮学校(※後の、北海道大学)に野球が伝来した事により始まったが、

その学生野球の流れとは別に、1878(明治11)年、鉄道技師・平岡凞が、日本初の野球チーム「新橋倶楽部アスレチックス」(「新橋アスレチックス」)を結成した。

平岡凞は、鉄道技師としてアメリカのボストンに留学し、そこで野球という競技を知ると、日本に帰った後、工部省鉄道局に勤務する傍ら、

仲間を募って野球チーム「新橋アスレチックス」を結成し、新橋に「保健場」という名の、日本初の野球場まで作ってしまった。

 

 

その後、「新橋アスレチックス」は1878(明治11)~1888(明治21)年の10年間、平岡凞が鉄道局を退職するまで存続し、

平岡凞は、アメリカから輸入した野球のルールブックを翻訳したり、ユニフォームや野球道具などを揃え、野球の普及に努めた。

なお、平岡凞は「日本野球の創始者」として、野球殿堂で顕彰されている。

 

<1878(明治11)年…『梅が枝の手水鉢(ちょうずばち)』…清王朝の音楽『漢々能(かんかんのう)』が転化し、仮名垣魯文が作る?>

 

 

 

 

1878(明治11)年に流行した歌が、『梅が枝の手水鉢(ちょうずばち)』である。

「梅が枝の手水鉢(ちょうずばち) たたいてお金が出るならば もしも お金が出たならば その時ゃ 見受けを それ頼む…」

といった歌詞が、リズム良く続いて行く歌である。

 

 

 

なお、『梅が枝の手水鉢(ちょうずばち)』は、元々は中国の清王朝の音楽『漢々能(かんかんのう)』がルーツであり、

その曲に、明治時代に活躍した作家・仮名垣魯文が詞を書いたものであるという説が有るが、定かではなく、

作詞・作曲者は不詳という事になっている。

 

<1878(明治11)年…大久保利通が紀尾井坂で暗殺される>

 

 

 

 

1878(明治11)年、当時、明治政府の事実上のトップに君臨していた大久保利通が、

東京・紀尾井坂で暴漢に襲われ、暗殺されてしまった。

前年(1877年)、「西南戦争」により、かつての大久保の盟友・西郷隆盛が敗北し、自刃していたが、

その翌年に、大久保もまた、悲劇的な最期を迎えてしまったのである。

なお、西郷や大久保が亡くなった事により、以後、明治政府は伊藤博文が台頭し、伊藤の時代を迎える事となった。

 

<1879(明治12)年…日本初のレコード吹き込み~福地桜痴が、「こんな機械が出来たら新聞が売れなくなる」と愚痴ったのが、日本初のレコーディング!?>

 

 

 

1877年、アメリカの「発明王」エジソンが、「蓄音機」を発明した事は前述したが、

その翌年(1878年)には、早くも日本に「蓄音機」が紹介されている。

そして、1879(明治12)年、東京日日新聞の主筆・福地桜痴が、

レコードの公開録音実験を行ない、「こんな機械が出来たら、新聞が売れなくなる」と愚痴った。

これが、日本初の「レコーディング」と言われているが、

日本で初めて録音されたのは、歌や音楽ではなく、新聞屋の愚痴だったというのは、大変面白い。

 

<1879(明治12)年…日本初の音楽教育機関「音楽取調掛」が創立~「日本音楽の父」伊沢修二とメーソン~1882(明治15)年にメーソンが帰国し、1883(明治16)年に後任教授・エッケルトが就任>

 

 

1879(明治12)年、明治政府は、近代化政策の一環として、

日本初の音楽教育機関である「音楽取調掛」を創立した。

それまでの日本の音楽は、精々が三味線をBGMに歌うような小唄ばかりであったが、

国家全体の近代化を目指すにあたり、専門的な音楽教育機関を作り、音楽の近代化をも目指した。

 

 

 

 

「音楽取調掛」は、信濃国の下級武士だった伊沢修二を中心に創立され、

創立の翌年である1880(明治13)年には、アメリカの高名な音楽家である、ルーサー・メーソンが来日し、

メーソンは、同校の教授に就任した。

メーソンは、元々はドイツの古い童謡だった『蝶々』(※「ちょうちょ ちょうちょ 菜の葉にとまれ…」という歌詞でお馴染み)などを教材に使い、生徒達に音楽教育を施して行った。

 

 

1882(明治15)年、メーソンが任期満了により、惜しまれつつ退任し帰国すると、

後任教授として、ドイツ人のエッケルトが就任し、引き続き「音楽取調掛」で音楽教育にあたった。

このように、官立の音楽学校によって、日本の音楽もまた「夜明け」の時代を迎えたのであった。

 

<音楽取調掛」が発行した『小学唱歌集』(1881(明治14)年が初編)~唱歌の名曲の数々が収録!!>

 

 

 

1881(明治14)年、「音楽取調掛」により初編が発行された『小学唱歌集』では、

学校教育のために、様々な唱歌を収録している。

以下、『小学唱歌集』に収録された名曲のいくつかを、ご紹介して行く事としたい。

 

【小学唱歌集の名曲(1)…『見わたせば(むすんでひらいて)』(1881(明治14)年)】

 

 

 

 

18世紀に活躍した哲学者にして、音楽家でもあったルソーが作曲したと言われる曲に、

当初、柴田清凞が、「見渡せば 柳桜をこきまぜて 都ぞ春の錦なりける」という古歌を元に作詞していたが、

その後、子供向けに作り直された「むすんで ひらいて」という歌詞の方が有名になり、今日に至っている。

「見わたせば…」と言われても、何の歌だかわからなくても、「むすんで ひらいて」であれば、誰もが知っている筈である。

 

【小学唱歌集の名曲(2)…『蛍の光』(1881(明治14)年)】

 

 

 

 

元々、スコットランド民謡だった曲に、稲垣千穎が詞を付け、

誰もが知る名曲として、日本人に広く愛されるようになったのが、ご存知『蛍の光』である。

『蛍の光』は、今もなお、学校の卒業式の定番ソングや、お店の閉店のBGMとしても、お馴染みである。

 

 

 

だが、『蛍の光』は、今ではあまり歌われなくなった3番、4番の歌詞もあり、

その歌詞は、日本人としての真心や誇りなどを称揚するような内容となっている。

それはともかく、スコットランド民謡は、何処か日本人の琴線に触れるような旋律であると、私は思う。

 

【小学唱歌集の名曲(3)…『仰げば尊し』(1884(明治17)年)】

 

 

 

学校の卒業式の定番ソングといえば、『仰げば尊し』も外すわけにはいかない。

『仰げば尊し』は、1884(明治17)年、『小学唱歌集』の第3編に収録され、

以後、唱歌の枠を超えて、広く日本人に愛されて来た。

 

 

なお、『仰げば尊し』は、長い間、作詞・作曲者は不詳とされていたが、

近年、アメリカで『仰げば尊し』の原曲と思われる楽譜が発見され、話題になった。

今後の更なる研究が待たれるところである。

 

【小学唱歌集の名曲(4)…『才女(アニーローリー)』(1881(明治14)年)】

 

 

 

 

原曲は、イギリスの女流作曲家・スコットが作曲した曲に、

1番は紫式部、2番は清少納言を称賛する歌詞を付けたのが、『才女(アニーローリー)』である。

『アニーローリー』もまた、名曲として有名であるが、

このように『小学唱歌集』は、数々の外国の名曲を紹介しており、日本の音楽の発展に大きく寄与した。

 

<1880(明治13)年…『君が代』が作曲される~『古今和歌集』の詠み人知らずの古歌が由来>

 

 

 

1880(明治13)年、元々は『古今和歌集』に収められていた古歌を元にして、

宮内省楽師を務めていた林広守によって作曲されたのが、『君が代』である。

『君が代』は、元々は古くから有る歌が元になっているが、作曲されたのは意外と新しい時代という事である。

 

 

 

ちなみに、『君が代』の歌い出しの歌詞は、元々の古歌では「我が君は…」であり、

妻が夫の長寿を願うような内容であったが、それが「君が代は…」に書き換えられ、

君主を言祝ぐような内容へと変えられたようである。

それはともかく、『君が代』は日本人であれば知らない人は居ない歌という事もあり、ここにご紹介させて頂いた。

 

<自由民権運動の高揚と「演歌」の誕生~カリスマ・板垣退助が「演歌」の生みの親だった!?>

 

 

 

 

この時代、日本初の音楽教育機関「音楽取調掛」が創設された一方、民間から盛り上がった、新しい音楽も有った。

その元になったのが、板垣退助らが主導した、「自由民権運動」である。

板垣退助は、明治政府のメンバーの1人だったが、1873(明治6)年に、「明治六年の政変」により、西郷隆盛らと共に下野すると、

その後、板垣退助は、武力ではなく、言論で政府に対抗しようという運動を起こした。

それが「自由民権運動」と称される活動であった。

 

 

 

 

1877(明治10)年に、西郷隆盛が「西南戦争」で敗れ、自刃してからは、

「自由民権運動」は、より一層、盛り上がりを見せたが、政府も様々な法律を制定し、「自由民権運動」を取り締まった。

板垣退助らは、日本各地で演説会を開き、舌鋒鋭く政府を批判したが、その演説会は警察に目を付けられ、

しばしば、演説中に逮捕される者も居たという。

当時は、「言論の自由」という概念など、まだ無い時代であった。

 

 

 

 

1881(明治14)年、板垣退助を党首とする自由党が結成され、「自由民権運動」はいよいよ高揚していたが、

翌1882(明治15)年4月6日、自由党党首・板垣退助が演説会のために岐阜を訪れていた折に、

突如、暴漢に襲われ、重傷を負ったが、板垣は一命を取り留めた。

その際に、板垣は「板垣死すとも自由は死せず!!」という「名言」を吐いたとされるが(※今なら、間違い無く流行語大賞を獲ったであろう)、

この出来事により、板垣の名声、カリスマ性は更に高まった。

 

 

 

この頃、自由民権運動の演説を歌にして、広く民衆に訴えかけようとする動きが起こったが、

これこそが、「自由民権運動の演説の歌」、所謂「演歌」であった。

つまり、「演歌」というのは板垣退助らの考えを世に広めるための、一種の「政治ソング」として誕生したのである。

 

 

 

1885(明治20)年、日本初の本格的な「演歌」と言われる、『ダイナマイトどん』(『ダイナマイト節』)が誕生したが、

作詞・作曲は演歌壮士団という、板垣の自由党系の壮士達であった。

以後、「演歌」も日本の音楽界を代表する一大ジャンルとして発展して行く事となった。

 

<1881(明治14)年…「明治十四年の政変」で伊藤博文に敗れ、大隈重信が下野>

 

 

 

 

1881(明治14)年、当時の明治政府で二大勢力となっていた伊藤博文と大隈重信は、

高まる「自由民権運動」に対し、国会開設の時期を巡って、考え方が対立していたが、

結局、伊藤博文の勢力が勝り、大隈重信は政府を追放され、下野してしまった。

これが、有名な「明治十四年の政変」であるが、以後、大隈もまた、在野で政府に抵抗するようになって行った。

 

<1880(明治13)年に法政、1881(明治14)年に明治、1882(明治15)年に早稲田が次々に創立!!~大隈重信は早稲田と立憲改進党を作り、明治政府に抵抗!?>

 

 

 

この頃、現在まで続く有名私立大学の元になる私学が、次々に誕生している。

1880(明治13)年に東京法学社(後の法政大学)、1881(明治14)年に明治法律学校(後の明治大学)、1882(明治15)年に東京専門学校(後の早稲田大学)が、それぞれ創立されたが、このように法政、明治、早稲田は、ごく近い時期に誕生したのであった。

 

 

 

「明治十四年の政変」で、政府を追い出された大隈重信は

翌1882(明治15)年、私財を投じて、新たに学校を創立した。

それが東京専門学校、後の早稲田大学であるが、早稲田の「在野の精神」は、学校創立の経緯からして、当然だったと言えよう。

 

 

 

更に、大隈重信は、同年(1882年)に立憲改進党を結成し、

板垣退助の自由党と共に、明治政府に対抗する構えを見せた。

なお、同年(1882年)には、あの「日本初のレコーディング」を行なった福地桜痴(源一郎)も、

立憲帝政党という、政府の御用政党を作っている。

 

<1885(明治18)年…日本初の内閣が誕生~伊藤博文が初代総理大臣に就任>

 

 

 

1885(明治18)年12月、内閣制度が誕生した。

伊藤博文を初代総理大臣として、日本初の内閣が誕生したが、初代内閣のメンバーは、

ご覧の通り、ほぼ薩摩・長州の「薩長」のメンバーで占められていた。

板垣退助の自由党も、大隈重信の立憲改進党も、当然、これには反発したが、

このような時期に盛り上がったのが、あの「演歌」だったわけである。

 

<1885(明治18)年…『抜刀隊』と『ちょんこ節』~警視抜刀隊を称える歌と、警官を揶揄する歌>

 

 

 

日本に内閣制度が誕生した1885(明治18)年は、対照的な2つの歌が流行った。

1つは、「新体詩抄」に発表された外山正一の詞に、フランスから招かれ、陸軍軍楽隊教師を務めていた、シャルル・ルルーが作曲した、『抜刀隊』である。

 

 

 

 

 

『抜刀隊』とは、初代警視総監・川路利良のよって組織され、

あの「西南戦争」で、西郷隆盛率いる薩摩軍とも戦った、警視庁の精鋭部隊であるが、

『抜刀隊』は、その警視抜刀隊を称えるための軍歌として作られた。

 

 

 

 

一方、同じ1885(明治18)年に流行った『ちょんこ節』(『チョンコ節』)は、

「ちょんこ唄えば巡査が叱る 叱る巡査の子が唄う ちょんこちょんこ…」

といったような調子で、警官を揶揄するような調子のお座敷小唄である。

お上が作った、大仰な『抜刀隊』に対し、庶民は『ちょんこ節』のような歌を好んだが、

日本の音楽には、「お上の音楽」と「大衆の音楽」という、2つの潮流が有るという好例であろう。

なお、『ちょんこ節』は後年、小林旭も歌っている。

 

<1887(明治20)年…ドイツ人のエミール・ベルリナー、グラモフォンレコード(円盤型のレコード)を発明!!>

 

 

 

 

1887(明治20)年、ドイツ人のエミール・ベルリナーが、グラモフォンレコードを発明した。

これこそ、世界初の円盤型レコードであり、以後、円盤型レコードの時代が到来した。

これにより、音楽の録音を、より沢山、より簡単に後世に残す事が出来るようになったが、

この事は、「多くの人達が、家に居ながらにして、音楽を楽しめる時代」の到来を意味した。

そして、間もなく日本にもレコードの時代がやって来る事となる。

 

(つづく)