1872(明治5)年頃、日本に初めて野球が伝来して以来、最も早く野球に熱中したのが、
開成学校(後の旧制第一高等学校)の学生達だったという事は、既に述べた。
彼らは、舶来の野球という競技に夢中になっていた。
その後、旧制第一高等学校、略して「一高」の野球部が台頭して行く事となるが、
今回は、一高の台頭と、その頃の流行歌などについて、描いて行く事としたい。
<日本の学校教育制度の変遷①…1872(明治5)年「学制」発布>
では、一高の台頭について描く前に、明治時代の学校教育制度の変遷について、簡単に述べておく事としたい。
1872(明治5)年、明治政府は近代的な学校教育の普及を目指し、「学制」を発布した。
江戸時代にも、藩校や寺子屋、私塾などは日本各地に有ったが、「学制」とは、国家による教育制度を整え、「国民皆学」を目指したものである。
しかし、教育費は民衆が負担するというものであり、各地で「学制反対一揆」が相次ぐなど、反発も大きく、就学率はあまり伸びなかった。
<日本の学校教育制度の変遷②…1879(明治12)年「教育令」、1880(明治13)年「改正教育令」公布>
1879(明治12)年、「学制」は廃止され、「教育令」が公布されたが、
「教育令」は義務養育年限を8年を原則としたものの、それを4年まで短縮する事が出来るというものであり、
1年間の授業期間を4ヶ月以上とするものである(※つまり、4ヶ月×4年間=16ヶ月間が、最低限の就学期間)。
しかし、「教育令」はアメリカの自由主義教育の影響を色濃く受けた制度であり、就学率は却って停滞したままであった。
翌1880(明治13)年、「改正教育令」が公布された。
「改正教育令」により、国家による教育統制が強化されたが、
「改正教育令」では、尋常小学校の初等科3年、中等科3年、高等科2年が、就学期間となった。
<日本の学校教育制度の変遷③…1886(明治19)年「学校令」(小学校令、中学校怜、帝国大学令、師範学校令)が公布~初代文部大臣・森有礼が教育制度改革を断行>
1886(明治19)年、初代文部大臣・森有礼により、「教育令」が公布された。
「学校令」とは、小学校令、中学校怜、帝国大学令、師範学校令の総称であり、
各種学校ごとに法令を整えたものである。
「学校令」により、尋常小学校4年が義務教育として定められた。
以上の学校教育制度の変遷をまとめると、ご覧の通りであるが、
学校教育制度が整えられると、明治時代末期には、男女児童の殆んどが小学校に通うようになった。
その後、学校教育制度は整備され、義務養育である尋常小学校を卒業すると、
学力に優れた生徒は、上の学校に進むという体制が整えられた。
勿論、経済的に裕福ではない家庭の子は、上の学校に行きたくても行けないという例も多数有った。
そして、この学校教育制度の頂点に立つのが、東京大学(東大)であり、東大の予備門に位置付けられる、旧制第一高等学校(一高)という、超エリート校であった。
<東京大学(東大)が、日本野球の黎明期をリード~工部大学校、駒場農学校などの「ライバル校」を次々に吸収し、東京帝国大学に>
というわけで、東大と一高を頂点とする教育制度が整って行く過程をご紹介したが、
東大と一高は、日本野球の発展を牽引するという、重要な役割も担った。
まず、野球が初めて伝来した開成学校と医学校などが合併し、1877(明治10)年に東京大学(東大)が誕生したが、
東大では、開成学校の流れを汲む法学部を中心に、野球が盛んに行われた。
東大は、当時、学内で野球の練習や試合などを行なっていたが、
東大の当時の野球のライバルは工部大学校であり、東大と工部大学校は、盛んに試合を行なっていた。
しかし、1886(明治19)年に、東大と工部大学校は合併し、以後、東京帝国大学と改称された(※当ブログでは、以後も東大と記す事とする)。
なお、東大は駒場農学校とも、よく野球の試合を行なっていたが、駒場農学校は、工部大学校よりも更に強かった。
しかし、1893(明治26)年に、東大は駒場農学校をも吸収してしまったため、東大と駒場農学校の対戦も終わりを告げた。
こうして、東大が駒場農学校や工部大学校を次々に吸収して行く傍ら、野球界で台頭著しい存在となっていたのが、
東大の弟分の、第一高等学校(一高)であった。
<第一高等学校(一高)の誕生~東大の「弟分」のエリート学校>
第一高等学校(一高)は、東大の「弟分」のような存在であり、
一高の卒業生が、そのまま東大に進むため、一高生といえば、エリートの代名詞であった。
という事で、一高が成立して行く過程は、下記の通りである。
1874(明治7)年…東京英語学校(神田、一ツ橋) ※開成学校、から語学課程を分離した官立学校
1877(明治10)年…東大予備門と改称 ※官立東京開成学校普通科(予科)が合併
(1882(明治15)年…東大医学部予科を合併、1885(明治18)年…東京法学校予科、東京外国語学校仏学科、独学科を合併)
1886(明治19)年…第一高等中学校と改称 ※帝国大学令、中学校怜により、工科大学予科を合併。予科3年、本科2年に
1887(明治20)年…医学部を千葉に設立 ※その後、分離し現在の千葉大学医学部に
1889(明治22)年…一ツ橋から本郷・向ヶ岡の新校舎に移転 ※現在の東大農学部が有る地域
1890(明治23)年…木下廣次校長が学生自治を認め、自治寮を開設
1894(明治27)年…第一高等学校と改称(※同年3月に予科を廃止、本科3年のみとなり、7月に第一高等学校と改称)
このように一高は発展して行ったが、
ほんの一握りのエリートしか入れない一高において、野球が熱烈に愛好され、やがて日本一の強豪となって行ったのは、一体、何故だったのであろうか?
以下、その過程を紐解いて行く事としたい。
<1882(明治15)年…新橋アスレチックスVS駒場農学校で、日本初の野球対抗試合が開催!!~以後、一高をはじめ、私学で野球部が次々に創部され、「野球ブーム」が到来!!~1886(明治19)年…工部大学VS波羅大学で、初の大学対校戦が開催>
1877(明治10)年、アメリカ帰りの鉄道技師・平岡凞により、日本初の野球チーム「新橋アスレチックス」が結成された事は、既に述べたが、以後、暫くは仲間同士で試合を行なうか、横浜の外人チームと試合を行なうか、そのどちらかであった。
しかし、1882(明治15)年、遂に新橋アスレチックスVS駒場農学校という顔合わせで、日本初の野球対抗試合が行われた。
以後、各地の学生達の間で、一挙に野球熱が燃え上がった。
1883(明治16)年~以降、工部大学校(後に東大に合併)、東京英和学校(後の青山学院)、波羅大学(後の明治学院)など、
各地の学校で、次々に野球部が創部されて行った。
学生達は、野球という舶来でハイカラなスポーツに、忽ち魅了されてしまったのであった。
1886(明治19)年には、工部大学校VS波羅大学(明治学院)というカードで、
日本初の大学対校戦が開催されたが、以後、各校同士の対校戦も活発に行われるようになった。
日本に野球が伝来してから10年余りを経て、日本に「野球ブーム」が到来したのであった。
<1888(明治21)年…慶応で「三田ベースボール倶楽部」が結成!!>
1888(明治21)年、慶応でも野球熱が高まり、「三田ベースボール倶楽部」が結成され、
学校の所在地が、慶応の三田から近い、白金の明治学院と、盛んに試合を行なった。
この「三田ベースボール倶楽部」は、後の慶応野球部の源流である。
<その頃、立教は…!?~1874(明治7)年、立教学院が創立~明治学院、青山学院では野球部が創部されるも、立教では野球は行われず>
前回の記事で、1880(明治12)年~以降に、法政、明治、早稲田が創立された経緯については描いたが、
それよりもだいぶ早く、1874(明治7)年に、アメリカ人の宣教師、チャニング・ムーア・ウィリアムス主教により、立教学院が創立された。
つまり、立教の歴史は、東京六大学では慶応に次いで古いという事である。
しかし、キリスト教系の学校である明治学院や青山学院で、早くから野球部が創部されていたのに対し、
同じくキリスト教系の立教では、何故か野球熱が高まらなかったのか、野球が流行る気配は全く無く、野球部も創部される事は無かった。
以後、立教は暫くは野球とは無縁の存在であった。
<1887(明治20)年…第一高等中学校(一高)で野球部が創部!!~この頃、一高生・正岡子規が野球に夢中になる>
1887(明治20)年、高まる野球熱を背景に、野球のルーツ校である第一高等中学校(一高)でも、正式に野球部が創部された。
そして、一高は創部間もなく、強豪・明治学院を破るなど、早くも華々しい戦果を挙げた。
これにより、一高は野球の実力で、兄貴分の東大を追い越し、以後、野球界の中心的勢力となって行く事となった(※東大では、以後、野球よりもボートの方が盛んになった)。
この頃、野球に熱中したのが、当時、一高の学生だった正岡子規である。
1867(慶應3)年、愛媛・松山に生まれた正岡子規は、松山中学(※現・松山東高校)⇒共立学校(※現・開成高校)を経て、
1887(明治20)年、東大予備門(後の第一高等中学校)に入学した。
そして、この一高在学中に、正岡子規が夢中になったのが、野球だったのである。
前述の通り、当時の日本では学生達の間で野球が大流行しており、子規もまた、野球の虜になった。
子規は、一高時代に俳句の才能を発揮する一方、夢中で野球のボールを追い掛けていた。
1887(明治20)~1890(明治23)年頃にかけて、子規は上野公園内のグラウンドで、一高の仲間達と野球に興じていたが、
現在、上野公園内には、子規が野球を楽しんだグラウンドが「正岡子規記念球場」として残されている。
「正岡子規記念球場」の、すぐ横には、「春風や まりを投げたき 草の原」という、子規が野球の事を謳った俳句の記念碑が有り、
往時の子規の姿を偲ばせている。
1889(明治22)年、子規は故郷の松山に帰郷した折、地元のグラウンドで、仲間達と野球を楽しんだが、
その時、既にそのグラウンドでは、先に何人かの中学生が野球をやっていた。
子規は、その中学生達の前で、豪快なバッティングを披露して見せたが、その中学生の内の1人こそ、子規の俳句の後継者、高浜虚子であった。
<1887(明治20)年…「音楽取調掛」が改組され、「東京音楽学校」が誕生!!>
1887(明治20)年10月5日、それまでの「音楽取調掛」が改組され、
「東京音楽学校」が創立された(※現・東京藝術大学音楽学部)。
以後、「東京音楽学校」は、数々の偉大な音楽家を世に輩出し、
日本の音楽界を牽引する存在となって行った。
<1888(明治21)年の流行歌①…『紀元節』と『皇国の守』>
1888(明治21)年、学生達の間で俄かに野球熱が高まり、一高や慶応で相次いで野球部が創部された頃、
日本という国家の偉大さを言祝ぐような歌が作られた。
一つは、神武天皇の建国神話に因み、この年(1888年)に新たに制定された「紀元節」(※2月11日と定められた)を祝う歌、
その名も『紀元説』(作詞:高橋正風、作曲:伊沢修二)である。
もう一つが、同年(1888年)の『中等唱歌集』に収められた『皇国の守』(『来れや来れ』、作詞:外山正一、作曲:伊沢修二)である。
『紀元節』も『皇国の守』も、その後、長く歌われ、特に後者は太平洋戦争の頃まで、戦意高揚の歌として歌われた。
この時代は、日本が国家主義的な色彩を強めて行く時代でもあり、国民の団結を促すような歌が作られたという事であろう。
<1888(明治21)年の流行歌②…『故郷の空』と『春風』(『主人は冷き土の下に』>
1888(明治21)年は、前述のような「愛国歌」ばかりではなく、外国由来の曲も流行った。
1つは、原曲のスコットランド民謡に、大和田建樹が詞を付けた『故郷の空』である(※『明治唱歌第一集』に収録)。
『故郷の空』と言われてもピンと来ない方もいらっしゃるかもしれないが、
はるか後年、ザ・ドリフターズが「誰かさんと誰かさんが麦畑…」という歌詞で歌った歌、と言われば、
「ああ、あの歌か!」と、思い出される方も多いのではないだろうか。
ともかく、スコットランド民謡は、日本人とはとても相性が良いようである。
もう一つ、同年(1888年)に流行った、外国由来の曲が、アメリカの作曲家、フォスターが作曲し、加藤義清が詞を付けた、
『春風』(『主人は冷き土の下に』)である。
フォスターは、不遇の内に生涯を終えたが、数多くの名曲を残した人である(※ケンタッキーフライドチキンの曲も、フォスターが作曲した)。
<1888(明治21)年の流行歌③…『孝女白菊の歌』>
1888(明治21)年の大流行歌で、もう一つ、ご紹介しておきたいのが、『孝女白菊の歌』である。
『孝女白菊の歌』は、西南戦争で行方不明になった父を慕う孝女の物語であり、
井上哲次郎博士の漢詩を、落合直文が新体詩に改め、「東洋学芸雑誌」に掲載されると、忽ち、大評判になった。
そして、『孝女白菊の歌』という歌が作られ、大流行したのであった。
なお、孝女白菊の物語は、長く人々に愛され、
後年、様々な媒体で物語化されているが、ドイツ語訳や英訳も行なわれ、外国にまで紹介されたという。
軍歌のような曲が流行る一方、『孝女白菊の歌』のような歌が流行るというのも、日本音楽史の懐の深さであると言えよう。
<1889(明治22)年2月11日…「大日本帝国憲法」が発布>
この頃、伊藤博文らを中心に、憲法を制定するための準備が進められ、
1889(明治22)年2月11日、明治天皇の名の下に、「大日本帝国憲法」が発布され、憲法発布式典が行われた。
明治天皇から、時の首相・黒田清隆に憲法が下賜されたが、これにより、遂に日本も名実共に近代国家の仲間入りを果たしたと言って良い。
<1889(明治22)年の流行歌①…『欣舞節』>
「大日本帝国憲法」が発布され、「これで日本も一等国の仲間入りだ!!」と言わんばかりに、
この年(1889年)、威勢の良い歌が流行った。
それが『欣舞節』という歌であるが、当時、日本と清国の間で、朝鮮半島を巡って不穏な空気が漂っており、
「日清談判 破裂して 品川乗り出す吾妻艦 西郷死するも彼がため 大久保殺すも彼奴(きゃつ)がため 遺恨重なる チャンチャン坊主…」
というような、随分と過激で挑発的な歌詞が並んでいる。
これは、清国を明らかに「仮想敵国」と見做すようなものであったが、この歌は、当時の多くの日本人の心情を表したもののようである。
なお、この歌は、以後、様々に歌詞を変えて、国民の間に戦争気分が高まった時に、よく歌われ続けた。
<1889(明治22)年の流行歌②…『埴生の宿』>
1889(明治22)年、『中等唱歌集』に収録され、紹介されたのが、
原曲は英国のビショップが作曲した<Home, Sweet Home>という曲であり、
日本の里見義が詞を付けた、名曲中の名曲『埴生の宿』である。
『埴生の宿』は、あまりにも有名な曲であり、知らない者など居ないであろうが、
どこか郷愁を誘うような、日本人の琴線に触れるような曲であり、私も大好きである。
これまで再三述べて来た通り、明治時代の日本は、このように優れた外国曲を数多く日本人に紹介していたのであった。
<1889(明治22)~1890(明治23)年…世紀の大流行歌、川上音二郎『オッペケペー節』>
1889(明治22)年、当時、落語家だった川上音二郎は、『オッペケペー節』を作詞した。
『オッペケペー節』は、当時、言論の自由が保証されておらず、抑圧されていた民衆の言いたい事を代弁しており、
痛烈な社会風刺や政治批判を詞に盛り込み、最後は必ず、「オッペケペッポー ペッポッポー」という決め台詞で終わるという、
当時としてはかなり画期的で大胆な歌であり、川上音二郎と『オッペケペー節』は庶民の大喝采を浴び、1889(明治22)~1890(明治23)年頃にかけて、大人気となった。
なお、後年、川上音二郎は妻の貞奴と共に、川上音二郎一座を旗揚げし、大活躍するが、
この頃は、音二郎と貞奴は、まだ出会ってはいない。
当時、貞奴は伊藤博文や西園寺公望といった政界の重鎮が贔屓にするような、超売れっ子の芸妓であった。
という事で、川上音二郎・貞奴の一座と、一高野球部の大活躍については、また次回。
(つづく)