流行歌と野球の歴史①…1867(慶應3)~1877(明治10)年…『ええじゃないか』~『田原坂』 | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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法政大学野球部を中心として、東京六大学野球についての様々な事柄について、思いつくままに書いて行くブログです。
少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

当ブログをお読み頂いている方であれば、よくご存知の通り、

私は、野球と芸能の歴史が大好きである。

野球と芸能の歴史を調べたり、様々な切り口で描いて行く事を、非常に楽しく思っている。

 

 

今回、私は日本の流行歌と野球の歴史を描いて行こうと思い立ったが、

どうせなら、日本の流行歌と野球の歴史を、その起源から紐解いて行こうという事に決めたわけである。

というわけで、私が思う「流行歌」の歴史の起源、幕末の「ええじゃないか」の馬鹿騒ぎから、描いて行く事としたい。

 

<1867(慶應3)年8月~12月…幕末の世で、突如始まった「ええじゃないか」~東海道人々が熱狂し踊り狂う、謎の馬鹿騒ぎ!?>

 

 

1867(慶應3)年8月、260年以上続いた、江戸幕府による日本の支配に、そろそろ終わりが見えて来ていた頃、

突如、東海道の人々が、「ええじゃないか」と歌いながら踊り狂うという現象が、突如、発生した。

それは、本当に些細な出来事がキッカケだったという。

 

 

1867(慶應3)年8月のある日、浦賀(※現・神奈川県浦賀市)の西叶神社の砂糖問屋・湖幡屋の樽の中から、

大神宮の御札が出て来た、という出来事が有った。

「これは慶事の前触れだ!!」

この出来事に、浦賀一帯の人々は、一斉に大騒ぎとなった。

御札というのは、大変おめでたい事の象徴であり、それが何故か、樽の中から出て来たというのは、確かに不思議な出来事ではあった。

この出来事に、浦賀の人々は、異常な興奮状態となり、やがて超ハイテンションのお祭り騒ぎが始まった。

 

 

やがて、浦賀で始まった馬鹿騒ぎは、豊橋や名古屋近郊など、あっという間に東海道一帯に広まった。

この時、天から次々に御札が降って来ると言う不思議な現象が次々に起こり、人々の熱狂は加速度を増した。

「ええじゃないか、ええじゃないか!!」

いつしか、人々は、こぞって仮装をしたり、祭りの囃子言葉である「ええじゃないか」を連呼しながら、

辺り構わず、踊り狂うようになって行った。

幕末の世に、突如、大フィーバーが起こったのである。

 

 

「ええじゃないか」の「歌詞」というのは、ご覧の通りであるが、

そもそも「ええじゃないか」とは、一体、何だったのか、今でも諸説有るが、どれも決め手に欠け、よくわかっていない。

一般に、閉塞した世の中を打破したいという、人々の鬱屈した思いが爆発した、一種の「世直し一揆」のようなものと解されているが、

果たして、本当にそれだけが原因だったのであろうか。

一つ言えるのは、日本では時々、このような謎の馬鹿騒ぎ、大ブームがしばしば起こるという事である。

というわけで、当ブログでは、日本の近代における「流行歌」の始まりを、この「ええじゃないか」であると定義付ける事としたい。

 

<1868(慶應4=明治元)年…薩長による明治維新が成る!!…『宮さん宮さん』~有栖川熾仁親王を総大将とする官軍の正当性をアピールした、大流行歌>

 

 

 

1867(慶應3)年10月14日、江戸幕府の第15代将軍・徳川慶喜は、大政奉還を行ない、

ここに、江戸幕府による日本の統治は終わりを告げた。

しかし、薩摩・長州を中心とする討幕派は、この際、旧幕府勢力を徹底的に潰す事を目指し、

旧幕府勢力を一掃するための戦いを仕掛けた。

1868(慶應4)年1月、その緒戦となった「鳥羽・伏見の戦い」が勃発したが、

兵力では圧倒的に不利な、薩長を中心とする新政府軍が、総大将の西郷隆盛の優れた指揮も有り、意外にも大勝利を収めてしまった。

 

 

何故かといえば、新政府軍は岩倉具視のアイディアにより、

「我々は天皇の軍隊である」という事を明確に示すために、「錦の御旗」を掲げたところ、

旧幕府軍のトップ・徳川慶喜が、この「錦の御旗」を見て、すっかり戦意を喪失してしまったのが、その要因であると言われている。

そして、徳川慶喜は、まだ大量に残っている兵士達を捨てて、船で江戸へと逃げ帰ってしまったのであった。

 

 

 

 

ここで、新政府軍は、更に旧幕府軍を殲滅するために、皇族の有栖川熾仁親王を総大将として、

一気呵成に、江戸に攻め上る事となった。

所謂「官軍東征」であるが、この「官軍東征」のための軍歌というか、キャンペーン・ソングのような役割を担ったのが、

かの有名な『宮さん宮さん』(作詞・品川弥二郎、作曲・大村益次郎)である。

 

 

 

 

「宮さん宮さん お馬の前に ひらひらするのは 何じゃいな トコトンヤレ トンヤレナ…」

から始まる『宮さん宮さん』は、大変リズムがよく、とても歌いやすい曲であった。

ちなみに、「宮さん」とは勿論、官軍の総大将・有栖川熾仁親王の事を指すが、

この曲により、人々は「宮さん」に親近感を持ち、官軍は民衆のシンパシーを得る事に成功した。

作詞:品川弥二郎、作曲:大村益次郎という、幕末の2人の大物が作ったキャンペーンソングは、まさに効果覿面だったと言って良い。

 

 

 

人々は、皆こぞって「トコトンヤレ トンヤレナ」と歌い、この歌は大流行した。

「官軍東征」は、最終的には官軍の大勝利に終わるが、

『宮さん宮さん』という曲が果たした役割は、非常に大きかったのではないだろうか。

という事で、『宮さん宮さん』は、歴史を変えた流行歌であると言って良い。

 

<1868(慶應4~明治元)年…江戸無血開城~彰義隊の戦い~東京遷都(明治天皇の行幸)~戊辰戦争…激動の「明治」の幕開け>

 

 

それでは、1868(慶應4~明治元)年における主な出来事を、簡単にまとめておく事とする。

まず、新政府「軍による江戸城総攻撃を目前にして、新政府軍の事実上の総大将・西郷隆盛と、旧幕府軍の代表・勝海舟が、品川で会談を行ない、

その結果、江戸城総攻撃は回避され、江戸城無血開城が成った。

 

 

前述の、西郷隆盛、勝海舟の会談により、江戸城無血開城が成り、旧幕府方による、組織的な抵抗は無くなったが、

江戸では、旧幕府方の残党による、散発的な抵抗は続いた。

その最大の戦いとなったのが、1868(慶應4)年5月15日、上野で起こった彰義隊の戦いであるが、

新政府軍の司令官・大村益次郎の鮮やかな軍略により、彰義隊は僅か1日で鎮圧された。

 

 

この時、上野の彰義隊の戦いにおける砲声が江戸中に響いたが、

福澤諭吉慶應義塾の生徒達も、皆、戦々恐々として、落ち着かない様子であった。

しかし、塾長の福澤諭吉は「学問には、1日も無駄が有ってはならない。勉強に集中しなさい」と言って、生徒達を窘め、平然と授業を続けたという。

これこそ、慶應義塾の「独立自尊」の校風を、よく表すエピソードであると言えよう。

 

 

1868(慶應4)年7月、それまで京都御所に居た天皇が、江戸へと「行幸」したが、

これは、事実上の「遷都」であった。

そして、この時、元号が「慶應」から「明治」へと改元され、「江戸」は「東京」へと改称された。

名実ともに、新たな時代が幕を開けたのである。

 

 

この後、約1年にわたり、日本各地で旧幕府方による抵抗が続いたが、

西郷隆盛の新政府軍は、これらを鎮圧して行き、1869(明治2)年の五稜郭の戦いを以て、この戦いは終わった。

この新政府軍VS旧幕府軍の戦いを「戊辰戦争」と称するが、「戊辰戦争」は新政府軍の大勝利に終わった。

 

<1869(明治2)年の流行歌…『ギッチョンチョン』(『ぎっちょんちょん』)~江戸時代後期の『ビヤボン節』がルーツ>

 

 

 

こうして、「明治」という新時代が始まったが、明治時代初期に流行った歌を、いくつか、ご紹介して行く事としたい。

まず、1869(明治2)年頃に大流行したのが、『ギッチョンチョン』(『ぎっちょんちょん』 )(※作詞・作曲者は不詳)である。

『ギッチョンチョン』(『ぎっちょんちょん』)は、元々、江戸時代後期、文政~天保年間に流行った、『ビヤボン節』がルーツであると言われ、

明治時代になってから、「ビヤボン」の箇所を「ギッチョン」に変え、再び流行した。

 

 

 

『ギッチョンチョン』(『ぎっちょんちょん』)は、所謂「お座敷遊び」の時に、

芸者が三味線を弾きながら歌う「お囃子」であり、今もなお、芸者によって歌い継がれている曲である。

 

<1870(明治3)年…『ノーエ節』(農兵節・野毛節)~静岡県三島市を中心によく歌われる民謡>

 

 

 

1870(明治3)年頃に流行った『ノーエ節』は、別名を『農兵節』とも称し、

幕末における、横浜の『野毛節』がルーツとも言われるが、主に静岡県三島市辺りで、よく歌われる民謡である(※作詞・作曲者は不詳)。

歌の途中、「ノーエ」(※「農兵」という意味)という合いの手が入り、皆で楽しんで歌うという趣が有る歌である。

 

<1871(明治4)年…『コチャエ節』(『お江戸日本橋』)~天保年間に流行した『羽根田節』がルーツの小唄>

 

 

 

明治政府による「廃藩置県」が断行された1871(明治4)年に大流行したのが、

『コチャエ節』という小唄であるが、別名である『お江戸日本橋』というタイトルでも有名である(※作詞・作曲者は不詳)。

「お江戸日本橋七つ立ち 初上(のぼ)り 行列揃えて アレワイサノサ コチャ 高輪夜明けて 提灯消す コチャエコチャエ…」

といった調子で歌は続くが、元々は1831(天保2)年頃に、『羽根田節』として江戸で流行した小唄がルーツだと言われている。

 

 

『コチャエ節』(『お江戸日本橋』)は、後年、ザ・ピーナッツをはじめ、

様々な歌手によって歌われており、一度は耳にした事が有る方も多いのではないだろうか。

という事で、明治時代初期は、まだ江戸時代の文化が色濃く残っている時代でもあった。

 

<1872(明治5)年頃…アメリカから日本に野球が伝来!!~開成学校(後の、旧制第一高等学校=東京大学)と開拓使仮学校(後の北海道大学)に野球が伝わる>

 

 

 

 

さて、「流行歌も良いけど、一体、いつ野球が出て来るのか」とお思いの皆様、お待たせ致しました(?)。

明治維新から数年を経て、遂に、日本に野球が伝来する時が到来した。

当時、明治政府は「お雇い外国人」と称される、各分野の専門家を招き、新設された学校教育などに当たらせたが、

その内の1人、ホーレス・ウィルソンが、開成学校(※後の旧制第一高等学校=東京大学)の教授に着任すると、1872(明治5)年頃、開成学校の生徒達に、ベースボール(野球)というアメリカ生まれの球技を教えた。

これが、記念すべき、日本における「野球伝来」の瞬間であった。

 

 

なお、「野球伝来」の時期については諸説有り、翌1873(明治6)年頃、

開成学校と、開拓使仮学校(後の、北海道大学)に、ほぼ同時に伝えられたという説も有るが、

いずれにせよ、これらのエリート養成学校に野球が伝えられ、以後、その生徒達が野球という競技に夢中になった、という事だけは確かである。

この時、日本野球史は幕を開けたのであった。

 

 

 

なお、1872(明治5)年といえば、新橋~桜木町間に、日本初の鉄道が開設された年でもあった。

この鉄道開設の中心人物として活躍したのが、当時、佐賀出身の少壮官僚として活躍していた、大隈重信である。

 

<1873(明治6)年…『縁かいな節』と「明治六年の政変」~「征韓論」を巡り政府内で対立が起こり、西郷隆盛らが下野>

 

 

 

 

 

1873(明治6)年に流行った歌は、これまた、お座敷小唄の『縁かいな節』であった。

『縁かいな節』は、後年、美空ひばりなども歌っているが、明治時代初期の「流行歌」といえば、お座敷小唄を指すと言っても良いようである。

 

 

 

そんな、呑気な『縁かいな節』が流行っていた一方、明治政府内には不穏な空気が漂っていた。

岩倉具視、大久保利通、木戸孝允らが、欧米に条約改正交渉に行っている間(※条約改正交渉は失敗に終わり、欧米視察旅行に切り替えた)、日本で留守を預かっていたのが、西郷隆盛を首班とする「留守政府」であった。

西郷隆盛は、様々な業績を挙げたが、西郷は所謂「征韓論」を唱えると、日本に帰って来た岩倉具視た大久保利通らは、これに猛反発した。

 

 

 

 

 

「征韓論」とは、ごく大雑把に言えば、日本が武力を背景に、当時、鎖国政策を取り、日本へ敵対的な政策を取っていた朝鮮へ開国を迫るというものであったが、

西郷隆盛は、武力行使までは考えておらず、先の「江戸無血開城」の時のように、自らの交渉力で、物事を解決しようとしていたという。

しかし、一度は西郷の朝鮮への派遣は、明治天皇の裁可まで得ていたのに、最終的には大久保利通らによって反故にされた。

そして、このゴタゴタに嫌気が差した西郷隆盛をはじめ、「留守政府」のメンバー達が明治政府を辞め、下野してしまった。

これが所謂「明治六年の政変」であるが、これが後に、とんでもない火種となってしまうのである。

 

<1874(明治7)年…『書生節』(『正調ヨサコイ』)~高知の民謡『ヨサコイ節』が元になった「政治風刺ソング」>

 

 

 

『ヨサコイ節』といえば、土佐(高知)の名物として、誰もが知っている歌であろう。

元々、『ヨサコイ節』は、江戸時代の安政年間に、鋳掛屋の娘・お馬と、妙高寺の僧・純心の恋愛をテーマにした歌であり、

「土佐の高知の はりまや橋で…」という歌詞で、よく知られている。

 

 

 

 

しかし、1874(明治7)年に流行った『書生節』(『正調ヨサコイ』)は、

その『ヨサコイ節』を下敷きにはしているが、「書生書生と軽蔑するな 明日は太政官のお役人 ヨサコイヨサコイ…」といった調子で、

政治色が強い歌詞となっており、当時の書生、志士の気概を示した内容となっている。

流石は、幕末の志士・坂本龍馬を生んだ土地柄の為せる業であろう。

 

 

 

『書生節』も、本家本元の『ヨサコイ節』に負けず劣らず大流行し、

後年、三波春夫、フランキー堺といいった人達によっても歌われている。

『書生節』も、明治時代初期の雰囲気を今に伝える、貴重な歌であると言えよう。

 

<1876(明治9)年…『ちょんきな』~あの「野球拳」の元になった歌!?>

 

 

 

 

 

1876(明治9)年に大流行したのが、『ちょんきな』(※作詞・作曲者は不詳)という小唄である。

これは、2人で拳を出して、勝ち負けを競い、勝った方が相手の持ち物や着物を取って行き、

最後に、相手を裸にした方が勝ち、というお座敷遊びで流行った歌だという。

 

 

 

それを聞いて、皆様、ある遊びがすぐに思い浮かんだであろう。

そう、ジャンケンをして勝った方が、相手の衣服を取って行くという「野球拳」である。

「野球拳」は、愛媛の松山が発祥の地であるが、元々は『ちょんきな』が、その源流であった。

「野球するなら こういう具合に しやしゃんせ…」という「野球拳」の歌詞は、誰もが知っているのではないだろうか。

 

 

 

「野球拳」は、1969(昭和44)~1970(昭和45)年、コント55号(萩本欽一、坂上二郎)が、

「裏番組をぶっ飛ばせ!」というタイトルで大々的に行ない、すっかり「お色気」「下品」というイメージが付いてしまったが、

元々は、そんな下品な遊びではなかったという。

それはともかく、明治時代に流行った歌が、形を変え、現代にも歌い継がれている(?)というのは、誠に面白い。

 

<1877(明治10)年…『田原坂』と西南戦争~「西郷どん」を追悼する熊本民謡『田原坂』>

 

 

 

 

先の「明治六年の政変」で下野したメンバーは、政府に対する不満を募らせていた。

そして、1874(明治7)年、江藤新平が起こした「佐賀の乱」をキッカケに、各地で不平士族達が、次々に起こった。

1877(明治10)年、地元の鹿児島(薩摩)で隠然とした力を保っていた、カリスマ中のカリスマ・西郷隆盛は、鹿児島で私学校を営んでいたが、

西郷隆盛は、その私学校の生徒達に大将として担ぎ出され、遂に反乱を起こした。

これが、我が国最大の内乱とも称される「西南戦争」である。

 

 

 

この「西南戦争」における最大の激戦が「田原坂の戦い」であるが、

西郷率いる反乱軍は、健闘空しく、政府軍に鎮圧され、西郷は無念の自刃を遂げた。

こうして、「西南戦争」は西郷隆盛の敗北により、幕を閉じた。

 

 

 

しかし、西郷隆盛は、民衆に圧倒的な人気が有り、

その西郷を追悼する意味も有って、『田原坂』という歌が作られ、やがて熊本民謡として、

人々の間で愛唱されて行った。

西郷隆盛は、敗北した悲劇の英雄として、比類なきカリスマとなり、

『田原坂』という名曲をも、この世に残したのである。

 

(つづく)