1994(平成6)~1995(平成7)年にかけて、桑田佳祐と長渕剛が激しく対立し、
長渕剛の大麻取締法違反での逮捕という、思わぬ形で幕を閉じた「1994桑田・長渕戦争」であるが、
1995(平成7)年、サザンオールスターズは、2年振りにバンド活動を再開した。
この年(1995年)、サザンオールスターズは6年振りのベストアルバム『Happy!』をリリースするなど、華やかに活動し、
日本の音楽界も、年間シングルCD売り上げの総数が、史上最多となる1億枚を突破するなど、
「音楽バブル」に沸いた年ではあったが、その一方、日本の根幹を揺るがすような大事件が立て続けに起こった年でもあった。
そのように、様々な話題に満ち満ちた、1995(平成7)年のサザンオールスターズと音楽界、野球界にスポットを当ててみる事としたい。
<1995(平成7)年1月17日…阪神・淡路大震災が発生~多数のサザンファンも被災>
1995(平成7)年1月17日、午前5時46分、兵庫県淡路島沖の明石海峡を震源とする、
「阪神・淡路大震災」が発生し、6000人以上の死者が出るという、大惨事となった。
私も、高速道路が横倒しになるという映像を見て、慄然としたものである。
当時、高校生だった私は、サザンのファンクラブに入っており、震災から暫く経った後、送られて来たファンクラブの会報で、こんな一文が有ったのを覚えている。
「激しい地震に襲われ、被災してしまったが、後日、電気が復旧し、久し振りにサザンの曲をCDで聴いた時、涙が出た。本当に救われた思いがした」
きっと、同じような思いをしたサザンファンは、沢山居た筈である。
音楽は、やはり人々を元気付け、勇気を与え、そして救いとなるものであり、人間にとって欠かせないものであると、私はこの時、思ったのであった。
<1995(平成7)年1月23日…桑田佳祐&Mr.Children『奇跡の地球(ほし)』リリース!!~半年間の期間限定生産ながら、172万枚(オリコン年間7位)の大ヒット!!>
「阪神・淡路大震災」が発生した直後、1995(平成7)年1月23日、
桑田佳祐&Mr.Childrenという夢の顔合わせによるチャリーティー・ソング『奇跡の地球(ほし)』がリリースされた。
『奇跡の地球(ほし)』は、半年間の期間限定生産のCDであり、その収益金は、全額、Act Against AIDSの基金として、寄付された。
以前の記事でも書いたが、『奇跡の地球(ほし)』は、小林武史がプロデュースした作品であり、
1994(平成6)年12月の「AAA(Act Against AIDS)」のステージで、
桑田佳祐とMr.Childerenが共演し、初披露されていたが、翌1995(平成7)年に、満を持してリリースされたシングルCDである。
なお、同年(1995年)1月13日、テレビ朝日「ミュージックステーション」で、
桑田佳祐&Mr.Childrenは、テレビでは最初で最後となる「共演」で、
『奇跡の地球(ほし)』を披露しているが、当時、人気絶頂で、飛ぶ鳥を落とす勢いだったミスチル(Mr.Children)と桑田佳祐の共演は、話題性は抜群であり、『奇跡の地球(ほし)』は、最終的には172万枚を売り上げるという大ヒットで、この年(1995年)のオリコン年間7位を記録している。
それにしても、172万枚も売り上げながら、年間7位というのは、如何にこの頃はCDが売れに売れていた時代だったかというのを物語る出来事であると言えよう。
<1995(平成7)年3月20日…「地下鉄サリン事件」発生~オウム真理教による前代未聞のテロ事件~同年(1995年)5月16日、オウム真理教の教祖・麻原彰晃が逮捕>
1995(平成7)年3月20日、麻原彰晃こと松本智津夫が率いるオウム真理教が、
東京都内の複数の地下鉄の駅に、猛毒サリンを撒布するという、前代未聞のテロ事件を引き起こした。
麻原とオウム真理教は、大量殺人を企図し、日本を転覆させようという、恐るべき計画を実行に移した。
この「地下鉄サリン事件」で、大量の死傷者が出てしまい、日本中を恐怖のどん底に陥れた。
同年(1995年)5月16日、オウム真理教の教祖・麻原彰晃が、警察の強制捜査により、逮捕された。
麻原逮捕の報道も含め、この年(1995年)のテレビ、新聞、ラジオは、全てオウム事件の報道一色だったと言っても過言ではないが、
私も、「オウム事件」については、強烈に印象に残っている。
そして、麻原らによる身勝手な犯行は、全く許し難い暴挙だったとしか言いようが無い。
<1995(平成7)年4月…桑田佳祐がパーソナリティを務める、TOKYO FM「やさしい夜遊び」がスタート!!~現在(2019年)まで20年以上も続く、長寿番組>
1995(平成7)年4月、桑田佳祐がパーソナリティを務め、
TOKYO FMをキーステーションとして、全国ネットで放送されるFMラジオ番組「やさしい夜遊び」がスタートした。
「やさしい夜遊び」は、収録の時も有るが、基本的には生放送され、桑田が自らの言葉で、サザンの新曲情報などをいち早く告知するなど、
サザンファンにとっては、欠かせない番組である。
なお、「やさしい夜遊び」は、現在(2019年)もなお続いており、放送開始から20年以上、放送回数も1000回を超えるという、
長寿番組に成長したが、この年(1995年)の「やさしい夜遊び」では、桑田はしばしば、「オウム事件」の事を話題にしていたのを、よく覚えている。
「オウム事件」は、桑田にとっても、かなり衝撃的な事件だったに違いない。
<1995(平成7)年5月22日~サザンオールスターズ35枚目のシングル『マンピーのG★SPOT』リリース!!~関口和之も復帰し、サザンが2年振りにバンド活動再開!!~サザン、5年振りに6人のフルメンバーが揃う>
1995(平成7)年5月22日、サザンオールスターズは、2年振り35枚目となるシングル『マンピーのG★SPOT』をリリースし、
サザンは、2年振りにバンド活動を再開した。
なお、『マンピーのG★SPOT』から、ベースの関口和之が約5年振りにサザンに復帰し、サザンは久々に6人揃っての活動を再開させた。
それにつけても、『マンピーのG★SPOT』は、サザン史上でも屈指の問題作であった。
桑田佳祐が、「やさしい夜遊び」で、初めて新曲として『マンピーのG★SPOT』というタイトルを発表した時、
当時のラジオのリスナーは、「何だ、そのタイトルは!?」と、全員、引っくり返ったのではないだろうか(私も、その一人である)。
しかし、この曲のサウンドは、実はメチャクチャ、骨太でカッコいいバンドサウンドであり、サザンの活動再開には相応しい楽曲であった。
<『マンピーのG★SPOT』は、桑田佳祐も大のお気に入り~ハゲヅラを被りつつ、21世紀まで歌い続ける名曲(?)>
『マンピーのG★SPOT』を評して、桑田佳祐は、
「社会的にも、世の中にも、良い影響は全く何も与えない曲」
「21世紀に残したくない曲」
などと、当時、自嘲気味に語っていたが、そんな桑田は、当時、歌番組で『マンピーのG★SPOT』を歌う時、
特製のハゲヅラを被り、実に楽しそうに歌っていたものである。
そして、特製ハゲヅラは、年々バージョン・アップされ、どんどん派手になって行った。
『マンピーのG★SPOT』は、以後、サザンのライブでは欠かせない曲として、
21世紀を迎えてからも、ずっと歌い続けられている。
そう、桑田はこの曲がとても気に入っているようであり、サザンファンからも、とても人気が高い曲である(※なお、1995年のリリース当時、『マンピーのG★SPOT』はオリコン最高4位)。
<1995(平成7)年6月24日…サザン6年振りのベストアルバム『Happy!』をリリース!!~完全予約限定生産で、マニアックな曲も多数収録された、「野心的ベスト盤」~夏のライブ用として、特製ハッピも封入>
1995(平成7)年6月24日、サザンオールスターズは、1989(平成元)年の『すいか』以来、
約6年振りとなるベストアルバム『Happy!』をリリースした。
『Happy!』は、一見すると、まるで洗剤の入れ物のようなパッケージであり、とてもユニークである。
『Happy!』は、3枚組全48曲が収録された、豪華な内容であったが、
アルバムのジャケットには、何故か洗濯バサミで顔をつねられた、サザンのメンバーの写真があしらわれており、とてもインパクトが有る。
そして、『Happy!』には、様々な特典も封入されていた。
その特典の一つとして、『Happy!』には、特製ハッピ(駄洒落である)が封入されていたが、
これは、この年(1995年)のサザンの野外ライブに着てきて下さい、という意味が込められているという。
そして、1966(昭和41)年にビートルズが来日した時に、ハッピを着ていたが、それも少し意識していると、当時、関口和之が語っていた。
当時、桑田佳祐やサザンのメンバー達は、積極的にメディア出演し、
『Happy!』のプロモーションを行なっているが、桑田佳祐は、
「古賀政男さん大全集みたいな、懐メロのアルバムみたいにはしたくなかった。もっと積極的な、『攻めのベストアルバム』にしたい」
と語っているが、『Happy!』には、誰もが知っているような大ヒット曲だけでなく、よっぽどコアなサザンファンではないと知らないような、コアでマニアックな曲も、多数収録されている。
というわけで、完全予約限定生産でリリースされた『Happy!』は、70万セットが即日完売する大ヒットを記録した。
<1995(平成7)年7月17日…サザン36枚目のシングル『あなただけを~Summer Heart Break』リリース!!~フジテレビ『いつかまた逢える』主題歌として、オリコン最高1位、ミリオンセラーの大ヒット!!>
1995(平成7)年7月17日、サザンオールスターズは通算36枚目のシングル『あなただけを~Summer Heart Break』をリリースしたが、
『あなただけを~Summer Heart Break』は、福山雅治、桜井幸子が主演した、フジテレビのドラマ『いつかまた逢える』の主題歌に起用され、
サザンとしては『エロティカ・セブン』以来のオリコン最高1位、ミリオンセラーの大ヒットを記録した。
なお、当時、桑田佳祐は「今まで自分が作った曲の中で、これが一番好き」と言うぐらい、この曲を自画自賛していたが、確かにとても素晴らしい楽曲であった。
そして、この頃、サザンは後に伝説として語り継がれる事となる、
夏の野外ライブに向けて、結束を高めていた。
その野外ライブこそ、「ホタル・カリフォルニア」である。
<1995(平成7)年8月5日~8月6日…2日間で16万人を動員した、サザンの伝説の野外コンサート「ホタル・カリフォルニア」開催!!~特別ゲストで西城秀樹も登場!!~私も初日に参戦>
1995(平成7)年8月5日~6日、サザンオールスターズは、
横浜みなとみらいの臨港パーク21に特設ステージを作り、1日8万人、2日で16万人を動員するという、
サザン史上空前となる、大野外コンサートを開催した。
そのコンサートのタイトルが、かつてのイーグルスの大ヒット・ナンバー『ホテル・カリフォルニア』をもじった、「ホタル・カリフォルニア」であった。
私は、「ホタル・カリフォルニア」の初日に見に行っていたが、
前年(1994年)末、桑田佳祐のライブを初めて見に行っていた私にとって、
この「ホタル・カリフォルニア」こそが、初めて見に行った、サザンオールスターズのライブだった。
そして、オープニングで、「謎の覆面歌手」として、サプライズで西城秀樹が登場し、『YOUNG MAN(Y.M.C.A)』を歌うなど、
「ホタル・カリフォルニア」は、終始、祝祭的で華やかで、本当に忘れ難き、素晴らしいライブであった。
この時の感激は、今もなお私の心に鮮やかに残っている。
なお、この時の西城秀樹の特別出演は、桑田佳祐が自ら、西城秀樹にオファーを出し、
西城秀樹が快諾したという経緯が有ったのだが、桑田佳祐と西城秀樹は、実は同い年であり、これをキッカケに親交を深めた。
昨年(2018年)、西城秀樹はこの世を去ってしまったが、桑田佳祐とサザンは、その葬儀に弔電を送った。
1995(平成7)年の夏、サザンのライブを最高に盛り上げてくれた西城秀樹の雄姿は、私も忘れられない。
という事で、改めて、西城秀樹さんに、私も哀悼の意を捧げたいと思う。
(※サザンと西城秀樹の関りなどについては、後日、改めて記事を書く予定である)
<1995(平成7)年の音楽界…何と、上位28曲がミリオンセラー、CDシングルの総売り上げが1億枚を突破するという、「CDバブル」絶頂期!!>
さて、1995(平成7)年といえば、日本のシングルCDが最も売れた年として、記憶される。
ご覧の通り、この年(1995年)は多種多彩なヒット曲が世間を賑わせたが、
何と、シングルCD売り上げの上位28曲がミリオンセラーというから、凄まじい。
前述の通り、172万枚も売れた『奇跡の地球(ほし)』でさえ、やっと7位であり、
100万枚以上を売り上げた『あなただけを~Summer Heart Break』に至っては、年間だと25位である。
この年(1995年)のシングルCD売り上げは、総計で1億枚を突破したが、
この頃は、中高生を中心にカラオケが大ブームであり、カラオケで新曲を歌うために、
中高生や20代の若者達は、競うようにシングルCDを買っていた。
今では信じ難いような状況であるが、この当時、音楽制作会社はウハウハだったのではないだろうか。
<桑田佳祐をも魅了した!?EAST END×YURIの『DA・YO・NE(だよね)』と『MAICCA(まいっか)』~1994(平成6)~1995(平成7)年にかけ、社会現象に>
1994(平成6)年8月、元・東京パフォーマンスドールの市井由理を擁する、
異色のユニット、EAST END×YURIは『DA・YO・NE』をリリースしたが、
若者の生態を「だよねー!」と軽妙にラップで活写する楽曲は、ジワジワと人気を拡大して行った。
そして、1994(平成6)~1995(平成7)年にかけて、『DA・YO・NE』は、
各地の方言じよる「ご当地ラップ」が次々にリリースされるなど、ヒットチャートを急上昇し、
気が付けば、社会現象とも言うべき状況となっていた。
そして、EAST END×YURIは、1995(平成7)年2月に『MAICCA(まいっか)』をリリースすると、これまた爆発的な大ヒットを記録し、
遂に、EAST END×YURIはその年(1995年)のNHK紅白歌合戦にまで出場してしまった。
当時、桑田佳祐も「やさしい夜遊び」で、頻繁に「だよねー!」だの「まいっか!」だの、そういった言葉を連発していたが、
桑田も、当時、相当にこの楽曲を気に入っていたというのは、間違いない。
<1995(平成7)年…trf、H Jungle with T、華原朋美…プロデューサー・小室哲哉が大ヒットを連発!!「小室ファミリー」が社会現象に>
1995(平成7)年といえば、何と言っても、小室哲哉プロデュース作品が次々に大ヒットを飛ばし、社会現象となった事が特筆される。
trf、ダウンタウンの浜田雅功と小室哲哉が組んだH Jungle with T、そして、当時、小室哲哉が無名のアイドルから大抜擢した、現代のシンデレラ・ガールで、「朋ちゃん」こと華原朋美などの、「小室ファミリー」が、出す曲、出す曲が全て大ヒットという無敵の快進撃を続けていた。
「小室ファミリー」の快進撃については、今回はスペースの関係上、あまり詳しくはご紹介出来ないので、
また別の機会にでも詳しくご紹介したいと思うが、私は正直、小室サウンドはあまり好きではなかったものの、
当時の華原朋美は、とても輝いており、私はとても好きなアーティストであった。
というわけで、「朋ちゃん」の栄光と悲劇についても、また別の機会にでも述べる事としたい。
<1995(平成7)年…遂に安室奈美恵が大ブレイク!!~『TRY ME~私を信じて』が大ヒット!!~「安室時代」の幕開け>
1995(平成7)年、安室奈美恵(withスーパーモンキーズ)が、『TRY ME~私を信じて』を大ヒットさせ、
遂に、安室奈美恵が大ブレイクを果たした。
安室奈美恵は、この年(1995年)、『TRY ME~私を信じて』がヒットした後、小室哲哉プロデュースで改めてソロで楽曲を発表し、
以後、安室奈美恵は10代の女の子達のカリスマ的存在となって行く事となる。
いよいよ、以後、長く続く事となる「安室時代」の幕開けの時がやって来たのであった。
<1995(平成7)年のプロ野球…「がんばろうKOBE」を旗印に、イチローの大活躍もあり、オリックスが優勝~日本シリーズではヤクルトがオリックスを4勝1敗で破り、2年振り日本一!!>
この年(1995年)のプロ野球は、「阪神・淡路大震災」で被災した、神戸の人達を元気付けるため、
何としても優勝しなければならないと、オリックスブルーウェーブの仰木彬監督は、固く決意していた。
そして、オリックスは「がんばろうKOBE」を旗印として、イチローの大活躍もあり、オリックスは見事にリーグ優勝を果たし、神戸の人達に勇気と希望を与えた。
しかし、「ヤクルトVSオリックス」の日本シリーズでは、野村克也監督率いるヤクルトスワローズが、4勝1敗でオリックスを破り、
ヤクルトが、2年振りの日本一を達成した。
結果としては4勝1敗だったが、この年(1995年)の日本シリーズは名勝負の連続であり、私も大変印象に残っている。
(つづく)