阪急の創設者にして総帥である小林一三が、1957(昭和32)年1月25日、享年84歳で亡くなった。
阪急ブレーブスとしては、この年(1957年)は亡き小林一三の墓前に、何としても「初優勝」の報告をしたいところであった。
しかし、当時のパ・リーグは、西鉄ライオンズと南海ホークスが強く、
阪急ブレーブスとしては、なかなか優勝戦線に加わる事が出来ない状態が続いていた。
というわけで、今回の「阪急ブレーブス球団史」は、小林一三の「弔い合戦」となった、1957(昭和32)年の阪急ブレーブスを中心に、
その頃の野球界、映画界などの動きについて、描いてみる事としたい。
<1957(昭和32)年1月12日…「史上初の300勝投手」スタルヒンが交通事故死>
1957(昭和32)年1月12日、日本プロ野球史上初の通算300勝を達成した、
大投手、ヴィクトル・スタルヒンが交通事故死するという、痛ましい出来事が有った。
スタルヒンは、1916年5月1日生まれなので、当時まだ40歳という、あまりにも早すぎる死であった。
スタルヒンはロシア人であるが、ロシア革命の影響で、両親が亡命同然に北海道・旭川にやって来たため、
旭川の地で育ち、スタルヒンは旭川中では投手として、めきめきと頭角を現した。
その後、1934(昭和9)年には、巨人軍の創立メンバーの1人として、半ば強引に巨人にスカウトされ、
以後、スタルヒンは沢村栄治と並ぶ二大エースとして、戦前の巨人の投手陣を支えた。
1939(昭和14)年には、未だに破られていない、シーズン42勝という大記録を達成している。
戦後は、太平-パシフィック-金星-大映-高橋-トンボと、弱小球団を渡り歩いたが、
1955(昭和30)年には、遂に史上初の通算300勝という大記録を達成している。
なお、スタルヒンは「無国籍者」として苦労したが、巨人時代の監督・藤本定義は、戦後も何かとスタルヒンの面倒を見た。
スタルヒンは、藤本監督の行く先々の球団を付いて歩き、藤本監督との「二人三脚」で、この大記録を成し遂げたのである。
スタルヒンは、日本で結婚し、愛する家族も出来たが、
そんな家族を残して、前述の通り、運転する自動車が玉川電車に激突するという交通事故を起こし、
スタルヒンは、そのまま帰らぬ人となった。
なお、スタルヒンの娘、ナターシャ・スタルヒンは、後に父親であるスタルヒンの伝記を書き残している。
「亡命者」「無国籍者」として、懸命に日本の野球界で戦ったスタルヒンの足跡は、絶対に忘れてはならないものであろう。
<1957(昭和32)年2月25日…高橋ユニオンズが解散!!~大映が高橋を「吸収合併」し、「大映ユニオンズ」に>
1957(昭和32)年2月、プロ野球はキャンプの季節を迎え、各球団もキャンプインしていた。
高橋ユニオンズも、結成4年目のシーズンに向けて、笠原和夫監督以下、選手達が身体作りや練習に励んでいた。
ところが、そんな矢先の1957(昭和32)年2月25日、高橋ユニオンズは、資金繰りが限界に達したとして、遂に「解散」を決定した。
高橋ユニオンズは解散し、大映スターズに「吸収合併」される事となったが、建前上は、大映と高橋の「合併」という形にはなったが、
これは、事実上、紛れもない「解散」であった。
当時、高橋ユニオンズに所属し、後に「プロ野球ニュース」のキャスターとして活躍した佐々木信也も、
「高橋ユニオンズは、合併されたんじゃない。あれは解散だった」と、語っている。
そして、佐々木信也は、そのまま大映のメンバーとしてもピックアップされたが、大半の選手は、そのままクビを切られた。
佐々木は、「ユニオンズが解散になり、大映に呼ばれた選手達が、大映のお偉いさんの説明を聞いているのを、大映に呼ばれなかった選手達が、じっと見つめていた姿が忘れられない」と、後年、その時の様子を振り返っている。
高橋ユニオンズのオーナー、高橋龍太郎は懸命に球団経営を行なったが、全て水泡に帰した。
「みんな無駄だったね。同情してくれるかい?」
と、ユニオンズの解散が決まった後、高橋龍太郎は番記者達に語ったが、番記者達は、何も返す言葉が無かったとの事である。
大映の永田雅一の「鶴の一声」で球界に参入した高橋ユニオンズは、こうして球史の闇の彼方に消えて行った。
<1957(昭和32)年の阪急ブレーブス①…藤本定義監督が就任!!梶本隆夫24勝、米田哲也21勝と「ヨネカジ」コンビが大活躍>
1957(昭和32)年、阪急ブレーブスの8代目の監督として、藤本定義が就任した。
スタルヒンの項目でも述べたが、藤本定義は、戦前、巨人の監督を務め、
沢村栄治、スタルヒンという大投手2人を擁し、巨人の「第1期黄金時代」を築き上げた名将だった。
そして、藤本監督は投手出身という事もあり、阪急投手陣の建て直しに着手した。
この年(1957年)の阪急は、そんな藤本監督の期待に応え、
米田哲也、梶本隆夫の「ヨネカジ」コンビが、獅子奮迅の大活躍をした。
梶本隆夫 24勝16敗 337奪三振 防御率1.92
米田哲也 21勝16敗 299奪三振 防御率1.86
ご覧の通り、梶本24勝、米田21勝という事で、「ヨネカジ」の2人のみで45勝を稼ぎ出した。
この年(1957年)、プロ2年目の米田哲也は、初の2桁勝利となったが、
米田は、何とこの年(1957年)から「19年連続2桁勝利」という、
プロ野球史上空前絶後の大記録を達成する事となる。
大投手・米田哲也は、名伯楽・藤本定義の指導の成果も有り、大飛躍を遂げたのであった。
<1957(昭和32)年の阪急ブレーブス②…7月23日、梶本隆夫が「9連続奪三振」を達成!!~未だに破られぬ「日本記録」>
1957(昭和32)年7月23日、西宮球場の阪急-南海戦で、
阪急・梶本隆夫投手が、「9連続奪三振」という大記録を達成した。
梶本は、3回表から、皆川睦雄-蔭山和夫-森下正夫-田中一郎-野村克也-岡本伊佐美-大沢昌芳(啓二)-穴吹義雄-寺田陽介という、南海打線の各打者から、バッタバッタと三振を取りまくり、彼らを9人続けて三振に打ち取る快挙を成し遂げた。
なお、梶本が達成した「9連続奪三振」は、今もなお、破られる事なく、「日本記録」として残っている。
<1957(昭和32)年の阪急ブレーブス③…慶応のスラッガー・中田昌宏が入団!!>
同年(1957)年、慶応のスラッガーとして東京六大学野球で活躍していた中田昌宏が、阪急に入団した。
思えば、阪急は慶応出身の小林一三が創立し、球団草創期には、慶応出身の選手達が名を連ねていたが、
中田昌宏も、その系譜に連なる選手であると言えよう。
この年(1957年)、中田は111試合に出場、打率.231 6本塁打 33打点という成績に終わったが、
後年、中田はパ・リーグを代表する強打者として、名を馳せる事となる。
<1957(昭和32)年の阪急ブレーブス④…河野旭輝、2年連続盗塁王(1956~1957年)獲得!!~後の好投手・石井茂雄も入団>
当時、阪急のリードオフマンとして活躍していたのは、河野旭輝である。
河野旭輝は、1956(昭和31)年、85盗塁という、当時の日本最多記録で、初の「盗塁王」を獲得すると、
翌1957(昭和32)年にも、56盗塁で、「2年連続盗塁王」を獲得した。
阪急には、快足選手を多く輩出するという「伝統」が有ったが、河野もまた、そんな「快足列伝」を彩る選手の1人である。
そして、この年(1957年)には、後に阪急投手陣を支える大黒柱の1人に成長する事となる、石井茂雄も阪急に入団している。
<1957(昭和32)年の阪急ブレーブス⑤…1軍は71勝55敗4分(勝率.561)の4位、2軍は「ウエスタン・リーグ」初優勝!!>
このように、1957(昭和32)年の阪急ブレーブスは、様々な話題に彩られ、
阪急は小林一三の「弔い合戦」へ意気込んでいたが、前述の「ヨネカジ」に続く投手が居らず、
打線も、今一つ決め手に欠け、最終的には71勝55敗4分(勝率.561)の4位に終わり、
首位の西鉄に11.5ゲーム差を付けられ、残念ながら優勝は成らなかった。
そのかわり、阪急2軍が、「ウエスタン・リーグ」で初優勝を達成し、阪急ブレーブスとしての「初タイトル」を獲得した。
この頃の阪急2軍は強く、若手が台頭しつつある状況だっだと言えよう。
こうして、阪急は小林一三が亡くなるという、節目の年だった1957(昭和32)年の戦いを終えた。
<1957(昭和32)年のプロ野球(1)…「神様・仏様・稲尾様」~大投手・稲尾和久の「20連勝」と、西鉄ライオンズが巨人を破り、「2年連続日本一」!!>
1957(昭和32)年のプロ野球の主役といえば、「神様・仏様・稲尾様」の異名を取った、
西鉄ライオンズの稲尾和久投手であった。
この年(1957年)、プロ2年目の稲尾和久は、何と「20連勝」という凄まじい快投を見せ、
35勝6敗 防御率1.37という見事な成績で、西鉄をリーグ2連覇に導く原動力となった。
三原脩監督率いる西鉄ライオンズは、稲尾和久、中西太、豊田泰光らの超強力メンバーを揃え、充実の時を迎えていた。
前述の、稲尾の大活躍により、リーグ2連覇を達成した西鉄は、日本シリーズでは巨人を4勝0敗1分と一蹴し、
西鉄が2年連続で巨人を日本シリーズで倒し、2年連続日本一の座に就いた。
まさに、西鉄ライオンズは誰もが認める「最強軍団」となっていたが、
その西鉄と、当時、パ・リーグで激しく優勝を争っていたのは南海ホークスであり、阪急はどうしても、西鉄・南海の「2強」に割って入る事が出来なかった。
阪急が、パ・リーグの主役の座に踊り出るのは、もう少し先の話である。
<1957(昭和32)年のプロ野球(2)…権藤正利(大洋)、2年越しの「28連敗」に終止符を打つ!!>
西鉄・稲尾和久が「20連勝」とい大記録を樹立した一方、
大洋ホエールズ・権藤正利投手は、1955(昭和30)~1957(昭和32)年にかけて、何と「28連敗」という不名誉な記録を作ってしまった。
しかし、この年(1957年)7月7日、権藤正利は巨人戦で4-0で完封勝利を挙げ、遂に「28連敗」に終止符を打った。
権藤の勝利が決まった瞬間、選手やファン達が一斉にマウンド上の権藤に駆け寄り、権藤を胴上げした。
権藤は、感激の涙を拭う間もなく、彼の勝利を待ちわびていた人達の無数の手に支えられ、後楽園の夜空で、宙に舞ったのであった。
<1957(昭和32)年のプロ野球(3)…岩本義行(東映)、「45歳5か月と7日」という「史上最年長本塁打」達成!!>
1957(昭和32)年8月18日、駒澤球場の東映-阪急のダブルヘッダー第2試合で、
岩本義行(東映)が、種田弘(阪急)からホームランを放ったが、
当時、岩本義行は何と「45歳5か月と7日」であり、「史上最年長本塁打」記録を達成した。
岩本の、「史上最年長本塁打」は、未だに破られていないが、
岩本は1942(昭和17)年には史上初の「1試合3本塁打」、1951(昭和26)年には史上初の「1試合4本塁打」を、それぞれ達成している。
「神主打法」で知られた岩本義行もまた、プロ野球史上、忘れ得ぬ強打者であった。
<1957(昭和32)年のプロ野球(4)…金田正一、あわや放棄試合という大荒れの状況を乗り越え、「完全試合」達成!!>
1957(昭和32)年8月21日、中日球場で行われた中日-国鉄戦で、
金田正一は、1-0というスコアで、中日・杉下茂との投げ合いを制し、
見事に、プロ野球史上4人目(当時)という「完全試合」を達成した。
国鉄が1-0とリードし、金田正一は「完全試合」まであと1イニングと迫っていたが、
9回裏、中日の先頭打者、代打・酒井敏明のハーフスイングを、主審は「ストライク」と判定し、空振り三振となったが、
これに中日の首脳陣や選手が猛抗議し、興奮した中日ファンもグラウンドに雪崩れ込み、試合は1時間近くも中断してしまった。
その後、判定は変わらず、試合は再開されたが、
金田は、後続の牧野茂、太田文高も連続三振に切って取り、
金田は大騒動も何のそのという気迫の投球で、見事に「完全試合」を達成したのであった。
この時、自らの「完全試合」を妨害しようとでも言うような中日側の抗議に、金田は腹を立てていたが、
金田は「やったるで!!」と、逆に闘志を燃え上がらせ、大記録を達成した。
まさしく、この一事を以てしても、金田正一こそ、大投手の中の大投手であると言えるであろう。
<1956(昭和31)年~村山実-上田利治のバッテリーの関大(関西大学)が、大学日本一を達成!!>
1956(昭和31)年、関大(関西大学)野球部で、村山実-上田利治という2年生バッテリーがチームの中心に座り、
村山実-上田利治の黄金バッテリーを軸として、関大は最強軍団を形成していた。
関大は、1956(昭和31)年春、関西六大学野球で優勝し、第5回全日本大学野球選手権に出場すると、
関大は、村山実が全試合を完投するという力投を見せ、東北大、早稲田、日大を撃破し、見事に「大学日本一」の座に就いた。
関大の村山実-上田利治のバッテリーは、この大活躍により、一躍、日本中に名を轟かせる存在となった。
上田利治は、「大学日本一」を達成した翌日、記念に新聞を買い漁ったというが、
上田は、自分達の快挙が大きく報じられているのを見て、「全国制覇」の喜びを改めて実感した。
というわけで、この時、後の阪急ブレーブスの歴史にも大きく関わる事となる上田利治が、球史の表舞台に登場したのであった。
<長嶋茂雄と「立教三羽烏」(長嶋茂雄・杉浦忠・本屋敷錦吾)の時代~1957(昭和32)年、立教の春秋連覇と、長嶋茂雄「通算8号」の六大学新記録で、立教黄金時代を築く!!>
さて、当時の野球界といえば、プロ野球よりも大学野球、中でも東京六大学野球の方が、人気が高かった。
神宮球場で行われる東京六大学野球の試合は、どのカードでも超満員の観客が押し寄せていた。
その東京六大学野球で、当時、最も強かったのが、
長嶋茂雄・杉浦忠・本屋敷錦吾という「立教三羽烏」を擁する、立教であった。
当時、立教は向かう所敵無しという快進撃を続け、「最強軍団」と称されていた。
中でも、長嶋茂雄は東京六大学野球始まって以来のスーパースターとして、大人気を誇っていたが、
1957(昭和32)年秋、長嶋は学生生活最後の試合となる立教-慶応戦で、当時、東京六大学野球の新記録となる、
「通算8号本塁打」を打ち、神宮球場は興奮の坩堝となった。
立教は、この試合に勝ち、春秋連覇を達成したが、長嶋の本塁打新記録と併せ、まさに二重の喜びであった。
<1957(昭和32)年の春のセンバツで、王貞治の早稲田実業(早実)が初優勝!!>
この年(1957年)、高校野球では、
2年生ながらエースで4番を張る、王貞治の投打にわたる大活躍により、
同年(1957年)春のセンバツで、早稲田実業(早実)が初優勝を達成した。
1957(昭和32)年は、後のプロ野球界のスーパースター「ON」が、学生野球界で、大注目を浴びた年でもあった。
<1956(昭和31)~1957(昭和32)年…水の江滝子に見出され、石原裕次郎が大ブレイク!!映画化は「裕次郎の時代」に>
さて、前回の「阪急ブレーブス球団史」でも書いたが、
1956(昭和31)年は、兄・石原慎太郎が書いた『太陽の季節』『狂った果実』という日活映画に出演し、
石原裕次郎が映画デビューを果たしたが、この石原裕次郎を「発掘」したのが、
これまた、以前「阪急ブレーブス球団史」でも登場した、SKD(松竹歌劇団)出身の水の江滝子である。
水の江滝子は、当時、日活のプロデューサーを務めていたが、兄・慎太郎に付いて、映画撮影を見に来た裕次郎を、一目見て気に入ってしまった。
そして、水の江滝子は裕次郎を強力に推薦し、裕次郎を映画に出演させた。
その結果、裕次郎は、それまでの映画俳優には居ないタイプの、型破りな新しいスターとして、早くも大人気となった。
1957(昭和32)年、石原裕次郎は、何と9本もの日活映画に出演し、
それら全てを大ヒットさせるという凄まじい大人気ぶりであったが、
裕次郎人気のお陰で、日活は一躍、映画界のトップの座に駆け上がってしまった。
同年(1957年)末に公開された『嵐を呼ぶ男』は、翌1958(昭和33)年にかけ、空前の大ヒットとなったが、
石原裕次郎と北原三枝というゴールデンコンビは、まさに日活のドル箱であった。
そんな裕次郎を見出した、水の江滝子の眼力は素晴らしいが、当時の裕次郎は、多くの人々を惹き付ける魅力に溢れていたという事であろう。
<長嶋茂雄、激しい争奪戦の末、巨人に入団!!~実は南海入団の可能性が高かった長嶋、土壇場で巨人に「寝返り」>
東京六大学のスーパースター、長嶋茂雄を巡り、プロ野球界は激しい争奪戦を繰り広げたが、
結局、巨人が長嶋を獲得し、長嶋は巨人に入団する事となった。
実は、長嶋は立教の同窓生・杉浦と共に、南海に入団する可能性が濃厚だったが、土壇場で巨人に寝返ったのである。
その辺の経緯は、次回以降にでも述べる事としたい。
<「阪急ブレーブス球団史」・第1章~小林一三編の終幕>
さてさて、「阪急ブレーブス球団史」は、小林一三が亡くなった1957(昭和32)年で、一つの区切りである。
ここまでを、「小林一三の時代」と定義付ければ、「阪急ブレーブス球団史」の第1章は、ひとまずここで終わりという事となるが、
この後、阪急ブレーブスはまた新たな時代へと続いて行くので、今後とも、引き続きお読み頂ければ幸いである。
(「阪急ブレーブス球団史」第1章・「小林一三編」…完 ~第2章・「西本幸雄編」につづく)