福澤諭吉が創立した「慶應義塾」と、大隈重信が創立した「東京専門学校」(早稲田大学)は、それぞれ、創立者の理念に共感した多くの若者達が集まり、順調に発展して行った。
そして、慶応と早稲田は、やがて野球の試合で対決し、その対決は「早慶戦」と称される事となった。
というわけで、1903(明治36)年11月21日、歴史的な「第1回早慶戦」が開催される事となったが、
慶応と早稲田が、如何にして対決する事になったか、まずは慶応と早稲田の野球部の成り立ちから、紐解いて行き、
そして、「第1回早慶戦」の試合の模様を、描いてみる事としたい。
<1888(明治21)年…慶応に「三田ベースボール倶楽部」が発足!!~草創期の慶応野球部、旧制・一高に初挑戦で初勝利するなど、順調に発展>
1872(明治5)年頃、アメリカから日本に野球が「伝来」し、
旧制・第一高等学校(一高)を中心に野球熱が高まり、やがて一高は黄金時代を築いて行ったが、
やがて、一高よりも少し遅れて、私学でも野球が行われる事になった。
そして、1888(明治21)年、慶応に「三田ベースボール倶楽部」が発足したが、
これこそ、今日(2019年)まで続く、慶応野球部の源流である。
慶応は、1893(明治26)年、一高に初挑戦し、見事に初挑戦で一高に11-10で勝利するなど、順調に発展して行った。
1892(明治25)年、慶応に体育会が発足し、柔道、剣道、端艇などの各部が創設され、
「三田ベースボール倶楽部」も、正式に慶応の体育会野球部に「昇格」したが、
その頃には、既に慶応野球部は、東京都下では強豪として知られ、明治学院、学習院などと覇を競っていた。
<1901(明治34)年…慶応、関西遠征を大成功させ、慶応野球部の本拠地・三田綱町グラウンドが完成!!~慶応野球部、選手制度を整え、充実期を迎える>
その後、慶応野球部は渡辺万次郎(栃木中)、宮原清(上田中)らを中心に、選手制度を整えると、
慶応はチーム力を向上させ、学習院など、強豪チームを次々に撃破して行った。
1901(明治34)年、慶応は関西遠征を敢行し、旧制・三高を17-13で破り、静岡中、和歌山中など、当時の中等野球の強豪校をも、次々に破った。
この頃、慶応に長身の快速球投手・桜井弥一郎(上田中)が入学し、桜井は忽ち、慶応のエースとなった。
そして、同年(1901年)、慶応野球部は本拠地として、三田綱町グラウンドを完成させ、慶応は名実ともに、日本を代表する強豪として、自他共に認める存在となっていた。
<1901(明治34)年…橋戸信、大橋武太郎らを中心に、安倍磯雄を部長に戴き、早稲田野球部が創部!!~創部2年目(1902年)にして、早稲田は学習院、横浜外人クラブなどを撃破し、急速に台頭>
一方、1901(明治34)年、慶応の「三田ベースボール倶楽部」発足から遅れる事、13年にして、
「東京専門学校」でも、俄かに野球熱が高まり、橋戸信(青山学院中)、大橋武太郎(郁文館中)らを中心に、
「早稲田も、野球をやろう!!」
という機運が高まっていた。
そして、同年(1901年)、橋戸、大橋らは、早稲田の体育部長を務めていた、安部磯雄を野球部長に戴き、
遂に、早稲田野球部を創部した(※翌1902(明治35)年に、東京専門学校は早稲田大学と改称している)。
そして、早稲田野球部は、創部2年目の1902(明治35)年、学習院、横浜外人クラブなどの強豪を次々に撃破し、早稲田は早くも、台頭著しい存在として、野球界の「台風の目」にのし上がってしまった。
なお、早稲田野球部の初代部長は安倍磯雄、初代主将は大橋武太郎である。
<1903(明治36)年11月5日…早稲田から慶応に「挑戦状」が送られる!!~先輩格・慶応も受けて立ち、ここに慶応VS早稲田の対決の実現が決定!!>
1903(明治36)年11月5日、早稲田野球部の橋戸信(青山学院中)、押川清(郁文館中)の両名は、
三田山上に有った、慶応の校舎を訪ね、慶応野球部の主将・宮原清に、1通の書状を手渡した。
その書状の文面には、こう書いてあった。
「幣部依然として不振、従ふて選手皆幼稚を免れず候に就いては近日の中、御教示にあづかり以って大に学ぶ所あらば素志此上も無く候」
これは、要するに「我が早稲田野球部は、是非とも、慶応野球部と試合をやりたい」という、紛れもない「挑戦状」であった。
慶応側は、この「挑戦状」を受けると、即座に「よし!受けて立とう!!」と、皆の意見がまとまった。
そして、早稲田からの挑戦状を受け取った3日後、11月8日付で、慶応から早稲田野球部・泉谷祐勝(神戸一中)宛に、
「早稲田からの挑戦、受けて立つ」という返信が届いた。
こうして、後発の早稲田からの挑戦を、先輩格・慶応が受けて立つ形で、慶応と早稲田の対決が決まった。
試合は、1903(明治36)年11月21日、慶応野球部の本拠地・三田綱町グラウンドで開催される事となった。
慶応と早稲田の試合は、このように、些か時代がかった「果たし状」により始まったというのは、何とも面白い話である。
<1903(明治36)年11月21日…早稲田野球部の面々、朴歯の下駄で、13kmの道のりを徒歩で、早稲田から三田に乗り込む!!~そして、歴史的な「第1回早慶戦」の開催へ…~早稲田野球部は、足袋はだしで慶応に挑戦!!>
1903(明治36)年11月21日の早朝、早稲田野球部の面々は、手に手に野球道具や弁当などを持ち、
朴歯の下駄を履いて、早稲田・戸塚村を出発し、徒歩で、13km離れた三田山上の三田綱町グラウンドを目指した。
そして、早稲田野球部は、四谷、赤坂、麻布を通り、手ぐすね引いて待ち構える、慶応野球部のメンバー達が居並ぶ、三田綱町グラウンドに到着した。
ここで、試合前に慶応と早稲田、両校の選手達が集まり、記念撮影が行われたが、
これが、歴史的な「第1回早慶戦」の出場メンバー達の写真として、今日(2019年)まで残されている。
なお、この写真の足元をよく見ると、早稲田野球部は全員、足袋はだしである。
用具の面でも、先輩格の慶応に一日の長が有ったが、早稲田の面々にとっては、そんな事は関係無かった。
「慶応と試合が出来る!!」
というだけで、彼らの心は浮き立っていたのであった。
<歴史的な「第1回早慶戦」の出場メンバー…慶応・桜井弥一郎VS早稲田・河野安通志の両エースが対決!!>
では、ここで歴史的な「第1回早慶戦」における、
慶応・早稲田両校の出場メンバーを、ご紹介しておく事としよう。
なお、先攻は慶応、後攻は早稲田である。
【慶応】
(一)時任彦一(正則中)
(捕)高木泰一(大垣中)
(遊)林田峰次(慶応普通部)
(二)宮原清(上田中)
(中)吉川清(慶応普通部)
(三)柳弥五郎(慶応普通部)
(投)桜井弥一郎(上田中)
(左)高浜徳一(慶応普通部)
(右)宮本熊三郎(慶応普通部)
【早稲田】
(捕)泉谷祐勝(神戸一中)
(右)猪瀬順(宇都宮中)
(遊)橋戸信(青山学院中)
(三)小原益遠(盛岡中)
(中)獅子内謹一郎(盛岡中)
(投)河野安通志(横浜商)
(左)鈴木豊(水戸中)
(二)押川清(郁文館中)
(一)森本繁雄(郁文館中)
こうして見ると、慶応は付属の慶応普通部上がりの選手が多く、
早稲田は、全国各地の中学から集まった選手が多い、という特徴が有るのがわかる。
なお、当時の慶応の主将は宮原清、早稲田の主将は橋戸信で、
慶応は桜井弥一郎、早稲田は河野安通志という、両エースが先発した。
いずれも、黎明期の日本野球史に名を残す「偉人」達であると言って良い。
<1903(明治36)年11月21日…歴史的な「第1回早慶戦」は、激闘の末、慶応が辛勝!!~先輩格・慶応に凱歌が上がり、慶応・桜井弥一郎が、歴史的な「早慶戦の勝利投手第1号」に>
1903(明治36)年11月21日、13時30分、遂に「第1回早慶戦」は、試合開始の時を迎えた。
「第1回早慶戦」で、審判を務めたのが、当時、旧制・一高の主将だった黒田昌恵である。
この黒田昌恵が、歴史的な「第1回早慶戦」のプレーボールを宣告した。
なお、三田綱町グラウンドは、慶応と早稲田の対決を見ようと、何と3,000人もの観客が押し寄せ、
慶応、早稲田の両校に大声援を送った。
当初、慶応は早稲田など物の数としておらず、軽く捻ってやるというようなつもりだったようだが、
意外や意外、早稲田野球部はかなり強く、慶応を慌てさせた。
2回表、慶応が2点を先制すると、2回裏、早稲田は慶応の先発・桜井を攻め立て、一挙5点を奪い、5-2と逆転した。
その後、両チームとも激しく点を取り合い、早稲田が8-7と1点リードして迎えた8回表、
慶応のチャンスで打席に立った4番・宮原清は、打席で「コムラ返り」を起こし、暫く試合はタイムで中断したものの、
宮原は、足が回復し、試合再開した直後、早稲田の先発・河野から、右中間を深々と破る、逆転の2点タイムリーを放った。
早稲田・河野は、これで同様したのか、後続の高浜徳一、時任彦一にもタイムリーを浴び、この回、慶応は一挙4点を挙げ、
慶応が11-8と再逆転に成功した。
結局、試合は慶応が早稲田の反撃をかわし、慶応が11-9で早稲田を破り、慶応の先発・桜井弥一郎は、早稲田に13安打を浴びながらも完投勝利を挙げ、桜井は「早慶戦の勝利投手第1号」の栄誉に浴した。
こうして、歴史的な「第1回早慶戦」は、辛うじて先輩格の慶応が勝利し、先輩としての面目を保ったのであった。
<慶応が、大善戦した早稲田の実力を認め、以後、「早慶戦」は春秋に定期戦として開催される事が決定!!>
早稲田の思わぬ大善戦により、三田綱町グラウンドに詰めかけた大観衆も、大満足だったが、
慶応も、後進の早稲田の実力を大いに認めた。
そして、慶応、早稲田の両校野球部の選手達は、試合後の懇親会で、
「今後、春秋に1回ずつ試合を行ない、両校のグラウンドを交互に使用する」
という話が、トントン拍子でまとまった。
こうして、「早慶戦」は定期戦として開催される事が決定し、我が国を代表する好敵手同士として、数々の名勝負を繰り広げて行く事となるわけである。
(つづく)