【今日は何の日?】早慶戦の歴史① ~1903/11/21…第1回早慶戦の開催(前編)~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

本日(11/21)は、1903(明治36)年に、歴史的な「第1回早慶戦」が開始された日である。

1903(明治36)年11月21日、慶応野球部の本拠地・三田綱町グラウンドで、

慶応と早稲田が初めて野球の試合で対戦したが、これが後に「早慶戦」と称される、

日本を代表する「伝統の一戦」の、記念すべき初めての試合である。

 

 

当ブログは、一応「法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ」であるが、

「早慶戦」は、まさに東京六大学野球の源流となったカードであり、

私も、「早慶戦」の歴史については、個人的にも大変興味を持っている。

というわけで、「早慶戦」の歴史を紐解くにあたり、まずは歴史的な「第1回早慶戦」について、描いてみる事としたい。

 

<それは早稲田の「挑戦状」から始まった!!~後発の早稲田野球部が、先輩格の慶応野球部に「挑戦状」を叩き付ける!!>

 

 

あまりにも有名な話であるが、「早慶戦」の歴史は、

早稲田野球部が、慶応野球部に「挑戦状」を送り付けた事から始まった。

1903(明治36)年11月5日、早稲田大学野球部から慶應義塾野球部に挑戦状が届いたのだが、

その文面は、下記の通りである。

「幣部依然として不振、従ふて選手皆幼稚を免れず候に就いては近日の中、御教示にあづかり以って大に学ぶ所あらば素志此上も無く候」

早稲田野球部は、慶応野球部よりも後発であるが、要するに、早稲田は「我が部は、まだまだ不振で幼稚だが、是非とも、先輩である慶応と試合がしたい」という事が書いてある。

この「挑戦状」が契機となり、「早慶戦」は始まったのであるが、まずは、ここに至るまでの、早慶両校の歴史を、慶応の創立者・福澤諭吉と、早稲田の創立者・大隈重信の来歴と共に、簡単に振り返って行く事としたい。

 

<1858(安政5)年…福澤諭吉、江戸築地鉄砲洲の中津藩中屋敷内(現在の東京都中央区明石町、聖路加国際病院のあたり)に「蘭学塾」を創立!!~「慶應義塾」の起源>

 

 

 

福澤諭吉は、1835(天保5)年12月12日、中津藩の下級藩士・福澤百助と妻・於順の次男として生まれた。

福澤諭吉が生まれた頃は、まだ江戸時代、封建時代だったため、どの家に生まれたかによって全てが決まってしまっていたため、下級藩士の子に生まれた諭吉は、あくまでも下級藩士でしかない筈であった。

しかし、幕末の動乱に乗じて、聡明だった諭吉はグングン頭角を現し、1858(安政5)年、江戸築地鉄砲洲の中津藩中屋敷内(現在の東京都中央区明石町、聖路加国際病院のあたり)に、藩命により「蘭学塾」を創立するに至った。

現在、慶應義塾大学では、この「蘭学塾」を、慶應義塾の起源と定め、2008(平成20)年には、「創立150周年」のイベントを大々的に行なった。

 

<1863(文久3)年…福澤諭吉、「蘭学塾」を「英学塾」に転向~諭吉、横浜見物でオランダ語の役に立たなさを痛感し、英語を学ぶ事を決意!!>

 

 

さて、これまた有名な話であるが、福澤諭吉「蘭学塾」「英学塾」に転向させた時のエピソードを、ご紹介しておく事としたい。

諭吉は、若い頃から緒方洪庵「適塾」で蘭学を学んだが、諭吉の秀才ぶりは群を抜いており、蘭学では諭吉の右に出る者は居なかったという。

そこで、諭吉は自らのオランダ語の腕試しのつもりで、当時、外国人居留地の有った横浜見物に行き、実地でオランダ語を試してみたところ、外国人達には、オランダ語は全く通じない。

「おかしいな、何故だろう…」

諭吉は首を傾げたが、どうやら、外国人達が話しているのは、オランダ語ではなく、英語だという事に気付いた。

「オランダ語は、世界ではマイナーな言語で、英語の方が主流だったのか!!」

諭吉は、大きなショックを受けたが、それと同時に、即座にオランダ語を捨て、英語を一から学び直す事を決めた。

こうして、諭吉は1863(文久3)年、「蘭学塾」「英学塾」に転向させたのである。

改めて見てみると、こうした思いっきりの良さ、時代を鋭く見抜く視点を持っていたという事も、諭吉の栄達の秘訣であろう。

 

<1867(慶應3)年…福澤諭吉、芝新銭座に新校地を購入⇒1868(慶應4=明治元)年…塾を「慶應義塾」と命名!!近代私学として再スタート>

 

 

 

1867(慶應3)年、福澤諭吉は芝新銭座の土地を購入し、「英学塾」を築地鉄砲洲から芝新銭座の新校地に移した。

そして、翌1868(慶應4=明治元)年、新時代の幕開けの年に、諭吉は「英学塾」「慶應義塾」と改称し、

「慶應義塾」は近代私学として、新たなスタートを切ったのであった。

なお、西郷隆盛の官軍と、旧幕府軍が江戸市中で市街戦を行ない、ドンパチやっていた時も、

諭吉は平然としており、生徒達に「勉学に集中しなさい」と言ったという、有名なエピソードが有る。

これは、何とも福澤諭吉らしいエピソードではあると言えよう。

 

<大隈重信、幕末に長崎の「致遠館」で、フルベッキに英学を学ぶ!!~後の「教育者・大隈重信」の原点に>

 

 

大隈重信は、1838(天保9)年2月16日、佐賀藩士・大隈信保と、妻・三井子という夫妻の長男として生まれた。

大隈重信は、長じてから佐賀藩士として藩校・弘道館に学んだが、その弘道館では、古臭い儒学の講義が行われていた。

大隈は、これに反発し、弘道館を飛び出してしまったのだが、早くも、大隈の反逆児の面目躍如といったところであろう。

 

 

 

その後、大隈は1865(慶應元)年、長崎に遊学し、

宣教師・フルベッキに師事し、「致遠館」で英学を学んだが、

先進的な英学を学んだ事は、大隈の人生にも大きな影響を与え、後の「教育者・大隈重信」の原点となったと言って良いであろう。

 

<明治維新後…大隈重信、明治新政府の要職に就き、大活躍!!~大隈、鉄道開設も成し遂げる…「政治家・大隈重信」の黄金時代>

 

 

 

やがて、薩長により江戸幕府が倒され、明治維新が為されると、

佐賀藩出身の大隈重信も、明治新政府の要職に就き、

大隈は次第に頭角を現すと、次々にその手腕を発揮して行った。

 

 

 

1872(明治5)年、新橋~桜木町間に、日本初の鉄道が開通したが、

この鉄道開通の中心人物となり、鉄道開通を成し遂げたのも、大隈重信である。

大隈は、明治維新の直後、日本の近代化のために邁進し、日本のために尽くしたが、

この頃が、まさに「政治家・大隈重信」の黄金時代だったと言って良い。

 

<「明治十四年の政変」…1881(明治14)年、大隈重信、伊藤博文と対立し、大隈が伊藤に敗れ、失脚!!大隈、失意の内に「下野」>

 

 

 

 

ところが、大隈が政府内で活躍すればするほど、

大隈と同じく、少壮官僚として頭角を現して来た伊藤博文が、これを苦々しく思うようになって行った。

伊藤博文にとって、大隈重信はまさに「目の上のタンコブ」だったのである。

そして、1881(明治14)年、大隈と伊藤の対立は遂に極限に達し、

二人が相争った結果、伊藤が政争に勝利し、伊藤は大隈を明治政府から追い出してしまった。

これが、世に言う「明治十四年の政変」であるが、大隈は志半ばにして、失意の内に、明治政府を去る事となった。

大隈重信は、当時43歳にして「失脚」し、「下野」する事となったのである。

 

<福澤諭吉と大隈重信、意気投合!!諭吉が大隈に「貴方も、学校をおやりになったらどうです?」と勧める>

 

 

ところで、まだ大隈が明治政府に居た頃、

福澤諭吉は、『学問のすゝめ』という大ベストセラーを著すなど、文筆家としても大変有名だったが、諭吉はいつも、新聞紙上などで、舌鋒鋭く大隈を批判していた。

大隈も、その記事を頻繁に目にしていたが、当然、快くは思っていなかった。

大隈は、諭吉の事を「お高くとまっている学者」と評し、

諭吉も、大隈の事を「生意気な政治家」と罵った。

このように、諭吉と大隈は、お互いの事を激しく罵倒し合う「犬猿の仲」であった。

 

 

そんなある日、諭吉と大隈の共通の知人が、悪戯を仕掛け、

二人に黙って、わざと二人が顔を合わせるよう、同じ料亭に二人を呼んだのである。

実は、この時、諭吉と大隈は初めて顔を合わせたのだが、二人は一瞬、ハッとした様子を見せたものの、

意外や意外、二人はすぐに意気投合してしまった。

そこで、大隈が諭吉に対し、

「先生は羨ましいですね。未来ある若者に囲まれておいでだ」

と言ったところ、諭吉は大隈に、

「貴方も、学校をおやりになったらどうです?」

と返したという。

大隈は、その言葉に感銘を受け、「いつか、自分も学校をやりたい!!」と、強く思うようになった。

これは、あまりにも劇的なエピソードであり、早慶両校のルーツを辿って行く上で、極めて重要な出来事であると言えよう。

 

<1882(明治15)年…大隈重信、「東京専門学校」(後の早稲田大学)&立憲改進党を創立!!~伊藤博文、当初は「謀反人を養成する学校か!?」と疑い、スパイを送り込む>

 

 

 

大隈重信は、「明治十四年の政変」で、明治政府を追われた翌年、

1882(明治15)年に、立憲改進党を創設し、立憲改進党の総理に就任する一方、

東京・早稲田の地に「東京専門学校」を創立した。

この「東京専門学校」こそ、後の早稲田大学の前身であり、大隈の「学校を開きたい」という念願が叶った瞬間だった。

 

 

「東京専門学校」は、「進取の精神」「学の独立」を旗印としており、

その精神に共感した、数多くの若者達が集まった。

そして、「東京専門学校」は、大隈が下野した後に作られた学校という事もあり、

自然と「在野精神」の色彩が強い学校になっていたようである。

 

 

当初、この「東京専門学校」に、強い警戒感を抱いていたのが、

大隈を明治政府から追い出した張本人・伊藤博文であった。

伊藤は「大隈の奴、この学校で謀反人を養成し、この俺に刃向かうつもりではあるまいな!?」と、疑念を抱き、「東京専門学校」に、数多くのスパイを送り込んだという。

(※この事は、当時の警察の資料にも、ちゃんと記載されているとの事である)

 

<伊藤博文と大隈重信が和解!!伊藤は大隈に、外相として「不平等条約」改正の大任を任せるが…>

 

 

しかし、伊藤博文大隈重信は、やがて和解した。

当時、日本は幕末のドサクサに紛れ、諸外国と「不平等条約」を締結させられており、

その「不平等条約」改正は、明治政府にとって急務となっていた。

そこで、当時、首相を務めていた伊藤は大隈に頭を下げ、大隈に外相就任を依頼し、

大隈に「不平等条約」改正に取り組んでもらうよう、頼み込んだ。

そして、大隈もその依頼を受け入れ、外相に就任し、敢えて大変な役目を引き受けたのであった。

 

<1898(明治21)年…日本初の政党内閣「隈板内閣」を組閣するも…~大隈、暴漢に爆弾を投げられ、右足を失う(大隈遭難事件)>

 

 

 

1898(明治31)年6月、立憲改進党の大隈重信と、自由党の板垣退助が手を組み、

日本初の政党内閣である「隈板内閣」が組閣された。

それまでの、薩長中心の藩閥政府を倒し、画期的な政党内閣の誕生となったが、

自由党と立憲改進党では、政治的な考え方に隔たりが大きく、当初から足並みは揃わなかった。

そして、大隈の「不平等条約」改正交渉も、完全に行き詰まっていた。

 

 

 

 

 

そんな中、1889(明治22)年10月18日、大隈重信は、玄洋社という国粋主義者の団体に属する、

来島恒喜という暴漢に、突如、爆弾を投げつけられ、右足を吹っ飛ばされるという重傷を負ってしまった。

以後、大隈は義足で過ごす事を余儀なくされたが、大隈は、

「脳の中枢が破壊されない限り、足の1本や2本、無くなったところで、どうという事はない」

と言ったという。

大隈重信は、何とも剛毅な男であるが、それだけ、芯が強く、信念の強い人物だったという事であろう。

 

 

というわけで、日本を代表する思想家・福澤諭吉が創立した慶應義塾と、

信念の政治家であり、教育者となった大隈重信が作った東京専門学校(早稲田大学)が、

いよいよ、野球の試合で対決し、雌雄を決しようという機運が高まっていた。

 

(つづく)