1988/10/23…阪急ブレーブス最後の日⑩~ヨネカジ時代(1954~56)と七人の侍とゴジラ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

1953(昭和28)年、阪急ブレーブスは「夜の勇者」と称されるほど、西宮球場でのナイターの試合に滅法強く、

初優勝まで、あと一歩に迫り、パ・リーグ加盟以来、球団最高の2位と躍進した。

 

 

そして、そんな阪急ブレーブスに、大きな転機の時代が訪れた。

1954(昭和29)年に梶本隆夫、1956(昭和31)年に米田哲也という、

この後、阪急ブレーブスを長く支える事となる大投手が入団したのである。

所謂「ヨネカジ時代」の到来であるが、今回は「ヨネカジ時代」の幕開けと、

1950年代前半の映画界の隆盛ぶりなどについて、描いてみる事としたい。

 

<1951(昭和26)年…サンフランシスコ講和条約と、「特需景気」~戦後日本の復興期の分水嶺>

 

 

 

1951(昭和26)年、日本はサンフランシスコ講和条約に調印し、

日本は、曲りなりにも主権を回復し、漸く独立国家として再出発をする事となったが、

サンフランシスコ講和条約と同時に締結された日米安全保障条約(日米安保条約)は、この後、大問題を引き起こす事となった。

 

 

 

また、前年(1950年)に勃発していた「朝鮮戦争」で、

アメリカは、日本に大量の武器や弾薬を注文したが、これによって日本中の工場はフル稼働し、

日本は「特需景気」と称される、空前の好景気に沸いた。

皮肉な事に、日本は隣国の朝鮮半島で起こった戦争を足掛かりにして、戦後の経済復興のキッカケを掴んだのであった。

 

<手塚治虫の快進撃!!1950年代に入り、『ジャングル大帝』、『アトム大使』、『リボンの騎士』と大ヒット作を連発、そして『来るべき世界』では戦争の愚かさを描く>

 

 

1947(昭和22)年、革新的な漫画である『新宝島』を発表し、全国の少年少女を熱狂させた手塚治虫(1928(昭和3)年生まれ)は、1950年代に入ると、次々に名作・傑作を発表し、押しも押されもせぬ、超人気漫画家へと成長して行った。

 

 

1950(昭和25)年11月、手塚治虫は「漫画少年」(学童社)という雑誌に、

『ジャングル大帝』の連載を開始した。

それまで、手塚治虫は医学生と漫画家という二足の草鞋を履いていたが、雑誌連載を開始する事により、

手塚は、専業漫画家として生きて行く事を決意したという。

 

 

 

1951(昭和26)年、手塚治虫は、漫画雑誌「少年」(光文社)で、

後の『鉄腕アトム』の原型となる、『アトム大使』の連載を開始した。

人間の心を持つロボット、アトムの大活躍は、これまた少年少女達の大人気を集め、

『鉄腕アトム』は、手塚治虫の代表作の一つとなった。

 

 

 

1953(昭和28)年、手塚治虫は漫画雑誌「少女クラブ」(講談社)で、『リボンの騎士』の連載を開始した。

『リボンの騎士』は、男性の心と女性の心を持つ、サファイヤを主人公とした作品であるが、

『リボンの騎士』は、明らかに手塚が「宝塚」の影響を受けて描いた作品であると言って良いであろう。

というわけで、手塚治虫は、デビュー間もない1950年代初頭に、『ジャングル大帝』、『鉄腕アトム』、『リボンの騎士』という、超人気シリーズを早くも生み出してしまった。

まさしく、手塚治虫こそ、正真正銘の大天才である。

 

 

 

また、手塚治虫は1951(昭和26)年、書き下ろしの単行本で『来るべき世界』という作品を残している。

『来るべき世界』は、アメリカとソ連を思わせる、超大国であるスター国とウラン連邦という2つの国が激しく対立し、

やがて、核戦争により世界が滅亡する間際に、漸く、この両大国がそれまでの自分達の愚かさを悟り、仲直りするが、時既に遅し…というような内容であり、手塚が漫画作品を通して、戦争の愚かさと、核兵器の軍拡競争を続ける米ソ両国を痛烈に批判した内容となっている。

手塚治虫の作品の根底には、このように、常に戦争への嫌悪感と警鐘が、通奏低音として在り続けていた。

 

<1951(昭和26)年の大ヒット映画…『カルメン故郷に帰る』、『めし』、『愛妻物語』…etc>

 

 

 

1951(昭和26)年、松竹映画『カルメン故郷に帰る』(監督:木下恵介、主演:高峰秀子、佐野周二)は、

初の国産カラー映画という事で話題が話題を呼び、大ヒットを記録したが、

漸く、日本もカラー映画が作れるほどに国力が回復したという、戦後復興の象徴のような作品となった。

 

 

松竹は、1951(昭和26)年、当時、新進気鋭のスターとして人気急上昇中だった美空ひばりと、鶴田浩二が共演した、

『あの丘越えて』を公開しこれまた大ヒットさせたが、美空ひばりは同名の映画主題歌も大ヒットさせ、改めて、その人気ぶりを見せ付けた。

 

 

一方、東宝も松竹に負けじと、

同年(1951年)、原節子、上原謙という2大スターが共演し、成瀬巳喜男が監督を務めた『めし』を公開した。

『めし』は、林芙美子が原作の作品であり、未完の作品であるが、東宝はこれでもかとスターを惜しげもなく出演させ、大ヒット作に仕立て上げた。

 

 

同年(1951年)、松竹や東宝に対抗し、大映も新藤兼人監督で、

「宝塚」を退団したばかりの乙羽信子、そして宇野重吉が共演した『愛妻物語』を公開した。

なお、乙羽信子と新藤兼人は、この映画から27年後の1978(昭和53)年に結婚している。

 

<1952(昭和27)年の映画界…『生きる』、『原爆の子』、『西鶴一代女』…etc、アメリカ映画『風と共に去りぬ』が大ヒット>

 

 

 

1952(昭和27)年、東宝映画は20周年記念作品として、

黒澤明監督、志村喬主演の『生きる』を公開した。

『生きる』は、公務員として、生きる目的もなく淡々と生きて来た志村喬が、

癌で余命いくばくもない事を知り、自分の生きた証を残そうと一念発起し、公園を作る…というようなストーリーであるが、

本当に感動的な作品であり、黒澤明監督を代表する名作の一つとなっている。

 

 

当時は、まだ広島・長崎への原爆投下から、僅か数年しか経っていない頃であり、

人々の間に、原爆の記憶が生々しく残り、原爆の後遺症に苦しむ人も多い時代だった。

そんな中、新藤兼人監督作品である『原爆の子』が公開され、原爆の恐ろしさを告発し、注目を集めた。

 

 

同年(1952年)、溝口健二監督、田中絹代主演の『西鶴一代女』が公開され、

ベネチア国際映画祭で国際賞を受賞するなど、高い評価を集めたが、

この時期の日本映画は、国際的にも通用する非常にレベルの高いものであったというのは間違いない。

 

 

この年(1952年)は、ハリウッド映画『風と共に去りぬ』が日本公開され、大ヒットを記録したが、

実は、『風と共に去りぬ』は、戦前の1939年に作られた映画だという事を知り、当時の日本人は皆、大きなショックを受けたという。

「日本は、こんな凄い映画を作っている国と、戦争していたのか…」

と、彼我の国力の違いを、『風と共に去りぬ』を見て、改めて思い知ったとの事である。

 

<1953(昭和28)年の映画界…『君の名は』と『ひめゆりの塔』~戦争の影響が色濃い作品が大ヒット>

 

 

1952(昭和27)年、NHKラジオで放送された連続ラジオドラマ『君の名は』(脚本・菊田一夫)が大評判となった。

『君の名は』が放送される時間帯は、「銭湯の女湯が空(から)になった」という伝説を残したが、それだけ社会現象となっていたという事であろう。

ちなみに、『君の名は』は戦争により生き別れとなってしまったカップルのすれ違いを描いた内容である。

 

 

 

この大人気ぶりを、映画界が見逃す筈もなく、

1953(昭和28)年、『君の名は』は、主演:岸恵子、佐田啓二で松竹で映画化され、これまた爆発的な大ヒットを記録した。

『君の名は』に主演した岸恵子が、ショールを頭から巻く「真知子巻き」も大流行し、映画版『君の名は』も歴史に残る大ヒット作として、名を残した。

 

 

なお、『君の名は』のタイトルを拝借した、新海誠監督のアニメ映画『君の名は。』が、2016(平成28)年に爆発的な大ヒットを記録したというのも、記憶に新しい。

そして、1953(昭和28)年の『君の名は』の配球元が松竹だったのに対し、2016(平成28)年版の『君の名は。』の配球元が東宝だったという事も明記しておく。

 

 

同年(1953年)は、沖縄戦の悲劇を描いた東映映画『ひめゆりの塔』(監督:今井正)も公開され、大ヒットを記録した。

『君の名は』がそうであったように、『ひめゆりの塔』もまた、戦争の影響が色濃い作品であり、

この時期は、まだまだ戦争が終わってからそれほど時間が経っていないという世相を反映した作品が多かったという事であろう。

 

<1954(昭和29)年…第五福竜丸、ビキニ環礁での水爆実験で被爆、自衛隊が発足>

 

 

 

1954(昭和29)年、日本の第五福竜丸の乗組員が、ビキニ環礁でアメリカの水爆実験のために被爆し、

大量の「死の灰」を浴びて、乗組員が次々に亡くなるという痛ましい事件が起きた。

これを機に、世界的に原水爆禁止運動が高揚した。

また、「東西冷戦」の煽りを受けて、警察予備隊(1950年)⇒保安隊(1952年)を経て、この年(1954年)に自衛隊が創設され、

激動する世界情勢の中、日本も否応なく、国防を考えざるを得ない状況に置かれた。

 

<1954(昭和29)年のプロ野球…天知俊一監督率いる中日ドラゴンズ、三原脩監督が率いる西鉄ライオンズが初優勝>

 

 

 

1951(昭和26)~1953(昭和28)年にかけ、プロ野球は巨人と南海がリーグ3連覇を達成し、日本シリーズでは巨人が3年連続日本一となったが、1954(昭和29)年は、セ・リーグが天知俊一監督率いる中日ドラゴンズ、パ・リーグが三原脩監督率いる西鉄ライオンズが、それぞれ初優勝を達成した。

それぞれ、巨人と南海の天下にストップをかけたという意味で、中日と西鉄の躍進というのは、非常に意義深いものである。

 

<1954(昭和29)年の日本シリーズ…中日が4勝3敗で西鉄を破り、初の日本一!!>

 

 

 

1954(昭和29)年の日本シリーズは、中日ドラゴンズが西鉄ライオンズを4勝3敗で破り、中日が初の日本一の座に就いたが、

天知俊一監督が率いて、大エース・杉下茂を中心とした中日の結束の固さは「天知一家」とも称され、その絆の固さこそが、中日日本一の最大の要因であると言って良いであろう。

やはり、野球というのは、チームワークが何よりも大切である。

 

<1954(昭和29)年の阪急ブレーブス…「微笑みのサウスポー」梶本隆夫が入団!!入団1年目から20勝を挙げ、大活躍>

 

 

 

1954(昭和29)年、阪急ブレーブスに、1人の左腕投手が入団した。

それが、多治見工から阪急に入った、梶本隆夫である。

梶本隆夫は、プロ1年目の1954(昭和29)年から20勝12敗 防御率2.73と大活躍したが、

同年(1953年)は南海・宅和本司が26勝9敗と、梶本を更に上回る活躍をしたため、新人王は宅和に譲った。

梶本隆夫は、「20勝以上を挙げながら、新人王を逃した唯一の投手」となってしまった。

 

 

 

しかし、梶本隆夫の実力は誰もが認めるほど抜群であり、以後、梶本は阪急を長きにわたり支える大投手となった。

また、梶本は勝っても負けても、常に柔和な笑みを絶やさず、「微笑みのサウスポー」と称されたが、

その温厚な人柄は、誰からも愛されたという。

 

 

この年(1954年)の阪急は、梶本が新人ながらオールスターにファン投票で選出され、

梶本は西宮球場でのオールスター第1戦に先発し、入団2年目のレインズも梶本と共にオールスターに出場した。

レインズは、前年(1953年)の盗塁王に続き、この年(1954年)も打率.337で首位打者を獲得し、大活躍を見せたが、

阪急は、総合的には今一つ調子が上がらず、66勝70敗4分 勝率.485で、優勝した西鉄に28.5ゲーム差を付けられ、8球団中5位に終わった。

 

<1954(昭和29)年…東宝映画、『七人の侍』、『ゴジラ』で、爆発的な大ヒットを飛ばす!!東映のオールスター時代劇『里見八犬伝』、松竹映画の名作『二十四の瞳』も公開>

 

 

 

1954(昭和29)年は、東宝映画にとって、記念すべき年となった。

まず、黒澤明監督、三船敏郎、志村喬らが主演した『七人の侍』が、爆発的な大ヒットを記録したが、

野盗に襲われた村が、七人の浪人を雇い、野盗の撃退に挑むという内容の『七人の侍』の理屈抜きの面白さは、今見ても本当に素晴らしく、私は黒澤明監督作品の中では、『七人の侍』が最も好きである。

 

 

 

また、同年(1954年)は、人類の原水爆実験により、深い海底の底で眠りを覚ました大怪獣が大暴れするという、

東宝映画『ゴジラ』も、空前の大ヒットを記録したが、『ゴジラ』は社会性と娯楽性を両立させた名作であり、東宝映画史上に残る傑作である。

そして、『ゴジラ』の大ヒットにより、特撮監督の円谷英二の名声は不動のものとなったが、

『ゴジラ』シリーズは、今日もなお、東宝を代表するシリーズ作品として愛されているというのは、皆様もご存知の通りである。

(※ちなみに、志村喬は『七人に侍』『ゴジラ』の両方に出演している)

 

 

同年(1954年)、東映は、中村錦之助、東千代之介らが出演した、

オールスター時代劇『里見八犬伝』を公開し、大ヒットしたが、

以後、華やかなオールスター時代劇は、東映の看板作品となって行く事となった。

 

 

1954(昭和29)年は、高峰秀子、月丘夢路らが出演した、松竹映画『二十四の瞳』も大ヒットしたが、

小豆島を舞台に、女性教師・高峰秀子と12人の生徒達の交流を描いた、日本映画史上に残る、素晴らしい作品である。

 

<1954(昭和29)年…オードリー・ヘップバーンの『ローマの休日』『麗しのサブリナ』が大ヒットし、ヘップバーン・カットが大流行!!>

 

 

 

 

1954(昭和29)年、巨匠ウィリアム・ワイラー監督作品で、新人女優のオードリー・ヘップバーンと、大スター、グレゴリー・ペックが共演した、『ローマの休日』が日本でも公開され、『ローマの休日』は日本のファンにも大ウケし、大ヒットを記録した。

『ローマの休日』で彗星の如く現れたオードリー・ヘップバーンは、日本中の人達を虜にしてしまい、オードリーの髪型を真似たヘップバーン・カットが、当時の日本人女性の間でも大流行した。

某国王女のオードリーが、外遊中にお城を抜け出し、新聞記者のグレゴリー・ペックと、たった1日だけのロマンスを満喫するという内容の『ローマの休日』は、本当に素敵な作品であり、私も大好きである。

 

 

 

同年(1954年)、『ローマの休日』大ヒットの余韻も冷めやらぬ内に、

ビリー・ワイルダー監督で、オードリーが、堅物の兄、ハンフリー・ボガートと、プレイボーイの弟、ウィリアム・ホールデンという、大金持ちの兄弟をメロメロにしてしまう、魅力的な女性・サブリナを演じた、『麗しのサブリナ』も公開され、これまた大ヒットを記録した。

『麗しのサブリナ』では、オードリーは後にサブリナパンツと称される衣装も披露し、これまた社会現象となっている。

 

<1955(昭和30)年のプロ野球…日本シリーズで巨人が南海を1勝3敗から3連勝で破り、4度目の日本一!!>

 

 

1955(昭和30)年のプロ野球は、前年(1954年)に中日、西鉄に覇権を奪われた、巨人、南海が、それぞれ覇権を奪回し、

巨人、南海が2年振り4度目のリーグ優勝を達成した。

 

 

そして、日本シリーズは巨人-南海の4度目の対決となったが、

1勝3敗と追い込まれた巨人が、そこから3連勝し、巨人が2年振り4度目の日本一の座に就いた。

 

<1955(昭和30)年の阪急ブレーブス…ロベルト・バルボンが入団!!阪急は貯金20で8球団中4位に>

 

 

 

 

1955(昭和30)年、阪急ブレーブスに、キューバ生まれのロベルト・バルボンが入団した。

バルボンは、俊足好打の素晴らしい選手で、入団早々、阪急の二塁手の定位置を確保し、

1年目から、打率.280 5本塁打 48打点 23二塁打 13三塁打 49盗塁と大活躍した。

 

 

 

以後、「チコ」というニックネームのバルボンは、

誰からも愛された、陽気な人柄で、阪急の選手達に溶け込み、長きにわたり阪急の中心選手として活躍した。

なお、阪急はこの年(1955年)、80勝60敗2分と、貯金を「20」作ったが、8球団中4位という成績に終わった。

 

<1956(昭和31)年のプロ野球…水原巨人VS三原西鉄の「巌流島の決闘」~西鉄が巨人を4勝2敗で破り、日本一!!>

 

 

1956(昭和31)年のプロ野球は、水原茂監督率いる巨人と、三原脩監督率いる西鉄ライオンズが、それぞれリーグ優勝し、

巨人と西鉄が日本シリーズで対決したが、巨人を追われた三原脩と、巨人でエリートコースを歩む水原茂の「巌流島の決闘」と騒がれた。

そして、結果は西鉄が巨人を4勝2敗で破り、見事に三原脩が「打倒・巨人」「打倒・水原茂」の悲願を果たした。

 

<1956(昭和31)年の阪急ブレーブス…米田哲也が入団し、梶本隆夫と「ヨネカジ」コンビを結成!!~「ヨネカジ時代」の到来>

 

 

1956(昭和31)年、鳥取県・境高校の米田哲也投手を巡り、阪急と阪神の間で、激しい争奪戦となったが、

米田は当初、阪神に入りたがっており、米田哲也は阪急と阪神で二重契約問題を引き起こしてしまい、

一度は阪神のユニフォームで、阪神の練習にも参加していた。

 

 

 

だが、結局、米田哲也はコミッショナーの裁定により、1956(昭和31)年、阪急に入団した。

すると、米田は高橋ユニオンズとのデビュー戦で、自らプロ4打席目に満塁ホームランを放ち、

投げては初登板を初完投勝利を飾るという、上々のデビューを飾った。

 

 

米田哲也は「ガソリンタンク」とも称されるほど、無類のスタミナを誇り、

プロ1年目から9勝15敗 防御率2.38という成績を残すと、

プロ2年目からは19年連続二桁勝利、打撃でも通算33本塁打と大活躍するなど、

米田哲也は、梶本隆夫と共に阪急投手陣を支える大投手となり、以後、「ヨネカジ」コンビは阪急の大黒柱となり遂に、「ヨネカジ」時代が到来した。

(※1956(昭和31)年の阪急は、88勝64敗2分 勝率.578で、8球団中3位)

 

(つづく)