1988/10/23…阪急ブレーブス最後の日⑨~「夜の勇者」と映画・宝塚の復興(1950~53) | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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1949(昭和24)年末、プロ野球は2リーグに「分裂」し、

セントラル・リーグ(セ・リーグ)とパシフィックリーグ(パ・リーグ)に分かれ、

セ・リーグ8球団、パ・リーグ7球団という、計15球団の2リーグ制で、新たなスタートを切る事となった。

 

 

来年(2020年)、プロ野球はセ・パ両リーグに「分裂」してから、ちょうど70年という節目の年を迎えるが、

今回は、2リーグ「分裂」初期と、パ・リーグの一員となった阪急ブレーブスの奮闘ぶり、

そして、映画界や「宝塚」の戦後復興期などについて、描いてみる事としたい。

 

<1950(昭和25)年3月…セ・リーグ、パ・リーグが開幕!!阪急ブレーブスはパ・リーグの一員に>

 

 

 

1950(昭和25)年3月、プロ野球は2リーグに「分裂」して、初の開幕を迎えた。

まず、1950(昭和25)年3月10日、福岡・平和台球場とし下関球場で、セ・リーグの公式戦が開幕したが、

セ・リーグの参加球団は、下記の通りである。

 

読売ジャイアンツ

大阪タイガース

中日ドラゴンズ

松竹ロビンス

★大洋ホエールズ

★広島カープ

★西日本パイレーツ

★国鉄スワローズ(※翌1950(昭和25)年1月に加盟)

(★=新加盟の球団)

 

そして、3月10日のセ・リーグの公式戦開幕戦では、

広島カープ-西日本パイレーツ(※西日本が6-5で勝利)、大洋ホエールズ-国鉄スワローズ(※大洋が2-0で勝利)という対戦カードが開催された。

 

 

なお、大洋-国鉄の開幕戦では、この年(1950年)、阪急から大洋に移籍し、

阪急時代(1946~1949年)の4年間で、通算70勝を挙げていた今西錬太郎が完封勝利を挙げ、

見事に、記念すべき大洋ホエールズの公式戦開幕戦での勝利投手となった(※今西は、この年(1950年)、大洋で10勝13敗の成績を残した)。

 

 

 

一方、パ・リーグも、1950(昭和25)年3月11日、パ・リーグも公式戦開幕を迎えた。

パ・リーグの参加球団は、下記の7球団である。

 

阪急ブレーブス

南海ホークス

東急フライヤーズ

大映スターズ

★毎日オリオンズ

★西鉄クリッパーズ

★近鉄パールズ

(★=新加盟の球団)

 

 

3月11日、西宮球場での毎日オリオンズ-西鉄クリッパーズ戦が、パ・リーグの公式戦開幕戦となったが、

1914(大正3)年生まれ、当時36歳という「オールドルーキー」の、毎日オリオンズ・戸倉勝城が、西鉄・木下勇から、

見事に「プロ初打席初本塁打」を放った。

なお、戸倉勝城のホームランが、記念すべきパ・リーグ公式戦第1号ホームランとなった。

 

<1950(昭和25)年のパ・リーグ…毎日オリオンズが初代王者に輝く!!西本幸雄・荒巻淳ら「別府星野組」出身者と、別当薫・土井垣武ら、阪神出身者がガッチリ噛み合い、毎日オリオンズが独走で優勝>

 

 

 

さて、1950(昭和25)年のパ・リーグ初年度を制し、

記念すべきパ・リーグ初代優勝チームとなったのは、湯浅禎夫監督率いる毎日オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)である。

毎日オリオンズは、投打ともに強力メンバーを揃え、2位・南海ホークスに15ゲーム差を付ける、独走での優勝となった。

 

 

 

毎日オリオンズは、西本幸雄が率いていた「別府星野組」のメンバーが、

まずは球団創立メンバーの中核となっていたが、その西本幸雄も、

この年(1950年)は7番・一塁手として活躍し、毎日オリオンズの優勝メンバーの一人となった。

 

 

そして、西本幸雄が「別府星野組」から一緒に連れて来た、「火の玉投手」荒巻淳が26勝8敗 防御率2.06と大活躍し、

荒巻は大エースとして、文字どおり、毎日のパ・リーグ優勝の原動力となった。

 

 

 

一方、毎日オリオンズは、阪神タイガースの主力だった若林忠志・土井垣武、別当薫らを大量に引き抜いたが、

彼ら阪神からの移籍組も大活躍し、毎日優勝の立役者となった。

つまり、毎日の優勝は「別府星野組」と阪神タイガースの出身者によって成し遂げられたと言っても、過言ではなかった。

しかし、毎日は阪神ファンからの恨みを買ってしまい、残念ながら、あまり人気は出なかったという。

 

<1950(昭和25)年のセ・リーグ…「水爆打線」の松竹ロビンスが、独走でセ・リーグ初代王者に就く!!>

 

 

 

一方、セ・リーグは、大陽ロビンスから球団の命名権を、映画会社の「松竹」が買い取った、

小西得郎監督率いる「松竹ロビンス」が、これまた2位・中日ドラゴンズに9ゲーム差を付ける独走で、

松竹ロビンスが、セ・リーグ初代優勝チームとなった。

 

 

 

 

松竹ロビンスは、小鶴誠、岩本義行、大岡虎雄を中心とし、「水爆打線」と称され、各球団を震え上がらせた超強力打線と、

39勝12敗 防御率3.05と大活躍した、エース・真田重蔵を軸とした投手陣という豪華メンバーで、投打がガッチリ噛み合い、危なげなくセ・リーグを独走で制した。

映画会社「東宝」を擁していた阪急は、新参の「松竹」に優勝を掻っ攫われる形となったが、やはり野球とは、いかに強力なメンバーを揃えられるかが、勝負の分かれ目という事であろう。

 

<1950(昭和25)年の阪急ブレーブス…54勝64敗2分(勝率.458)、首位・毎日から28.5ゲーム差の4位に終わるも、浜崎真二監督兼投手が「史上最年長勝利投手」となり、4番・中谷順次も大活躍>

 

 

1950(昭和25)年、2リーグ「分裂」初年度の阪急ブレーブスは、開幕4戦目から11連敗を喫するなど、開幕当初から下位に低迷し、

最終的には、阪急は54勝64敗2分(勝率.458)で、優勝した毎日から28.5ゲーム差を付けられ、4位に終わった。

しかし、阪急の監督兼投手の浜崎真二が、5月7日、48歳4ヶ月という、史上最年長での勝利投手となった。

これは、後年、山本昌(中日)に更新されるまで(2014年9月5日、山本昌が49歳0ヶ月で勝利投手)、長らく「史上最年長勝利投手」の日本プロ野球記録として残っていた。

そして、同年(1950年)11月5日の阪急-毎日戦で、ファンサービスの一環として、阪急・浜崎真二(当時48歳10ヶ月)、毎日・湯浅禎夫(当時48歳1ヶ月)の両監督が先発投手同士として投げ合ったが、「40代同士の先発投手の対決」は、その後、2005(平成17)年9月9日の巨人・工藤公康(当時42歳4ヶ月)VS中日・山本昌(当時40歳)まで、長い間、実現しなかった(※その後、山本昌絡みで、2例が実現している)。

 

 

また、この年(1950年)の阪急ブレーブスは、4番・中谷順次が、打率.299 21本塁打98打点と大活躍し、

例の2リーグ「分裂」に伴い、18人の新戦力が加入したものの、投打とも、全体的に奮わず、前述の通り、4位に終わっている。

 

<1950(昭和25)年の第1回日本シリーズ(日本ワールドシリーズ)、4勝2敗で毎日が松竹を破り、初代日本一!!>

 

 

 

さて、プロ野球は壮絶な「喧嘩別れ」により、2リーグに「分裂」してしまった経緯が有ったため、

2リーグ「分裂」初年度の1950(昭和25)年には、オールスターゲームも開催されなかった。

しかし、GHQがセ・パ両リーグの間を取り持ち、同年(1950年)、セ・パ両リーグの優勝チーム同士で、

「先に4つ勝った方が日本一」という、日本選手権が開催される事となった。

こうして、1950(昭和25)年、松竹ロビンス-毎日オリオンズという対決で、「第1回日本ワールドシリーズ」が開催された。

 

 

 

 

 

こうして開催された、1950(昭和25)年の第1回「日本ワールドシリーズ」は、

毎日オリオンズが4勝2敗で松竹ロビンスを破り、栄えある初代日本一の座に就いた。

事前の予想では、松竹が有利と見る向きも有ったが、どうやら松竹の球団内部に内紛が有り、

松竹は足並みが乱れていたようである(小鶴誠、真田重蔵、どちらがMVPを獲るのかで揉めたようである。結果は、小鶴がMVP)。

そして、西本幸雄は選手として「日本一」を体験したが、後年、監督として「日本一」に挑戦するための、長い道のりが待っているとは、この時、誰も予想する者は居なかったであろう。

 

<戦後の「東西冷戦」~東西ドイツ分断~1950(昭和25)年、遂に「朝鮮戦争」が勃発!!>

 

 

1945(昭和20)年、第二次世界大戦が終結したが、

同年(1945年)、戦争が終わる前に、フランクリン・ルーズベルト(アメリカ)、チャーチル(イギリス)、スターリン(ソ連)という、連合国側の首脳が集まり、「ヤルタ会談」を開き、戦後の世界の秩序を話し合っていた。

そして、戦争が終わったと同時に、資本主義陣営のアメリカと、社会主義陣営のソ連の対立が深まった。

 

 

 

 

1948(昭和23)年には、東西ドイツが分断され、西ドイツをアメリカ、東ドイツをソ連が支配したが、

東ドイツの首都ベルリンは、更に西ベルリンと東ベルリンに分断されるなど、

アメリカを中心とした西側諸国と、ソ連を中心とした東側諸国の間で「東西冷戦」が起こり、

第二次世界大戦が終わって早々、世界は超大国が睨み合う情勢となってしまった。

 

 

 

 

そして、1950(昭和25)年6月25日、ソ連が支援する北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)が、アメリカが支援する韓国(大韓民国)に、突如、宣戦布告し、遂に「朝鮮戦争」が勃発してしまった。

「東西冷戦」は、遂にアメリカとソ連の代理戦争とも言うべき「朝鮮戦争」に発展したが、このように、当時の世界情勢は非常に緊迫していたのである。

 

<戦後「宝塚歌劇団」スター列伝~越路吹雪、新珠三千代、春日野八千代、乙羽信子、有馬稲子、八千草薫etc…綺羅星の如き、「宝塚」のスター達>

 

 

 

「宝塚歌劇団」も、プロ野球同様、戦後、華々しく復活したが、

戦後の「宝塚」には、次々に新しいスターが誕生して行った。

まず、花組の越路吹雪&新珠三千代のコンビが大人気となり、

やがて、越路吹雪、新珠三千代は「宝塚」の枠を超えた大スターとなって行った。

 

 

 

春日野八千代は、戦前は「宝塚」の星組、雪組で男役スターとして活躍し、

戦後も、長らく男役のトップスターとして「宝塚」を引っ張り、

「永遠の二枚目」として、長く愛されるスターとなった。

春日野八千代は、相手役として乙羽信子など、数多くの後進を育て、「宝塚」への貢献度は比類ないものであると言って良い。

 

 

 

その春日野八千代に育てられ、「宝塚」でスターの道を歩み始めたのが、乙羽信子であった。

乙羽信子は、前述の通り、「宝塚」では娘役で活躍し、1950(昭和25)年に「宝塚」を退団した後に映画界に進出し、更に活躍の幅を広げた。

 

 

 

1948(昭和23)年、「宝塚」に入った有馬稲子は、「宝塚」では娘役として活躍した。

その後、有馬稲子は「宝塚」で初めて男役を演じた際に、自分の男役に違和感を感じ、

1953(昭和28)年に「宝塚」を退団した後は、映画界に転じ、東宝の専属女優として活躍した。

 

 

 

 

つい先頃(2019年10月24日)、享年88歳で亡くなった八千草薫も、「宝塚」出身である。

八千草薫は、1947(昭和22)年に「宝塚」に入団し、その可憐な容貌で、娘役として大活躍した。

今見ても、若い頃の八千草薫は、今の時代にも通用するぐらい、メチャクチャ可愛いと私は思うが、八千草薫のみならず、当時の「宝塚」は、綺羅星の如きスターが勢揃いしており、「宝塚」は戦後の黄金期を築いて行った。

 

<1950(昭和25)年の映画界…黒澤明監督、三船敏郎主演の『羅生門』がベネチア国際映画祭で金獅子賞(グランプリ)、『暁の脱走』、『また逢う日まで』、『きけわだつみの声』など>

 

 

 

 

1950(昭和25)年、黒澤明監督、主演:三船敏郎、京マチ子という顔ぶれの映画『羅生門』が、大映により、公開された。

『羅生門』は、当初、興行的にはあまり奮わなかったが、ベネチア国際映画祭で金獅子賞(グランプリ)を受賞するという快挙を達成、

黒澤明監督は、一躍「世界のクロサワ」という国際的な名声を博し、『羅生門』は日本映画史上に残る金字塔となった。

 

 

 

 

また、この年(1950年)は、山口淑子、池部良が主演した『暁の脱走』(新東宝)、

久我美子、岡田英次の「ガラス越しのキス」が話題になった『また逢う日まで』(東宝)、

戦没学生の悲痛な叫びを映画化した『きけ、わだつみの声』(東横)などが、大ヒットを記録した。

いずれも、日本映画史に残る、名作、傑作揃いである。

 

<1951(昭和26)~1953(昭和28)年のプロ野球…巨人(水原茂監督)VS南海(鶴岡一人監督)が3年連続で日本シリーズで対決、巨人が3年連続日本一を達成~巨人「第2期黄金時代」を築く>

 

 

翌1951(昭和26)~1953(昭和28)年のプロ野球は、

セ・リーグでは、水原茂監督率いる巨人が3年連続優勝、

パ・リーグでは、鶴岡一人監督率いる南海ホークスが3年連続優勝を達成し、

日本シリーズは、3年連続で巨人VS南海の対決となったが、巨人が3年連続で日本シリーズで南海を破り、

巨人が3年連続ぬ本一を達成、巨人は戦前期の「第1期黄金時代」に続き、「第2期黄金時代」を築き上げた。

この時代は、セ・リーグでは巨人、パ・リーグでは南海が、他球団も羨む強力メンバーを揃え、圧倒的に強かったのである。

 

<1951(昭和26)~1952(昭和27)年の阪急ブレーブス…2年連続5位に低迷>

 

 

 

 

1951(昭和26)~1952(昭和27)年、浜崎真二監督が率いる阪急ブレーブスは、2年連続5位に終わった。

主砲・中谷順次(準志)が活躍し、俊足好打の川合幸三、1950(昭和25)年7月20日の近鉄戦で、9回2死までノーヒットノーランという快投を見せた左腕・阿部八郎、1950(昭和25)年5月11日の近鉄戦では9回を僅か71球という、史上最少投球数で完投勝利を挙げた柴田英治などが活躍し、1951(昭和26)年、毎日から阪急に移籍した戸倉勝城も存在感を発揮したが、阪急はチームとしては低迷した。

 

 

そんな中、1952(昭和27)年には、阪急は球団史上初となる黒人選手、ニューベリー、ブリットンを獲得するなど、

何とか、チームの浮上を図る打開策を取り続けた。

何しろ、阪急には豊富な資金力が有ったので、チーム強化にはお金を惜しまなかったが、それがなかなか結果には結び付かない状態が続いた。

 

<1953(昭和28)年…西宮球場にナイター設備が完成!!~ナイターに滅法強い阪急、「夜の勇者」と称され、2位に大躍進!!>

 

 

1953(昭和28)年は、阪急ブレーブスにとって、大きな転機となった年である。

西宮球場にナイター設備が完成し、1953(昭和28)年5月5日には西宮球場の阪急-毎日戦でナイター開きの試合を行なった。

その試合は18,000人の観客が詰めかけ、西宮球場の初ナイターを楽しんだ。

 

 

 

この年(1953)、阪急ブレーブスは西宮球場でのナイターに滅法強く、その強さから「夜の勇者」と称された。

その原動力となったのが、レインズ、ゲインズ、ブリットンの外国人トリオであり、

ゲインズは61盗塁で盗塁王、ブリットンは打率.276、ゲインズは14勝を挙げ、阪急の中核を担った。

2年目の柴田英治も17勝を挙げるなど、阪急は投打が噛み合い、オールスター明けに10連勝を記録するなど、

阪急は9月まで南海と激しく優勝を争ったが、最後は南海に惜しくも及ばず、初優勝は成らなかった。

しかし、パ・リーグ加入以来、阪急は球団最高の2位と躍進し、西宮球場でのナイターは26戦21勝と、年間通して「夜の勇者」の躍進は続き、西宮球場に足を運んだ阪急ファンを喜ばせた。

 

(つづく)