1949(昭和24)年のプロ野球は、それまでの1リーグ8球団制から、
プロ野球への新規参入を狙う、多数の企業からの加盟申請が相次ぎ、
激動の季節を迎えていた。
そして、同年(1949年)9月21日、毎日新聞が加盟申請するに及び、
いよいよ、プロ野球「分裂」は避けられない情勢となった。
というわけで、今回はプロ野球の2リーグ「分裂」と、
2リーグ「分裂」に伴う、プロ野球の各球団同士の血で血を洗う「抗争」について、描いてみる事としたい。
<2リーグ分裂の鍵を握る存在・「阪神」①~阪神・野田誠三社長が、正力松太郎と「毎日新聞の加盟を認め、新たに2球団を加え、1リーグ10球団制に移行」という「念書」を交わす~正力松太郎は、将来的な「読売中心リーグ」「毎日中心リーグ」の並立を構想していた!?>
1949(昭和24)年の、プロ野球の「分裂」騒動は、毎日新聞の加盟申請により、風雲急を告げる展開となったが、
実は、毎日新聞の加盟と、プロ野球「分裂」の鍵を握る存在だったのは、「阪神」であった。
正力松太郎は、1949(昭和24)年の恐らく前半、密かに毎日新聞へ、「プロ野球に参入しないか」と、声を掛けていたが、
それと同時に、正力松太郎は、大阪タイガース(阪神)の野田誠三オーナーにも接触した。
そして、正力は野田誠三と、「毎日新聞の加盟を認め、新たに2球団を加え、1リーグ10球団制に移行」という「念書」を交わした。
つまり、正力は毎日新聞をプロ野球に引き入れる計画を野田に密かに告げ、
正力は「その時には、阪神も賛成してくれ」と、阪神に対して「根回し」をしていたのである。
前回の記事でも書いた通り、当初、正力松太郎は、
「まずは2球団を加え、1リーグ10球団制を敷く。その後、新たに2球団を加え、12球団になった所で、2リーグに分ける」
という、「段階的」「漸進的」な、2リーグ制への移行案を構想していた。
その第一段階として、まずは毎日新聞にプロ野球に入ってもらい、行く行くは、「読売中心リーグ」「毎日中心リーグ」の2つに分ける、という腹積もりだったと思われる。
つまり、読売新聞と毎日新聞という、大メディアが、それぞれのリーグを仕切り、切磋琢磨する事によって、2大リーグを発展させて行くという考え方である。
<2リーグ分裂の鍵を握る存在・「阪神」②~「5対3」の「多数決」で、毎日新聞の新規参入&1リーグ10球団制を押し切りたい正力松太郎VS「毎日新聞に入って来られたら困る」読売新聞>
1949(昭和24)年9月下旬、毎日新聞をはじめ、近鉄、西鉄が正式にプロ野球への加盟申請を行なったが、
その加盟申請を受け、1949(昭和24)年9月30日~10月1日の、プロ野球連盟の最高顧問会議では、新規参入問題が討議された。
そして、その会議の結果、
賛成派:阪神、阪急、南海、東急、大映
反対派:巨人、中日、大陽
という、「賛成派」「反対派」に「分裂」したというのは、前回の記事で書いた通りである。
この時点では、「5対3」で「賛成派」がリードしており、正力松太郎は、「多数決」によって、
「毎日新聞の新規参入」「毎日新聞を含めた2球団を加え、1リーグ10球団制に移行」
という腹案を、一気に押し通そうと目論んでいた。
しかし、巨人の親会社である読売新聞は、毎日新聞の新規参入を快く思っていなかった。
もっと言えば、読売の本音としては、毎日の参入は「絶対反対」であった。
何故なら、当時の毎日新聞は、読売新聞の倍近い発行部数を誇っており、
そんな巨大メディアが、プロ野球に入って来られると、読売としては困るのである。
なお、当時の正力松太郎は、読売を代表してというより、ほぼ正力の個人として、毎日新聞の新規加盟のために動いていた。
当時、正力は読売新聞社内の権力闘争で不利な立場にあり、必ずしも、読売を代表する存在ではなかったのであった。
そんな事もあって、自分の影響力を高めたいという思惑も有り、正力は毎日新聞のプロ野球参入に、躍起になっていたという側面も有ったと思われる。
<2リーグ分裂の鍵を握る存在・「阪神」③~プロ野球への加盟申請が殺到し、正力の「構想」が頓挫~新規加盟賛成派の5球団が「2リーグへ分裂しても賛成5球団は分かれず、毎日と同じリーグへ一緒に参加する」という「誓約書」を交わす>
しかし、前回の記事で書いた通り、正力の予想を超えて、多数の企業がプロ野球へ加盟申請を行なったため、
正力の「漸進的な2リーグ制移行」という構想は、頓挫してしまった。
そこで、前述の顧問会議での「賛成派」の5球団は、「2リーグへ分裂しても賛成5球団は分かれず、毎日と同じリーグへ一緒に参加する」という「誓約書」を交わし、阪神・野田誠三オーナーも、署名・捺印したという。
この時点で、「賛成派」の5球団は、毎日新聞の加盟と、プロ野球の2リーグ「分裂」をも見越して、このような「誓約書」を交わしたのであった。
この段階で、阪神はプロ野球参入問題の鍵を握る存在になっていた。
「賛成派」の球団は、阪神が賛成に回ってくれているお陰で、多数派を維持出来ていたのだが、
実は、この時、阪神の内部でも、新規参入問題を巡って、社内を二分する争いが起こっていたのである。
そこに読売が目を付け、阪神へ揺さぶりをかけて来る事となるが、その話については、後述する。
<1949(昭和24)年のプロ野球(1)~「ラビットボール」でホームラン激増!!「ブギの女王」笠置シヅ子に影響を受けた、阪神・藤村富美男が「46ホームラン」で史上最多本塁打記録を更新し、「ミスタータイガース」と称され、長嶋茂雄にも影響を与える>
この時代、「ブギの女王」と称された笠置シヅ子が、
パワフルで底抜けに明るいステージで、多くの観客を魅了し、大人気となっていたが、
その笠置シヅ子のステージを見て、大きな影響を受けた人物が居る。
それが、阪神の藤村富美男であった。
藤村富美男は、笠置シヅ子のステージを見て、確信した。
「これこそ、プロだ!プロは、お客さんを楽しませてナンボだ!!」
そこで、藤村富美男は、「物干し竿」と称された、長いバットを振り回し、ホームランを積極的に狙う打法を編み出した。
この年(1949年)のプロ野球は、「ラビットボール」と称された、やたらに飛ぶボールを使用していたが、
その「ラビットボール」の恩恵も有り、藤村富美男は、前年(1948年)の川上哲治・青田昇の25ホームランという記録を大幅に更新し、
何と、46ホームランという新記録を樹立した。
そして、この年(1949年)のプロ野球は、各球団の選手達がバカスカ打ちまくり、あらゆる打撃記録を更新して行った。
そして、ショーマンシップ溢れる藤村は、ファンの大人気を集め、藤村富美男は「ミスタータイガース」と称される、花形スターになっていた。
この藤村に憧れていたのが、後の「ミスター・プロ野球」長嶋茂雄だったというのは、有名な話である。
長嶋は、「自分も、藤村さんのように、観客を楽しませる選手になりたい!!」と決意したが、やがてその願いは現実のものとなる。
<1949(昭和24)年のプロ野球(2)~笠置シヅ子の『ホームラン・ブギ』で歌われた「虎に巨人にロビンス阪急、鷹に東急中日スターズ…」当時のプロ野球8球団を歌に盛り込む~後年(2003年)、吉田拓郎が歌詞をそのままにカバー>
この年(1949年)、笠置シヅ子は『ホームラン・ブギ』(作詞:サトウハチロー、作曲:服部良一)というヒット曲を出した。
その曲の中に、こんな歌詞が有る。
「虎に巨人にロビンス阪急、鷹に東急中日スターズ みんな揃って元気な元気な選手」
つまり、この曲では、当時のプロ野球8球団の球団名が登場している。
即ち、大阪タイガース、巨人、大陽ロビンス、阪急ブレーブス、南海ホークス、東急フライヤーズ、中日ドラゴンズ、大映スターズという8球団であるが、その8球団の内情といえば、「みんな揃って」どころか、分裂してグチャグチャになっていたというのは、これまで述べて来た通りである。
なお、『ホームラン・ブギ』は、後年(2003年)、吉田拓郎が『ホームラン・ブギ2003』としてカバーしたが、
「虎に巨人にロビンス阪急、鷹に東急中日スターズ…」という歌詞は、そのまま歌っていた。
そのお陰で、我々は1949(昭和24)年当時のプロ野球8球団を、スラスラと覚える事が出来るわけであるが、
この『ホームラン・ブギ2003』は、暫くの間、フジテレビのプロ野球中継のテーマ曲としても使用されていた。
<1949(昭和24)年10月12日…アメリカの3A(マイナーリーグ)所属の「サンフランシスコ・シールズ」が来日!!戦後初の日米野球が開催され、プロ野球の新規参入問題は一時「棚上げ」>
1949(昭和24)年10月12日、アメリカの3A(マイナーリーグ)所属のプロ野球チーム、
サンフランシスコ・シールズが来日し、戦後初の日米野球が開催された。
サンフランシスコ・シールズ来日により、プロ野球の新規参入問題のゴタゴタは、一時「棚上げ」され、
プロ野球は、一致結束して、シールズを出迎えた。
なお、この時の日米野球で、日本代表はシールズに7戦全敗を喫し、日米の実力の差を見せ付けられる結果となったが、
シールズは、日本中のファンに大歓迎を受け、改めて、日本の野球熱の高さが示される事となった。
<2リーグ分裂の鍵を握る存在・「阪神」④~1949(昭和24)年11月22日、突如、阪神が「反対派」に寝返り!!読売の殺し文句「巨人-阪神戦が無くなっても良いのか?」>
サンフランシスコ・シールズがアメリカに帰った後、プロ野球新規参入問題を巡るバトルは再開された。
そして、1949(昭和24)年11月22日、事態は急展開を見せた。
何と、阪神がそれまでの新規参入「賛成派」から、突如「反対派」に寝返ったのである。
これには、他の「賛成派」4球団も仰天したが、実は、阪神電鉄の社内でも、プロ野球の新規参入を巡って、賛成か反対かは二分されていた。
阪神のオーナー・野田誠三は、「賛成派」と「誓約書」まで交わしていたが、阪神球団代表・富樫興一は、
「そんな話は、タイガース球団として約束したわけではない」として、「反対派」に寝返る事を表明した。
どうやら、阪神としては、野田誠三の見解は、あくまでも阪神電鉄本社としての見解であり、
タイガースという球団として賛成したわけではない、という理屈らしい。
何故、阪神が突如、寝返ったのかについては、諸説有るようであるが、
一説によると、読売が阪神内部での「内紛」に目を付け、阪神に対し、こういう殺し文句を言ったという。
「巨人-阪神戦が無くなっても良いのか?」と。
つまり、このまま阪神が読売と袂を分かっては、巨人と阪神が違うリーグになり、
それまで、プロ野球の看板カードだった巨人-阪神戦が無くなってしまう。
「阪神さん、おたくは本当にそれで良いのですか?」というわけである。
読売による切り崩しと、この殺し文句が決定打となり、阪神は読売側に寝返ったというわけであるが、果たして真相はどうだったのであろうか?
ともあれ、阪神が態度を急変させ、読売側に付いた事だけは確かである。
そして、「賛成派」「反対派」は、阪神の寝返りにより「4対4」の全く同数となり、
いよいよ、収拾が付かない事態となった。
賛成派:阪急、南海、東急、大映
反対派、巨人、中日、大陽、阪神
<1949(昭和24)年11月26日…遂にプロ野球「分裂」が決定!!~ただちに「太平洋野球連盟」(パシフィック・リーグ)結成を発表!!「毎日」を加えた7球団でパ・リーグの歴史がスタート>
1949(昭和24)年11月26日、東京会館別館で、プロ野球連盟の会議が開かれたが、
「賛成派」「反対派」の間の亀裂は、もはや修復不可能であった。
そして、この会議を以て、プロ野球の「分裂」が決定した。
上の写真は、プロ野球「分裂」が決まった、歴史的瞬間を捉えたものであるが、
手前側が「読売」中心の「反対派」の各球団、奥側が「毎日」加盟賛成派の各球団のものである。
そして、同日(11月26日)の午後1時、「賛成派」の各球団は、
毎日新聞社別館で、直ちに「太平洋野球連盟」(パシフィック・リーグ)の結成を発表した。
こうして、パ・リーグが旗揚げされたが、パ・リーグへの参加球団は、下記の7球団である。
阪急ブレーブス
南海ホークス
東急フライヤーズ
大映スターズ
★毎日オリオンズ
★西鉄クリッパーズ
★近鉄パールズ
(★=新加盟の球団)
なお、当時の新聞でも、「プロ野球連盟は解散し、2リーグに「分裂」した」と、ハッキリ書いている。
つまり、プロ野球は喧嘩別れにより「分裂」したというのは、誰の目にも明らかであった。
ともあれ、パ・リーグの歴史は、阪急、南海、東急、大映の既存の4球団に、「毎日」「西鉄」「近鉄」という新加盟の3球団を加えた、7球団でスタートする事となった。
<1949(昭和24)年12月15日…「セントラル野球連盟」(セントラル・リーグ)結成を正式発表!!~翌1950(昭和25)年、「国鉄スワローズ」を加え、8球団でセ・リーグの歴史が始まる>
一方、「読売」側の4球団も、新リーグを結成せざるを得ない状況となったが、
「太平洋野球連盟」(パシフィック・リーグ)に対抗し、即座に新リーグをスタートさせる予定だったものの、
大陽ロビンスが映画会社の「松竹」へ売却される事もあり、その手続きが終了するのを待って、
1949(昭和24)年12月15日、「セントラル野球連盟」(セントラル・リーグ)の結成披露会を開催した。
セ・リーグへの参加球団は、下記の通りである。
読売ジャイアンツ
大阪タイガース
中日ドラゴンズ
松竹ロビンス
★大洋ホエールズ
★広島カープ
★西日本パイレーツ
★国鉄スワローズ(※翌1950(昭和25)年1月に加盟)
(★=新加盟の球団)
セ・リーグは、巨人、阪神、中日、松竹の既存の4球団に、
「大洋」「広島」「西日本」、そして翌1950(昭和25)年1月に「国鉄」という、4球団の新規参入球団を加え、
8球団で、セ・リーグの歴史は始まる事となった。
こうして、すったもんだの末に、プロ野球はセ・リーグとパ・リーグへと「分裂」する事となった。
<8球団⇒15球団へと、プロ野球の球団が倍増し、「仁義なき引き抜き合戦」が勃発…新球団・毎日オリオンズが、阪神から大量に主力を引き抜くなど、プロ野球は混沌とした「無法地帯」に>
プロ野球は、前代未聞の大騒動の末、「セ・リーグ」「パ・リーグ」へと分裂したが、
それまでの1リーグ8球団制から、「セ・リーグ」8球団、「パ・リーグ」7球団という、計15球団へと球団数が「倍増」してしまった。
そのため、各球団とも、選手の獲得には血眼になった。
前回の記事でも述べたが、当時のプロ野球には、統一契約書などは存在していない。
そのため、各球団とも、少しでも有力な選手を集めようと、とにかくお金を積み、選手の獲得に血道を上げた。
至る所で札束が乱れ飛び、各球団とも、選手を引き抜いたり引き抜かれたりという、全く酷い状況となった。
中でも、新球団の毎日オリオンズは、阪神を「狙い撃ち」し、毎日は阪神から若林忠志、土井垣武、別当薫、呉昌征、本堂保弥など、主力選手を大量に引き抜いたが、阪神から毎日に行かなかった主力選手は、藤村富美男ただ一人というような状態であった。
まさに、プロ野球は「仁義なき戦い」という言葉がピッタリの様相を呈したが、
この「仁義なき引き抜き合戦」により、セ・パ両リーグ間の憎悪は抜き難いものとなってしまった。
というわけで、大騒動の末に2リーグに分かれたプロ野球は、翌1950(昭和25)年から始まる新時代を迎える事となったのであるが、
果たして、阪急ブレーブス、そして新生パ・リーグの運命や如何に!?
(つづく)