1988(昭和63)年10月19日、所謂「10.19」の、ロッテ-近鉄のダブルヘッダー第2試合は、
8回表に、近鉄がラルフ・ブライアントのホームランで4-3と勝ち越したものの、
8回裏、近鉄のエース・阿波野秀幸が、ロッテ・高沢秀昭に痛恨の同点ホームランを浴び、
試合は、4-4の振り出しに戻ってしまった。
何度も書いている通り、近鉄は、この試合、勝たなければ優勝は出来ない。
もし、負けるか引き分けに終われば、結果待ちの西武に優勝が転がり込んでしまう。
つまり、近鉄としては、「10.19」の第2試合は、何が何でも、勝たなければならない試合であった。
<「10.19」の第2試合…午後10時、「ニュースステーション」の放送開始、「ニュースステーション」の枠内で、「10.19」の放送継続~燃え上がる、超満員の川崎球場のスタンド>
「10.19」の第2試合は、4-4の同点のまま、9回表に突入した。
そして、この時点で時刻は午後10時を回り、テレビ朝日系列で放送されていた野球中継は、
そのまま、「ニュースステーション」の放送の枠へと雪崩れ込む事となった。
テレビ画面に、「ニュースステーション」のキャスター・久米宏が登場し、
「このまま、ニュースステーションの枠内で、野球中継を継続します」という事を視聴者に告げ、
「今日は、お伝えしなければならないニュースも沢山有るのに…。皆さん、助けて下さい」
と、久米宏は苦笑いしていた。
その「お伝えしなければならないニュース」の中には、あの「阪急ブレーブスの身売りの電撃発表」も含まれていた。
午後10時を過ぎても、川崎球場のスタンドは燃えていた。
川崎球場は、ギッシリ超満員の観客で埋め尽くされていたが、その殆んどが近鉄を応援する近鉄ファンであり、
近鉄優勝を信じて、バファローズに大声援を送っていた。
<「This is プロ野球!!」と、「This is ニュースステーション」…ロッテ・水上善雄の、超ファインプレー>
さて、試合は4-4の同点のまま、9回表、近鉄は2死2塁という、一打勝ち越しのチャンスを迎えた。
ここで、テレビ朝日の画面は、「ニュースステーション」のスタジオから、川崎球場の映像へと切り替わった。
「川崎球場が、重大な局面を迎えています」と、久米宏は視聴者に告げた。
この2死2塁の、一打勝ち越しの場面で、近鉄の2番・新井宏昌が打席に入ったが、
新井はロッテの4番手・関清和から、三塁線へ鋭い当たりを放った。
「三塁線を抜けた!近鉄、勝ち越しか!?」
と思われたが、ロッテの三塁手・水上善雄が、この打球を横っ飛びでダイビング・キャッチすると、
即座に立ち上がり、一塁へ矢のような送球を送り、タイミングは微妙だったが、判定は「アウト!!」となった。
この素晴らしいビッグ・プレーを、ABC朝日放送の安部憲幸アナウンサーは、
「This is プロ野球!!」
というフレーズで形容した。
まさに、「これぞ、プロ野球!!」とも言うべき、物凄いファインプレーであった。
その直後、テレビ画面は、「ニュースステーション」のスタジオに切り替わったが、
久米宏は「This is ニュースステーションでございます」と言って、安部憲幸アナウンサーの「名実況」に呼応した。
流石は、頭の回転が早い、久米宏らしい返しであると言えよう。
<9回裏…阿波野のバント処理失敗で、近鉄が大ピンチを招く>
4-4の同点のまま、試合は9回裏に入った。
マウンドには、8回から登板し、この回が2イニング目となる阿波野秀幸が上がっていた。
そして、ロッテはこの回先頭の、7番・古川慎一がヒットで出塁し、
続く8番・袴田英利が送りバントを試みたが、この打球を処理しようとしていた阿波野が、
何と、捕手の梨田昌孝とぶつかって、転倒して尻餅をついてしまった。
結局、球は何処にも投げられず、オールセーフとなり、無死1、2塁とピンチは拡大してしまった。
「しまった…。こんな大事な場面で、何でこんなミスしてるんだろ…」
阿波野は、呆然とした表情で、その場に座り込んでしまった。
近鉄は、サヨナラ負けの重大な危機に陥り、近鉄優勝は風前の灯かと思われた。
<9回裏無死1、2塁から、阿波野の見事な二塁への牽制球で、二塁タッチアウト!!しかし…>
4-4の同点で迎えた9回裏、近鉄の阿波野は、自らのバント処理ミスにより、無死1、2塁の大ピンチを迎えた。
しかし、この場面でも阿波野は冷静さを保っており、続く水上善雄の打席の時に、
阿波野は、二塁へ素早く牽制球を投げると、二塁手の大石大二郎が、ジャンプしながらこの牽制球を捕り、
二塁から、少し飛び出していた古川にタッチすると、判定は「アウト!!」となった。
阿波野の見事な牽制球により、近鉄はピンチの芽を摘み取り、近鉄ファンからは大歓声が起こった。
しかし、ここで「10.19」における最大の事件が勃発した。
<ロッテ・有藤道世監督が、牽制球の判定を巡り猛抗議!!~近鉄・仰木監督の一言で、更に有藤監督の講義が長引く>
阿波野の、二塁への牽制球を巡り、ロッテの二塁ランナー・古川をはじめ、
ロッテの選手達が、猛抗議を始めた。
すると、ロッテのベンチから、脱兎の如く有藤監督が飛び出し、有藤監督も、審判団に詰め寄り、猛抗議をした。
しかし、この時点では、実は有藤監督は、
「ベンチで見ていたら、完璧アウトだった。でも、ウチの選手達が抗議しているんだから、監督としては一緒に抗議に行かなければならない。でも、アウトはアウトなんだし、ひっくり返りっこないんだから、帰ろうと思っていた」
との事である。
ところが、ここで仰木監督が、抗議を続ける有藤監督の元に近寄り、
「もういいだろう」
というような事を言った。
そこで、有藤監督はカチンと来てしまい、
「あんたらだけで野球やってんのか、この野郎!!」
と思い、有藤監督は、意地になって抗議を続けたとの事である。
いずれにせよ、有藤監督の抗議は延々と続き、時間は刻一刻と過ぎて行った。
<長引く有藤監督の抗議で、「4時間」のタイムリミットが迫る…タイムリミットは、午後10時44分>
仰木監督が、有藤監督に「早くしてくれ」というのには、理由が有った。
前にも書いた通り、当時のパ・リーグには、「延長戦は12回」までという規定が有ったが、
それとは別に、「試合開始後4時間を経過すると、(9回以降)新たなイニングには入らない」というものである。
つまり、「10.19」の第2試合の場合、試合開始の午後6時44分から、4時間を経過した午後10時44分を過ぎると、その時点で、新しいイニングには入らず、試合はそのイニングで打ち切りとなる。
「ニュースステーション」のキャスター・久米宏が、ABC朝日放送・安部憲幸アナウンサーから、その規定に関する説明を受け、
「という事は、有藤監督の抗議が長引けば長引くほど、近鉄としては不利になるわけですね」
と、久米宏は言った。
その言葉どおり、もし有藤監督の抗議が延々と続けば、その分、時間だけが過ぎて行き、近鉄に残された攻撃のイニングは少なくなってしまうのである。
近鉄ナインは、「早く、早くしろ!!」と、ジリジリしながら、有藤監督の抗議の様子を見守り、
近鉄ファンからは、一斉に大ブーイングと「帰れ!!」コールが起こった。
<9回裏、試合再開後…2死満塁の一打サヨナラ負けの大ピンチを、阿波野が切り抜ける!!~レフト・淡口憲治のファインプレー>
結局、有藤監督の攻撃は、9分間にも及んだ。
これは、丸々1イニング分にも匹敵するが、試合再開後、ロッテは阿波野を攻め、2死満塁という、一打サヨナラのチャンスを作った。
ここで、ロッテは愛甲猛が打席に入ったが、愛甲は阿波野の投球を捉え、レフト線にフラフラっと上がる、中途半端なフライを放った。
この打球に、近鉄のレフト・淡口憲治は猛ダッシュし、そして、地面スレスレで、この打球をダイレクトで捕った。
「あわや、サヨナラ打か!?」
という打球を、淡口はファインプレーで掴み取ったが、近鉄は、またしても絶体絶命の危機を切り抜けたのであった。
ここまで、まさに近鉄は天国と地獄を行ったり来たりしていたが、果たして、どんな結末が待っているのであろうか!?
<10回表…近鉄の攻撃は無得点…タイムリミットの「4時間」が経過し、遂に、近鉄優勝の夢が潰える>
4-4の同点のまま、10回表、近鉄の攻撃を迎えた。
時計の時刻は、間もなく午後10時44分を指そうとしており、この回が、近鉄にとって、事実上、最後の攻撃と思われた。
近鉄は、10回表、ロッテ・関清和から、先頭のブライアントがセカンドゴロのエラーで出塁し(※代走・安達俊也と交代)、無死1塁となったが、
ここで打席に立ったオグリビーは、残念ながら空振り三振に倒れてしまった。
10回表、1死1塁となって、かつて、1974(昭和49)年には4打数連続ホームランを記録した事も有る、一発長打が魅力の、羽田耕一が打席に立った。
近鉄優勝の夢は、この羽田のバットに託される事となった。
しかし、羽田の打球は、二塁ベース寄りを守っていた、二塁手・西村徳文の正面に飛ぶ、平凡なゴロになった。
西村は、そのままゴロを取り、自ら二塁ベースを踏むと、そのまま一塁に転送し、一塁もアウトとなった。
羽田は、二塁ゴロ併殺打に倒れ、近鉄の10回表の攻撃は無得点に終わった。
この時、時計は午後10時41分を指しており、4時間のタイムリミットまでは、あと3分であった。
あと3分で、10回裏を終わらせるのは、ほぼ絶望的である。
つまり、この瞬間、近鉄優勝の夢は、遂に儚く潰えてしまった。
<近鉄優勝の夢が破れ、落胆する仰木監督以下、近鉄バファローズの面々…そして10回裏、「プロ野球史上、最も空しい守備」を経て、試合は4-4の引き分けに終わる>
10回表の攻撃が0点に終わり、仰木監督以下、近鉄バファローズの首脳陣や選手達は、
皆、一様にガックリと肩を落とし、落胆を露わにした。
近鉄は、奇跡の逆転優勝を信じ、13日間15連戦という激闘を戦い抜いて来たが、遂に、最後の最後で優勝を逃してしまった。
10回表の攻撃が終わった時、事実上、1988(昭和63)年の近鉄バファローズの戦いは幕を閉じたと言っても良かった。
しかし、試合はまだ10回裏が残っていた。
近鉄は、ともかく10回裏の守備に就く必要が有ったが、既に近鉄の勝利の可能性は消えていた。
そんな中、10回裏を守った所で、一体、何になるというのか?
この、「10.19」の第2試合の10回裏の近鉄の守備は、
「プロ野球史上、最も空しい守備」と称されている。
この時、近鉄ファンからは、「可哀想だから、もうやめてあげて!!」と、そこかしこで、すすり泣きが起こったという。
そして、近鉄は10回裏のロッテの攻撃を無得点に抑え、試合は4-4の引き分けに終わった。
<結果待ちの西武ライオンズの優勝が決定!!~試合が無かった西武球場で、森監督の胴上げが行われる>
「10.19」の第2試合、近鉄優勝の可能性が潰えた瞬間、
本拠地の西武球場で、近鉄の試合の結果待ちをしていた、西武ライオンズの選手達は、歓喜を爆発させた。
近鉄が、時間切れ引分けに終わった事により、西武ライオンズのパ・リーグ4連覇が決定した。
そして、西武球場には、熱心な西武ファンも一緒に待機していたが、
その西武ファンの前で、西武の森監督の胴上げが行われた。
1988(昭和63)年のパ・リーグは、長い長い戦いの末、遂に西武ライオンズに凱歌が上がったのであった。
<1988(昭和63)年10月19日…「10.19」ロッテ-近鉄ダブルヘッダーの試合結果>
なお、「10.19」の試合結果の詳細は、上記の画像の通りであるが、
改めて振り返ってみても、近鉄・ロッテ共に、死力を尽くした、物凄い2試合であった。
(書いていて、私もグッタリしてしまった(?)ほどである)
<2試合で7時間33分、「10.19」の死闘~そして、伝説へ…「パ・リーグの一番長い日」として語り継がれる、伝説の名勝負に昇華>
結局、「10.19」の死闘は、2試合で7時間33分という、長い戦いの末、近鉄は惜しくも優勝を逃した。
試合後、仰木監督は「精一杯、戦ったので、悔いはございません」と述べたが、
その表情には、悔しさが有り有りと滲んでいた。
なお、金村義明の証言によると、仰木監督は、この後、人知れず悔し涙を流していたとの事である。
近鉄は、ほんの僅かの差で、本当に惜しくも、優勝を逃してしまったのだから、その悔しさは察して余りある。
(1988年 西武・近鉄の最終順位)
①西武 73勝51敗6分 勝率.589
②近鉄 74勝52敗4分 勝率.587 0ゲーム差
「10.19」の熱闘の模様は、これまで述べて来た通り、
全国放送された事もあり、多くの人達によって視聴されたが、
優勝を目指し、必死に戦い抜き、そして最後に力尽きた近鉄バファローズの戦いぶりは、多くの人の胸を打った。
この試合については、当時から多くのマスコミに取り上げられたが、年を経るごとに、その「伝説」ぶりが増して行った。
2004(平成16)年限りで、近鉄バファローズという球団が消滅してしまった事もあり、
この「10.19」は、より一層、「伝説の名勝負」としての色彩が濃くなって行き、いつしか「パ・リーグの一番長い日」として、今日まで語り継がれて来たが、「10.19」は、プロ野球史上屈指の名勝負として、今もなお、輝きを放っている。
というわけで、私もいつかは書きたいと思っていた、「10.19」の詳細について、今回は少し気合いを入れて(?)書かせて頂いた。
私個人としては、「10.19」について、しっかりと書く事が出来て、大変満足である。
皆様、長々とお読み頂き、有り難うございました!!
(【今日は何の日?特別編】1988/10/19…「完」)