サザン史・外伝(特別編)…桑田佳祐VS長渕剛⑦ ~1994年(後編)「泥沼」~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

1994(平成6)年、桑田佳祐のソロ・アルバム『孤独の太陽』に収録されていた、

『すべての歌に懺悔しな!!』という曲の歌詞を巡り、長渕剛桑田佳祐「宣戦布告」した事により、

遂に、「1994桑田・長渕戦争」とも言うべき、全面戦争が勃発した。

 

 

桑田佳祐長渕剛という、2人の大物同士による「全面戦争」は、

この年(1994年)の年末にかけて、ますますヒートアップして行ったが、

果たして、どのような展開になって行くのか、先行きが全く見通せない状況が続いていた。

 

<1994(平成6)年10月…長渕剛による「宣戦布告」!!~桑田佳祐・原由子夫妻の子供にボディーガードが付けられる事態に…>

 

 

桑田佳祐は、『すべての歌に懺悔しな!!』は、

「自分も含めた、ミュージシャン全体の事を歌ったものであり、誰か特定の人を攻撃したものではない」

と、釈明した。

矢沢永吉は、桑田の「謝罪」を受け、その「謝罪」を受け入れたが、

長渕剛は、それを受け入れず、「あれは、どう聴いても、自分の事を歌ったものだ!!」と、激怒した。

その根拠として、『すべての歌に懺悔しな!!』の最後で、桑田佳祐「いらっしゃーい!!」と呟いている箇所は、

「あれは、俺の(1992年の)東京ドームライブでの、冒頭の挨拶の事だろう。そうじゃないとしたら、あれは一体なんだ!?」

というような趣旨の事を言っている。

(※しかし、桑田佳祐は1993年のサザンの年越しライブでも、冒頭で「いらっしゃーい!!」と言っているのだが…)

 

 

そして、何と長渕剛は、桑田佳祐に対し、「脅迫状」を送り付けるという「暴挙」に及んだ。

当時、桑田佳祐・原由子夫妻の2人の子供達は、まだ小学生だったのだが、

長渕からの「脅迫状」に、桑田・原夫妻は青くなり、2人の子供達の小学校への行き帰りの際に、万一の事を考えて、ボディーカードを付けるという羽目になった。

この時、桑田も「まさか、こんな事になってしまうなんて…」と、思っていたのではないだろうか。

当時、私はこのニュースを聞いて、「長渕は、何を考えているんだ!?」と、憤ったのを覚えている。

 

<1994(平成6)年…日本テレビのドラマ『家なき子』と、主題歌『空と君のあいだに』(中島みゆき)の大ヒット!!>

 

 

 

 

1994(平成6)年4~7月にかけて、脚本家・野島伸司が企画し、

当時12歳の安達祐実が主演した、日本テレビのドラマ『家なき子』が放送されたが、

理不尽な運命に翻弄されながらも、健気に生き抜こうとする安達祐実の姿が、視聴者の共感を呼び、

『家なき子』は大ヒットを記録した。

 

 

『家なき子』で、次々に過酷な目に遭う安達祐実が叫んだ「同情するなら金をくれ!!」という台詞は、

この年(1994年)の流行語となり、安達祐実は、一躍、時代の寵児となったのであった。

そして、日本テレビは、この後、1990年代後半にかけて、大ヒット番組を次々に生み出して行った。

 

 

 

 

また、『家なき子』の主題歌であり、中島みゆきが歌った『空と君のあいだに』も大ヒットしたが、

『空と君のあいだに』とは、中島みゆきが、『家なき子』の脚本を読み、安達祐実を見上げる、愛犬リュウの視点に立ち、愛犬リュウから見た安達祐実、という視点で書いたという逸話が残っている。

そして、『空と君のあいだに』は、中島みゆきの代表曲の一つとなった。

 

<1994(平成6)年…TBSドラマ『人間・失格~たとえば僕が死んだら』が大ヒット~野島伸司・脚本、Kinki Kids初主演の、衝撃のドラマ>

 

 

 

 

野島伸司は、この年(1994年)の7~9月にかけて、TBSで放送された『人間・失格~たとえば僕が死んだら』というドラマの脚本も書いたが、

Kinki Kids(堂本光一、堂本剛)の初主演ドラマとしても話題になった『人間・失格~たとえば僕が死んだら』は、大ヒットを記録した。

ドラマの内容としては、ある私立中学に転入して来た堂本剛が、壮絶なイジメに遭って、自殺に追い込まれてしまい、

堂本剛の父親・赤井英和が、イジメを行なった生徒や教師達に復讐して行くという、壮絶な内容であった(※当時、高校生だった私は、堂本剛がイジメを受ける場面は、辛すぎて、とても直視出来ないほどであった)

野島伸司が書く脚本は、衝撃的なものばかりであり、1990年代という時代の雰囲気を象徴していると言って良いであろう。

 

<1994(平成6)年…TBSドラマ『私の運命』と、ユーミン(松任谷由実)が歌う主題歌『砂の惑星』>

 

 

 

 

1994(平成6)年10月~翌1995(平成7)年3月にかけて、TBSで放送された『私の運命』も、私にとっては、忘れ難きドラマである。

坂井真紀東幹久は、幸せいっぱいの新婚カップルだったが、東幹久が肺癌に冒されてしまい、壮絶な闘病をするという内容の物語であるが、東幹久の母親役の野際陽子と、東幹久の主治医・佐野史郎、そして、佐野史郎と反目しながらも、その腕前は認めている、坂井真紀の兄(※血は繋がっていない)で、医師の段田安則、更に、佐野史郎の愛人で、看護師の常盤貴子など、出演者達も皆、それぞれ個性的で素晴らしく、心に残る内容だった。

そして、ユーミン(松任谷由実)が歌う、主題歌『砂の惑星』も、大変印象に残っている。

 

<1994(平成6)年…ユーミン(松任谷由実)の代表作『春よ、来い』が大ヒット!!>

 

 

 

1994(平成6)年10月~翌1995(平成7)年3月にかけて、NHKの連続テレビ小説『春よ、来い』が放送された。

安田成美が主演した『春よ、来い』は大ヒットしたが、今日では、『春よ、来い』といえば、

ユーミン(松任谷由実)が歌った、同名タイトルの主題歌『春よ、来い』の方が有名であろう。

 

 

 

 

ユーミン(松任谷由実)が歌った『春よ、来い』は、名曲中の名曲であり、大ヒットを記録したが、

『春よ、来い』は、今や誰もが認める、ユーミン(松任谷由実)の代表作の一つである。

桑田佳祐長渕剛が揉めていたこの年(1994年)、このように、中島みゆきとユーミン(松任谷由実)という、

2人の大物女性アーティストは、歴史に残る名曲を生み出したのであった。

 

<1994(平成6)年…福山雅治の台頭…『It's Only Love』が大ヒット!!>

 

 

1994(平成6)年3月、サザンも所属するレコード会社・ビクターからリリースされた、

福山雅治『It's Only Love』が大ヒットしたが、桑田佳祐は、ビクターの後輩・福山雅治に目をかけるようになった。

ドラマ『ひとつ屋根の下』に出演し、俳優として注目されていた福山雅治は、以後、アーティストとしても注目を集める存在となって行った。

 

<1994(平成6)年10月31日…桑田佳祐『祭りのあと』のカップリングに『すべての歌に懺悔しな!!』が収録~桑田が出演するキリン・ジャイブのCMソングにも起用>

 

 

 

 

1994(平成6)年10月31日、「1994桑田・長渕戦争」の真っ只中でリリースされた、

桑田佳祐のソロ・シングル『祭りのあと』のカップリング曲として、『すべての歌に懺悔しな!!』が収録されたが、『祭りのあと』は大ヒットしたので、カップリング曲の『すべての歌に懺悔しな!!』は、ますます多くの人に聴かれるようになって行った。

 

 

また、同年(1994年)、桑田佳祐は前年(1993年)に引き続き、

キリンの缶コーヒー・ジャイブのCMに出演したが、そのCMソングとして『すべての歌に懺悔しな!!』が起用された。

いずれも、「1994桑田・長渕戦争」勃発の前に、既に決まっていた事ではあると思われるが、

結果として、『すべての歌に懺悔しな!!』は、ますます世の中に浸透して行ったのであった。

 

<長渕剛、雑誌「VIEWS」で「俺は桑田佳祐を絶対許さない」と、改めて桑田佳祐を攻撃…「1983ナゴヤ事変」の顛末が語られる>

 

 

 

 

「1994桑田・長渕戦争」を象徴する事件として、今もなお語り草となっているのが、

雑誌「VIEWS」のロング・インタビューで、長渕剛桑田佳祐に対する「怒り」をぶちまけた出来事である。

そこで長渕は、「1983ナゴヤ事変」の経緯も含めて、桑田に対する「恨み節」を語ったが、

長渕の、桑田に対する「怒り」の根深さが、ここで改めて浮き彫りになった。

(※「1983ナゴヤ事変」の顛末は、既に別の記事で紹介しているので、ここでは繰り返さない)

 

<1994(平成6)年11月28日…日刊スポーツで、泉谷しげるが長渕剛を痛烈批判!!>

 

 

1994(平成6)年11月28日、桑田佳祐、長渕剛の2人と親交が有る、泉谷しげるが、日刊スポーツで連載していた、自らのコラムで、「1994桑田・長渕戦争」に関して、以下のようなコメントを発表した。

 

「『すべての歌に懺悔しな!!』は、どの角度からどう分析したって明らかに長渕を指してるぜ。最後に長渕がコンサートで使うキーワード「いらっしゃい」で締めてんだから当然だろ。(中略)桑田、何で『長渕を歌ったんじゃない』なんて言い訳したんだ。初めから『テメーのことを歌ったんだ。おまえが嫌いだ。謝んねえぞ』といってやりゃよかったんだよ。そうすりゃ謝り方に因縁つけられることもねえんだからさ。大好きだったボブ・ディランにバカにされたジョン・レノンが、怒りのあまりディランを本名で攻撃する曲を作って発売したことがあるが、長渕は多分桑田が好きだったから頭にきたんだろうな」

 

「長渕は『ダチになりたい』と思って近づいたが、桑田にしたら『暗くてうっとうしくて面倒くさそうなやつだ』程度の印象だったんだろう。(1983年のナゴヤ球場でのジョイントコンサートについて)10年以上も前の話なんか持ち出してるが、桑田は覚えてねえよ。当時の長渕なんて売れてねえんだから前座は当然だし、ビールかけだって興奮した桑田にはよくある話なんだけどな。(中略)長渕、テメーのファンを味方につけて『桑田の馬鹿野郎』とガンガンやれ。歌のおとしまえは歌で返すのがルールだ。『サーフィンも出来ないのに湘南野郎を気取っている』なんてイヤミな曲を作ってみろい」「それにしても、永ちゃん(矢沢永吉)は大人だねぇ」

 

泉谷しげるは、そう言って、この騒動を「一刀両断」したが、「桑田・長渕騒動」に関して、一番面白いコメントを発したのは、この時の泉谷しげるではないだろうか。

そして、それは大いに頷けるものであった。

泉谷は、長渕に対し「テメーもミュージシャンなら、脅迫状なんか送るんじゃなくて、歌でやり返せ!!」と言っているのであり、蓋し正論であろう。

 

<1994(平成6)年末…「1994桑田・長渕戦争」を煽り立てる週刊誌>

 

 

 

この年(1994年)の年末に至っても、「1994桑田・長渕戦争」は、全く収まる気配を見せず、

各週刊誌が、こぞって、この騒動について書き立てた。

以下、主なものを列挙しておく事とする。

 

◆ロクなもんじゃねえ対決
けんか売られた長渕剛 桑田佳祐にに宣戦布告
週刊朝日(1994年12月9日号)

◆おおコワ~イ 長渕剛 桑田佳祐に宣戦布告!
”中傷ソング”でついにキレた
「おとしまえはつけてもらうぜ」売られたケンカは買うぜ!桑田ぁ~
週刊女性(1994年12月13日号)

◆長渕剛 桑田佳祐 ケンカ再噴火!
「田舎もんを怒らすとただじゃすまねぇ!」
11年前の「前座扱い、ビールぶっかけ事件」屈辱と怨念が今!
女性自身(1994年12月13日号)

◆長渕剛vs桑田佳祐 怨念大喧嘩に火に油の大物続々参戦!
アサヒ芸能(1994年12月15日号)

◆長渕剛vs桑田佳祐 ニューミュージックの両巨頭が一触即発
週刊宝石(1994年12月15日号)

◆桑田vs長渕 ニューミュージック的ケンカの中身
週刊読売(1994年12月18日号)

◆長渕剛の怨念激情に、桑田佳祐が用心棒を雇った!
微笑(1994年12月24日号)

◆爆笑大放談!’94「列島スキャンダル」を斬る!
バトル編 桑田佳祐vs長渕剛
「人柄・家庭・収入で桑田の圧勝だよ」
「長渕派・志穂美、石倉三郎を侮るな」
アサヒ芸能(1994年12月29日号)

 

このように、マスコミも明らかに面白がっている様子なのが見て取れるが、

私としても、「いつまで、この騒ぎが続くのか」と思っていたのを、よく覚えている。

 

<1994(平成6)年12月30日…横浜アリーナでの桑田佳祐ライブに、私が初参戦!!そこで桑田佳祐が発した一言とは…!?>

 

 

 

1994(平成6)年12月30日、私は横浜アリーナで行われた、桑田佳祐のライブに、初めて参加した。

私にとっては、生まれて初めての桑田佳祐のライブであり、私は大感激していたのであるが、

このライブの最中、桑田佳祐はMCで「1994桑田・長渕戦争」について、少し触れていた。

その時、桑田は、

「俺はなー、ハッキリ言って、喧嘩は弱いぞ」と発言し、会場は大爆笑に包まれたのを覚えている。

この時のライブは、テレビ中継などはなく、この時、横浜アリーナに居た観客だけが、この発言を聞いたという事になるが、桑田の「自虐的」なギャグに、私も大笑いしてしまった。

 

<1994(平成6)年12月31日…TBSで生中継された年越しライブで、桑田佳祐が「今日は、特別ゲストが来ます!!」と発言、その特別ゲストとは…!?>

 

 

翌12月31日に、同じ横浜アリーナで行われた、桑田佳祐の年越しライブは、TBSで生中継されたのだが、

その年越しライブで、桑田佳祐「今日は、特別ゲストが来ます!!」と発言し、盛んに観客を煽っていた。

「まさか、長渕が来るのか…!?」

私も含め、テレビの視聴者や、会場に居た観客は皆、長渕の事が頭に浮かんだ筈である。

 

 

しかし、ライブの終盤、会場に現れた「特別ゲスト」は、長渕剛ではなく、

サザンのレコード会社の後輩・福山雅治と、桑田と親交の有る泉谷しげるであった。

考えてみれば、桑田の「年越しライブ」の会場に長渕が来る筈はないのであるが、桑田は、それをわかっていながら、わざと、そのような「煽り」を行なったのであろう。

こうして、「1994桑田・長渕戦争」「泥沼」の様相を呈したまま、1994(平成6)年という年は暮れて行ったのであった。

 

<1994(平成6)年9月20日…イチロー、史上初のシーズン200安打達成!!>

 

 

 

1994(平成6)年9月20日、イチロー史上初のシーズン200安打を達成し、

この年、吹き荒れた「イチロー旋風」は最高潮に達した。

当時20歳の天才打者・イチローは、この後も、次々に「伝説」を生み出す事となって行く事となる。

 

<1994(平成6)年…西武ライオンズ、パ・リーグ史上初の5連覇達成!!>

 

 

1994(平成6)年、森祇晶監督率いる西武ライオンズは、

一時、西武、オリックス、近鉄、ダイエーの4球団が0.5ゲーム差にひしめくという状態となった大混戦を制し、西武が、パ・リーグ史上初の5連覇を達成し、「最強軍団」の面目躍如となった。

しかし、藤井寺球場の近鉄戦で優勝を決めたその日、食堂には祝宴なども無く、森監督は不快感を示し、それが後の西武退団の伏線となった。

 

<1994(平成6)年10月8日…長嶋巨人が、伝説の「10.8」決戦(史上初のシーズン最終戦の同率決戦)で中日を破り、劇的な優勝!!>

 

 

 

 

 

1994(平成6)年、前半戦は2位以下に10ゲーム以上の大差を付け、独走していた長嶋巨人は、夏場に8連敗を喫するなど、大失速した。

そして、シーズン終盤、長嶋巨人中日ドラゴンズに猛追され、遂に129試合目(残り1試合)で、巨人と中日は69勝60敗という全く同率首位で並び、130試合目、10月8日のシーズン最終戦のナゴヤ球場での中日-巨人戦で、「勝った方が優勝」という、プロ野球史上初の「同率最終決戦」を迎えた。

この試合を、巨人の長嶋茂雄監督「国民的行事」と名付け、何処か楽しむような風情が有ったが、満天下注視の、この大一番で、

長嶋監督は、槙原寛巳-斎藤雅樹-桑田真澄「三本柱」を惜しげもなく投入する、執念の采配を見せ、結局、巨人が6-3で中日を破り、見事に優勝を達成した。

なお、桑田佳祐のライブツアー「さのさのさ」のドキュメンタリーのビデオでも、この「10.8」決戦で、巨人が勝利したのを受け、桑田のバックバンドのメンバーとスタッフ達が、テレビ中継を見ながら大喜びしている様子が収録されているが、実はアンチ巨人である桑田佳祐は、ガッカリした様子を見せていた。

 

<1994(平成6)年…長嶋巨人が、森西武を4勝2敗で破り、長嶋巨人が初の日本一!!>

 

 

 

1994(平成6)年の日本シリーズは、長嶋巨人森西武の対決となった。

その結果、巨人が4勝2敗で西武を破り、長嶋巨人が日本一の座に就いたが、長嶋茂雄監督は、第1期監督時代(1975~1980年)も含め、初の日本一達成となった。

なお、日本シリーズで2年連続で敗れた、西武の森祇晶監督は、日本シリーズ終了後、西武の監督を退任したが、

9年間でリーグ優勝8度、日本一6度という、西武の黄金時代を築いた、森祇晶監督の功績は、誠に素晴らしいものであった。

 

(つづく)