サザン史・外伝(特別編) ~桑田佳祐VS長渕剛②…1983年「事変」~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

1994(平成6)年に勃発し、世間を騒がせた「桑田佳祐VS長渕剛」騒動について、

その原因を明らかにするため、桑田佳祐サザンオールスターズ、そして長渕剛の、デビュー以来の足跡について、描いている。

 

 

前回の記事では、桑田佳祐長渕剛の、デビュー以来の奮闘と、

桑田と長渕が、1983(昭和58)年に初めて出会った所までを描いたが、

今回は、後年の「桑田佳祐VS長渕剛」騒動の遠因となった、1983(昭和58)年の2人の出会いについて、詳しく描いて行く事としたい。

なお、あらかじめ言っておくが、後年、長渕は今回の件について、饒舌に語っているものの、桑田は、公の場では一切語っていないため、

基本的には、長渕剛の発言(言い分)に基づき、今回の件を描く、という事を、一応お断りしておく。

 

<1983(昭和58)年5月…長渕剛と石野真子が離婚~僅か2年で結婚生活が破綻>

 

 

1983(昭和58)年5月、長渕剛石野真子夫妻が、突如、離婚した事を発表した。

2人が結婚したのは、1981(昭和56)年であり、結婚生活は僅か2年ほどで破綻した、という事になる。

ビッグカップルの離婚について、週刊誌などが一斉に書き立てたが、

「長渕のDVが原因だった」と、離婚の原因を断定するメディアも有った。

 

 

 

その後、暫くの間、鳴りを潜めていた石野真子がマスコミの前に姿を現し、

「離婚の原因は、夫の暴力が原因ではない」と発言したものの、

長渕のDV疑惑は、後々まで囁かれる事となった。

 

 

また、後年、長渕もこの事について心境を語っているが、

夫婦の間に、本当は何が有ったのかについては、当事者以外にはわからないものである。

ただ一つ言えるのは、長渕剛石野真子の結婚生活は、2年しか持たなかったという客観的事実が有る、という事であろう。

 

<1983(昭和58)年…『ボディ・スペシャルⅡ』と『ふぞろいの林檎たち』とTAISHITAレーベル…絶好調のサザンオールスターズ!!>

 

 

 

1983(昭和58)年のサザンオールスターズは、絶好調の快進撃を続けていた。

まず、サザンはシングル『ボディ・スペシャルⅡ』をリリースしたが、

これは、曲の合間に「Oh!Yeah!」や「Oh!No!」といった掛け声が有り、明らかに、ライブでの盛り上がりを意識した楽曲を作っていた。

そして、その狙いは図に当たり、『ボディ・スペシャルⅡ』は、サザンのライブでは欠かせない定番曲となって行った。

 

 

 

また、同年(1983年)5~7月にかけて、TBSで放送されたドラマ『ふぞろいの林檎たち』の主題歌に、

サザンの『いとしのエリー』が起用され、その他、劇中に登場する曲は全てサザンの楽曲だった事もあり、

サザンは、ますますファン層を拡大して行く事となった。

そして、『ふぞろいの林檎たち』の出演者達(中井貴一、時任三郎、柳沢慎吾、手塚理美、石原真理子、中島唱子ら)も、お茶の間の人気者となった。

 

 

また、同年(1983年)はサザンは新レーベルである「TAISHITA(たいした)レーベル」を立ち上げ、

以後、サザンの作品は、この「TAISHITA(たいした)レーベル」からリリースされる事となったが、

これにより、サザンはますます、自分達のやりたい音楽を追求する事が出来るようになっていた。

このように、サザンは日の出の勢いで、ますます人気を上昇させ、押しも押されもせぬ「日本最強のロックバンド」の地位を確固たるものとしていた。

まさに、この頃のサザンは、向かう所敵無しだったと言って良い。

 

<1994(平成6)年の長渕剛の回想…「俺は桑田佳祐を許さない」!!~2人の間に、一体何が!?>

 

 

 

さて、1994(平成6)年、桑田佳祐長渕剛「喧嘩」が、世間を騒がせていた頃、

長渕は、ある雑誌(『VIEWS』1995年1月号)で、「俺は桑田佳祐を許さない」と題されたロング・インタビューて、

積年の、桑田佳祐に対する恨みつらみを、一気にぶちまけている。

私も、当時、その雑誌はリアルタイムで読んだが、「桑田と長渕の間に、そんな事が有ったのか!?」と、ビックリした覚えが有る。

以下、これから描く内容は、基本的には、その長渕剛の「回想」に基づいているが、

私が冒頭で述べた通り、長渕が色々と言っているのに対し、桑田は、この事については、一切、何も語っていない。

従って、長渕サイドが、一方的に語った出来事であるという事を、まずお断りして、先に進める事とする。

 

<1983(昭和58)年夏…桑田佳祐と長渕剛の出会い!!2人は意気投合するが…>

 

 

1983(昭和58)年夏のある日、桑田佳祐長渕剛は、初めて顔を合わせ、そして酒を酌み交わした。

その時、桑田と長渕は意気投合し、お互いの事について、色々と語り合った。

その時、桑田は長渕の胸の内を聞いて、涙を流していたというのである。

長渕は、「この、世知辛い音楽業界で、初めて、ダチ(友達)になれる奴と出会う事が出来たと、俺は思ったね…」と、その時の心境について、語っている。

そして、桑田は長渕に、「今度、一緒にコンサートをやろう!!」と、サザンと長渕で、ジョイント・コンサートをやろうという話を持ち掛けた。

長渕も、その話を快諾し、サザンオールスターズ長渕剛が、一緒のステージに立つ事が決まったのであった。

とにかく、この時、桑田と長渕は、大変仲良く、お酒を飲み、大変盛り上がったという事だけは、間違いないようである。

 

<1983(昭和58)年7月29日…ナゴヤ球場でサザンと長渕剛の共演が実現!!しかし、長渕が「前座扱い」で、長渕が大激怒!!>

 

 

 

1983(昭和58)年7月29日、プロ野球の中日ドラゴンズの本拠地・ナゴヤ球場で、

サザンオールスターズ長渕剛「ジョイント・コンサート」が開催された。

しかし、現地に着いた長渕は、目を疑った。

ライブ会場であるナゴヤ球場には、デカデカと「サザンオールスターズ+Special Guest 長渕剛」と書かれたボードが掲げられていた。

つまり、あくまでもサザンがメインで、長渕は、そのゲスト、更に言えば「オマケ」扱いだったのである。

 

 

長渕は、「話が違う!俺とサザンは、対等な立場でステージに立つって話じゃなかったのか!?」と激怒し、桑田に詰め寄った。

すると、桑田は側に居たスタッフを睨みつけ、「俺は聞いてないぞ!!どうなってるんだ!?」と怒鳴ったという。

そのやり取りを聞いて、長渕は「やられた…。桑田の奴に、はめられた」と、怒りを募らせたが、既に開演時間は刻一刻と迫っており、今更、いくら怒ったところで、自分の立場は変えられそうにもなかった。

 

 

なお、長渕はこの4日前、7月25日には、西武ライオンズ球場に2万人の観客を集め、単独ライブを大成功させている。

「そんな俺が、何故、サザンのライブで前座をやらなきゃならないんだ…」

そう、この7月29日の「ジョイント・コンサート」では、長渕の出番は最初の方のみであり、あとはサザンのみが歌うという構成となっていた。

つまり、長渕は、まるっきりサザンの前座扱いだったのである。

そして、ナゴヤ球場には、ほぼ全て、サザンのファンのみが集まっていた。

長渕は、ここでグッと怒りを堪え、ステージに立った。

そして、長渕は僅かに聞こえる「剛、頑張って!!」という声援を送ってくれる、ごく少数の長渕ファンのために全力で歌った。

こうして、自分の出番を終えた長渕は、早々にホテルに帰り、シャワーを浴びて、部屋で休んでいた。

その頃、桑田佳祐とサザンは、満員の観客の前で歌い、スタンドを埋め尽くしたファン達を熱狂させていたが、この時の長渕の心境は、どのようなものであっただろうか…。

 

<「ジョイント・コンサート」終盤…大事件が勃発!!~桑田佳祐が長渕剛にビールを浴びせる…「1983ナゴヤ事変」の顛末>

 

 

 

サザンの「前座」を務め、ホテルに戻った後、何とか気を鎮めていた長渕の元に、桑田佳祐から電話が有った。

桑田は、サザンのコンサートの余韻も冷めやらない様子で、「もう一度、ステージに戻って来てくれ」と言っていた。

長渕は、あまり気が進まなかったが、桑田の誘いに応じて、もう一度、ナゴヤ球場へと戻って行った。

すると、既にコンサートは終盤を迎え、観客席は大盛り上がりであった。

桑田も、顔を上気させ、興奮した様子だったという。

 

 

そこで、桑田長渕を再びステージに上げると(※ライブの後の「打ち上げ」だったという説も有る)、

桑田は、既にシャワーを浴びていた長渕に対し、何と、頭からビールを浴びせたというのである(※上の画像は、この時の模様ではない)。

長渕は、「何するんだ、この野郎!!」と思ったが、ここでも、グッと怒りを堪えた。

こうして、長渕はサザンの「前座」扱いをされ、挙句の果てには、頭からビールを浴びせられるという、まさに散々な目に遭ったのである。

以上、これが「1983ナゴヤ事変」の顛末であるが、長渕剛は、この時の「恨み」を、長い間、ずっと忘れなかった。

 

<「1983ナゴヤ事変」の歴史的意義…桑田佳祐と長渕剛の「対立」の遠因に>

 

 

これまで、何度も述べて来た通り、この「1983ナゴヤ事変」について、長渕剛は長年、その「恨み」を忘れず、

長渕は、桑田に対する「怒り」を、ずっと胸に秘めていた。

一方、桑田佳祐は、この事については、一切、何も語っていない。

従って、これまで述べて来た事は、全て長渕が語っている事であり、実際の所は、どうだったのかはよくわからない。

しかし、長渕が、この出来事を不快に思っていた、という事だけは確かであろう。

 

 

だが、桑田佳祐がこの事について何も語っていないというのは、

実の所、桑田は「1983ナゴヤ事変」について、あまり覚えていないのではないだろうか。

というのも、桑田はライブの時に、観客に向かってホースで水をぶちまけたり、バンドのメンバーにビールをかけたりと、割と、ステージで「悪ノリ」する事が多く、彼にとっては、よく有る出来事の一つに過ぎなかったと思われる。

従って、長渕にビールをかけたというのも、桑田にとっては、よく有る出来事の一環であり、特別、記憶には残っていなかったのかもしれない。

しかし、このような事は、やった方は忘れたとしても、やられた方はよく覚えているものである。

真相は、よくはわからないが、いずれにしても、桑田と長渕は、以後、全く疎遠となってしまったという事だけは確かであった。

 

<1983(昭和58)年8~9月…長渕剛、TBS『家族ゲーム』に主演!!~俳優・長渕剛に注目が集まる>

 

 

 

 

このように、1983(昭和58)年は、絶好調だったサザンとは対照的に、良くない出来事が続いた長渕剛であったが、

同年(1983年)8~9月にかけて、TBSのドラマ『家族ゲーム』で、ドラマ初主演を果たした。

このドラマで、俳優としての長渕剛に注目が集まり、以後、長渕が役者として活躍して行く、大きなキッカケとなった。

また、『家族ゲーム』の主題歌である『GOOD-BYE青春』は、オリコン最高5位と、長渕にとっては、1980(昭和55)年の『順子』以来となる大ヒット曲となった。

 

 

というわけで、色々な出来事が有った1983(昭和58)年であるが、

「1983ナゴヤ事変」を境として、桑田佳祐長渕剛は、大変残念な事に、以後、対立を深めて行く事となる。

果たして、今後、2人の関係は、どうなってしまうのであろうか!?

 

<1981(昭和56)年…藤田巨人が「大沢親分」の日本ハムを破り、「V9」以来、8年振り日本一!!~江川卓が日本一の胴上げ投手に>

 

 

 

 

1981(昭和56)年のプロ野球は、セ・リーグが藤田元司監督率いる巨人、パ・リーグが「大沢親分」こと大沢啓二監督率いる日本ハムが、それぞれ優勝したが、巨人日本ハムも、共に後楽園球場を本拠地としており、日本シリーズは、全試合が後楽園球場で行われるという、史上唯一の「後楽園決戦」となったが。

そして、巨人が日本ハムを4勝2敗で破り、巨人が「V9」を達成した1973(昭和48)年以来、8年振りの日本一となった。

なお、入団以来、兎角ダーティーなイメージが有った江川卓が、獅子奮迅の活躍で巨人を日本一に導き、最後の打者をピッチャーフライに打ち取り、日本一の胴上げ投手になった。

この時は、クールな江川が、珍しく喜びの感情を爆発させたシーンとして、後世まで語り草となっている。

 

<1982(昭和57)年…中日が難敵・江川卓を攻略し、奇跡の逆転優勝!!~日本シリーズでは西武が中日を破り、日本一!!>

 

 

 

 

 

1982(昭和57)年のセ・リーグは、巨人中日がシーズンの最後の最後まで激しい優勝争いを繰り広げたが、

同年(1982年)9月28日、翌1983(昭和58)年の、桑田・長渕の「1983ナゴヤ事変」の舞台ともなるナゴヤ球場での、中日-巨人の首位攻防戦で、中日が、2-6と4点ビハインドの9回裏、巨人の大エース・江川卓を攻略し、一挙4点を奪って6-6の同点に追い付くと、延長10回裏、大島康徳がサヨナラ安打を放ち、中日が奇跡の逆転勝利を収めた。

 

 

以後、勢いに乗った中日が、シーズン最終戦で8年振りのリーグ優勝を決めたが、

首位決戦で、江川を倒して逆転勝利した事が、大きなターニングポイントとなった。

 

 

 

日本シリーズは、広岡達朗監督率いる西武ライオンズが、4勝2敗で中日を破り、

親会社が西武となってからは初の日本一を達成したが、ナゴヤ球場は、中日が劣勢になると、中日ファンから、ありとあらゆる物が投げ込まれ、大変に物騒な雰囲気であった。

やはり、ナゴヤ球場では何かが起こる、という事であろうか。

 

<1983(昭和58)年…広岡西武が、激闘の末に宿敵・巨人を破り、2年連続日本一!!>

 

 

 

 

 

桑田佳祐長渕剛「1983ナゴヤ事変」が勃発した1983(昭和58)年は、

広岡達朗監督率いる西武ライオンズと、藤田元司監督率いる巨人が、「球界の盟主」の座をかけて、日本シリーズで対決したが、

広岡西武が、大激戦の末、江川卓、西本聖の両エースを擁する藤田巨人を4勝3敗で倒し、広岡西武が2年連続日本一となった。

かつて、巨人を石もて追われた広岡達朗は、遂に「打倒巨人」の悲願を果たしたが、この時代、巨人の江川卓は、「倒すべき強大な敵」として、他球団の前に立ちはだかり、そして、江川を倒したチームが、頂点に立っていたという事がわかる。

つまり、この時代の音楽界の主役が桑田佳祐サザンオールスターズだとするなら、プロ野球の主役は、間違い無く巨人江川卓であった。

 

(つづく)