サザン史・外伝(特別編)…桑田佳祐VS長渕剛⑧(完結編) ~1995年「収束」~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

法政大学野球部を中心として、東京六大学野球についての様々な事柄について、思いつくままに書いて行くブログです。
少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

1994(平成6)年に勃発した、「1994桑田・長渕戦争」は、全く収まる気配が無いまま、遂に年を越してしまった。

桑田佳祐長渕剛による大喧嘩は、一体、どのような展開を見せるのか、誰にも見通しが付かない状態が続いていた。

 

 

しかし、「1994桑田・長渕戦争」は、あまりにも意外な形で幕を閉じる事となった。

今回は、その経緯について、描いてみる事としたい。

 

<1994(平成6)年12月1日…長渕剛、ベストアルバム『いつかの少年』をリリース!!>

 

 

 

 

1994(平成6)年12月1日、長渕剛は、初のベストアルバム『いつかの少年』をリリースした。

長渕剛の、1978(昭和53)年のデビューから、1994(平成6)年までの代表曲が収録された、3枚組の豪華なベストアルバムだったが、長渕剛というアーティストの軌跡を振り返るには持ってこいのベスト盤であり、

まさに、名曲の宝庫と言って良いであろう。

『いつかの少年』は、「1994桑田・長渕戦争」の真っ只中にリリースされたという事もあり、大ヒットを記録した。

 

<1995(平成7)年1月17日…阪神・淡路大震災が発生>

 

 

 

1995(平成7)年1月17日、兵庫県淡路島沖の明石海峡を震源地とする、

M7.3の巨大地震が発生し、6000人以上の死者が出るという、「阪神・淡路大震災」が起こった。

「平成」という時代は、多数の自然災害が起こった時代であったが、「阪神・淡路大震災」も、

関西地区を襲った未曽有の大災害であった。

 

<1995(平成7)年1月24日…長渕剛、大麻取締法違反で逮捕!!~長渕は「儲かる話とクスリにゃ目がないバカヤロ様」だったのか!?>

 

 

1995(平成7)年1月24日、「阪神・淡路大震災」が発生して間もない頃、芸能界にも激震が走った。

何と、長渕剛大麻取締法違反で逮捕されたというのである。

私も、このニュースを知って、本当にビックリしたが、警察に逮捕され、連行される長渕の映像を見た時には、何とも言えない気持ちになった。

 

 

 

長渕剛の逮捕により、長渕剛「長渕剛容疑者」と称され、マスコミからは一斉に大バッシングを受けた。

そして、「1994桑田・長渕戦争」の、もう一方の当事者である桑田佳祐の元にも、マスコミが訪れ、コメントを求めたが、桑田は、この件については、一切ノーコメントを貫いた。

しかし、桑田佳祐長渕剛の大喧嘩の元となった『すべての歌に懺悔しな!!』の中には、

「儲かる話とクスリにゃ目がないバカヤロ様が居る」

という歌詞が有る。

桑田は、この曲は特定の誰かを指したものではないと言っていたが、結果としては、長渕は「クスリ」で逮捕されてしまったのであり、図らずも、この曲の「予言」が当たってしまった形となった。

 

<「1994桑田・長渕戦争」は、有耶無耶のままにフェードアウト…思わぬ形での「収束」>

 

 

その後、長渕の「愛人」とされた国生さゆりも、警察の事情聴取を受けるなど、暫くは事件の余波が続いたが、

長渕は、取り沙汰されていた覚醒剤に関しては容疑を否認し、尿検査でも陽性反応は出なかった。

そして、同年(1995年)2月3日、長渕は処分保留のため釈放され、3月16日は不起訴処分となった。

しかし、この逮捕劇により、桑田佳祐長渕剛「1994桑田・長渕戦争」は、有耶無耶の状態のまま、結局はフェードアウトしてしまった。

こうして、日本の音楽史上に残る、大物アーティスト同士の大喧嘩は、尻切れトンボのまま「収束」したのであった。

 

<1995(平成7)年3月20日…オウム真理教による「地下鉄サリン事件」発生~世の中はオウム事件一色に>

 

 

1995(平成7)年3月20日、オウム真理教が、東京都内の地下鉄に、

一斉に猛毒のサリンをばら撒き、大量殺人を企てるという、前代未聞の大事件が起こった。

この「地下鉄サリン事件」という、異常事態により、世の中はオウム事件一色となったが、

この年(1995年)は、前述の「阪神・淡路大震災」もあり、平成史の中でも、とりわけ大事件が多い年であった。

そのため、桑田と長渕の大喧嘩の事など、何処かに行ってしまったという事は言えるかもしれない。

「1994桑田・長渕戦争」の「収束」の一因として、世間が「それどころではなくなった」という側面が、間違いなく有ったであろう。

 

<1995(平成7)年4月…桑田佳祐のラジオ番組「やさしい夜遊び」がスタート!!~同番組で、桑田佳祐が「1994桑田・長渕戦争」について触れた一言(?)とは…!?>

 

 

1995(平成7)年4月、桑田佳祐「やさしい夜遊び」というFMラジオ番組のパーソナリティーとなった。

「やさしい夜遊び」は、TOKYO FMをキーステーションとした、全国ネットでのラジオ番組であり、

今日(2019年現在)まで続く、長寿番組となっているが、世間がオウム事件で騒然となっている頃に始まった事もあり、

当初は、番組でも桑田はオウム事件については、頻繁にコメントしていた。

そして、サザンのサポートメンバーとしても活躍する、ギタリストの小倉博和が、当初はよくゲストで来ていたのだが、

ある時、リスナーからのハガキを紹介する際に、「タカブチ」という名字の人によって投稿されたハガキを読む時、桑田は、

「え?ナガブチ!?」

と、わざと読み間違えて(?)、小倉博和を爆笑させていた。

あの騒動について、桑田はあまり多くを語らなかったが、「やさしい夜遊び」では、時折、こんな事も言っていたのであった。

 

<1995(平成7)年6月24日…サザンオールスターズ、ベストアルバム『Happy』をリリース!!~そのFM特番で、桑田佳祐が放った、決定的な発言とは!?>

 

 

1995(平成7)年、サザンオールスターズは久々に6人揃って活動を再開したが、

同年(1995年)6月24日、サザンは3枚組のベストアルバム『Happy』をリリースした。

そのベストアルバム『Happy』のリリースに合わせて、サザンは積極的にメディアに出演した。

 

 

そして、『Happy』がリリースされた週に、サザンはFM(BAY FM)でのラジオ特番に、各メンバーが日替わりで出演し、

それぞれのメンバーが、『Happy』の宣伝と、各メンバーによるトークを行なったのだが、

確か、連日2時間で特番が組まれ、初日が、最初の1時間がサザン勢揃いと、後半が大森隆志、野沢秀行の2人、2日目が原由子、松田弘の2人、3日目が桑田佳祐、関口和之の2人、4日目が桑田佳祐の単独出演、というラインアップだったと記憶している。

 

 

そして、このサザン特番の進行役は、鈴木万由香(すずき・まゆこ)というパーソナリティーだったのだが(※2009年、ラジオの生放送中に、エレファントカシマシ(エレカシ)宮本浩次を激怒させたという事件で、話題になった)、

桑田佳祐が単独で出演した日、桑田佳祐鈴木万由香に対して、「1994桑田・長渕戦争」に関して、こんな発言をした。

「『すべての歌に懺悔しな!!』について、『長渕の悪口言ってる』とか言われたけど、俺、長渕とか別に興味無いし…。第一、会った事も無いしね。そういう曲じゃないって言ってるのにさ」

と、桑田は、自分の意思を「曲解」されて、あんな大騒動になってしまったのは不本意であると、改めて述べたのであった。

この発言について、鈴木万由香は苦笑いするばかりであったが、桑田が長渕に「会った事もない」というのは、明らかに嘘であると思われる。

しかし、「そもそも、長渕とか興味無い」というのは、桑田の本音ではないだろうか。

いずれにしても、この騒動について、この後も桑田はあまり多くを語っておらず、これは貴重な「証言」であると思われるので、当時、リアルタイムで聞いていた私の記憶に基づき、ここに記録させて頂く事としたい(※なお、この回は、私は録音して何度も聞き直したので、桑田がこのような事を言っていたのは、間違いない)。

 

<その後の長渕剛①…『とんぼ』の続編、『英二ふたたび』(1997年・フジテレビ)と、映画『英二』(1999年)に出演>

 

 

その後、長渕剛も、桑田佳祐との騒動については、公には何も語らなかった。

大麻不法所持の逮捕の禊が済んだ後、長渕剛は再び、音楽活動を再開させ、俳優業にも精を出した。

1997(平成9)年1月24日、長渕は、かつて出演した『とんぼ』の続編にあたる『英二ふたたび』というスペシャルドラマに出演したが、

『とんぼ』がTBSで放送されたのに対し、その続編の『英二ふたたび』は、フジテレビで放送されたという、異例の展開となった。

 

 

更に、1999(平成11)年5月1日には、長渕は『とんぼ』、『英二ふたたび』の続編にあたる、

映画『英二』に主演したが、長渕が演じる小川英二というヤクザの生涯を描いた、『とんぼ』からの一連のシリーズは、まさに、俳優・長渕剛のライフワークと言って良いであろう。

 

<その後の長渕剛②…2001(平成13)年、アルバム『空』をリリース~長渕、金髪&肉体改造で、大胆なイメージチェンジを行なう~妻・志穂美悦子に対抗するのが目的だった!?>

 

 

 

2001(平成13)年、長渕剛は全編をレコーディングしたアルバム『空』をリリースしたが、

この頃、長渕は肉体改造を行ない、全身の筋肉を誇示するようになっていた。

そして、長渕は髪も金髪に染め、ますますコワモテの印象が強くなって行ったが、

長渕が、このようなイメージチェンジを行なった一因として、かつてアクション女優だった、妻の志穂美悦子と喧嘩しても、

長渕はどうしても妻に叶わず、そんな妻に対抗するため、このような肉体改造を行なった、などと言われている。

果たして、真相はどうだったのかはわからないが、いずれにしても、長渕といえば「金髪で筋肉ムキムキ」というイメージは、この頃に確立された。

 

<その後の長渕剛③…2002(平成14)年、反戦歌『静かなるアフガン』をリリース~そして、長渕自身が選曲したベストアルバム『BEST~風~』『BEST~空~』をリリース!!>

 

 

 

2002(平成14)年5月9日、長渕剛は、前年(2001年)に始まった、アメリカ軍のアフガニスタン空爆に端を発した、

アフガン戦争を批判する反戦歌『静かなるアフガン』をリリースした。

『静かなるアフガン』は、メディアからは黙殺され、事実上の放送禁止となったが、それでも曲はジワジワとヒットし(久々のベスト20入りを果たした)、長渕の代表曲の一つとなった。

 

 

 

 

同年(2002年)6月26日、長渕剛は、自らが選曲した、各2枚組の超豪華ベストアルバム『BEST~風~』『BEST~空~』をリリースしたが、長渕の、波乱万丈の音楽人生を凝縮したベストアルバムであり、もし長渕剛というアーティストの歩んで来た道を知りたいのであれば、このベストアルバムは、まさに打ってつけと言って良いであろう。

 

<その後の長渕剛④…『とんぼ』が、巨人時代の清原和博の登場曲に…長渕と清原、親交を深める>

 

 

1997(平成9)年、清原和博は、それまで所属していた西武ライオンズから、FA宣言して、憧れの巨人に移籍したのだが、移籍先の巨人で、当初、清原はなかなか結果を出す事が出来ず、ファンやマスコミから大バッシングを受け、苦しみ抜いていた。

そんな清原の心の支えとなったのが、長渕剛『とんぼ』であり、清原は2000(平成12)年頃から、東京ドームの試合で、自らの登場曲として『とんぼ』を使用するようになった。

すると、『とんぼ』に合わせて、多くのファンが『とんぼ』を大合唱し、清原を打席に送り出すようになったが、

清原は、まさに『とんぼ』により救われ、漸く、多くの巨人ファンに受け入れられるようになったのである。

そして、長渕清原は、この頃から親交を深めるようになって行った。

 

<その後の長渕剛⑤…2004(平成16)年、初のトリビュート・アルバム『Hey ANIKI!』リリースと、伝説の鹿児島オールナイト・ライブ~カリスマ・長渕剛の大活躍>

 

 

 

2004(平成16)年4月28日、長渕剛にリスペクトを捧げる、多数のアーティストによるトリビュート・アルバム『Hey ANIKI!』がリリースされたが、長渕が、音楽界の若いアーティスト達に、多大なる影響を与えている事が証明された形となった。

(※サザンでも、こういうトリビュート・アルバムが出来ないものであろうかと、私は思う)

 

 

 

 

そして、同年(2004)年8月21日には、長渕の故郷である鹿児島で、桜島に特設ステージが作られ、

何と7万5000人もの大観衆を集め、長渕剛オールナイトライブを開催し、大成功を収めた。

2006(平成18)年には、この時のライブの記念碑「叫びの肖像」も作られたが、この後、長渕は数々の大規模なライブを成功させ、長渕は、再び比類なきカリスマ・アーティストとして、盤石の地位を築いて行ったのであった。

 

<その後の長渕剛⑥…2008(平成20)年10月1日…清原和博(オリックス)の引退試合で、長渕剛が『とんぼ』を熱唱、清原の花道を飾る>

 

 

 

 

清原和博は、2005(平成17)年、巨人から戦力外通告を受け、翌2006(平成18)年から、オリックスバファローズに移籍した。

清原は、膝の故障も有り、オリックスでは満足な活躍は出来なかったが、それでも懸命に戦う清原に、ファンは温かい声援を送った。

そして、2008(平成20)年、清原は遂に現役引退を表明し、同年(2008年)10月1日、京セラドームで行われたオリックス-ソフトバンク戦が、清原の引退試合となった。

この引退試合に、清原と親交の有った長渕剛が登場し、清原のために『とんぼ』を熱唱したのである。

 

 

 

長渕剛は、通常では、あまり人のためには歌わないというが、

それでも清原は特別であり、長渕は「今日は、清原和博君のために、歌います!!」と言って、清原のために『とんぼ』を歌ったのであった。

こうして、清原は万感の思いで、現役生活に別れを告げたのであるが、この後、清原はとんでもない事件を引き起こしてしまった。

 

<2016(平成18)年2月2日…清原和博、覚醒剤所持で逮捕!!~野球界に激震が走る>

 

 

 

 

2016(平成28)年2月2日、清原和博が、覚醒剤所持で現行犯逮捕されるという、衝撃的なニュースが報じられた。

かねてから、清原には薬物疑惑が付きまとっていたが、遂にそれが現実のものとなってしまったわけである。

かつての野球界の英雄の逮捕に、世間には衝撃が走り、そして、多くのプロ野球ファンが清原に失望したのであった。

なお、この頃には長渕剛は既に清原とは距離を取っていたとの事であるが、かつて、薬物で逮捕された事が有った長渕は、清原逮捕の一報を聞いて、一体、どんな事を思ったのであろうか。

ともかく、「儲かる話とクスリにゃ目が無いバカヤロ様」は、皮肉な事に、清原にも当てはまってしまったのであった。

 

<総括…「桑田佳祐VS長渕剛」騒動とは、何だったのか!?>

 

 

というわけで、「桑田佳祐VS長渕剛」騒動について、改めて紐解いてみたのだが、

こうして改めて振り返ってみると、桑田佳祐長渕剛という、2人の大物アーティストが、大人気(おとなげ)なく、大喧嘩してしまった、という一言で片付けるだけでは足りないというか、もっと根深い物が、その根底に有ったのではないかと思われる。

桑田と長渕は、それぞれ才能も実力も有り、人気も地位も有るアーティストなのは間違い無いが、

その音楽性は全く異なっており、そして不幸にも、様々な行き違いが有り、あのような大騒動に発展してしまった。

そして、やはり人間には相性というものが有り、桑田佳祐長渕剛は、結局の所、全く相性が合わなかったのではないだろうか。

人間の相性というのは不思議なもので、馬が合うとか合わないというのは、理屈では測れない面が有る。

私は、「たまたま、桑田と長渕は相性が合わなかった。そして音楽性の志向も、全く違っていた」事により、この騒動が起こったのであると、総括したい。

というわけで、「桑田VS長渕剛」騒動については、ひとまず、これで完結である。

皆様、長々と、お読み頂きまして、有り難うございました!!

 

(サザン史・外伝「桑田佳祐VS長渕剛」…完)