今振り返る…1997(平成9)年の横浜ベイスターズ(完結編) ~儚く散った、横浜優勝の夢~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

1997(平成9)年8月、横浜ベイスターズは、月間20勝6敗という、歴史的な快進撃を見せ、

最大14ゲーム差まで開いていた、首位・ヤクルトとのゲーム差を、「2.5ゲーム差」まで縮めた。

その後、ゲーム差は一つ開き「3.5ゲーム差」となったところで、

9/2から、横浜スタジアムでの横浜-ヤクルトの直接対決2連戦を迎えた。

 

 

横浜ベイスターズの37年振りの優勝が、現実味を帯びており、ベイスターズは、選手もファンも、すっかりその気になっていた。

しかし、ここでベイスターズに、大きな壁が立ちはだかった。

それが、ヤクルトスワローズの左腕・石井一久であった。

 

<9/2…横浜VSヤクルトの「第3次首位決戦」第1ラウンド!!横浜優勝を願うファンで、横浜スタジアムは超満員となるが…>

 

 

1997(平成9)年9月2日、横浜スタジアムは異様な雰囲気に包まれていた。

首位・ヤクルトスワローズを3.5ゲーム差で追い掛ける横浜ベイスターズは、

本拠地・横浜スタジアムにヤクルトを迎え、直接対決の2連戦、「第3次首位決戦」を迎えた。

ここで横浜がヤクルトに連勝すれば、ゲーム差は「1.5ゲーム差」となり、横浜は悲願の37年振り優勝に一気に近付く事となる。

この大事な試合に、横浜はそれまで9勝を挙げ、エース格となっていた戸叶尚を先発の舞うウンドに送った。

一方、ヤクルトの先発は石井一久である。

横浜スタジアムは、レフトスタンドのほんの一角のヤクルトファンを除き、ほぼ全て横浜ファンで埋め尽くされ、

優勝を期待する横浜ファンは、ベイスターズに大声援を送った。

 

 

 

私は、この試合を現地には見に行かなかったが、いつものように、ラジオ(ニッポン放送)で、この大一番に耳を傾けていた。

優勝のためには、絶対に負けられない一戦であると、誰もがわかっていた。まさに大一番、「天下分け目の戦い」である。

ちなみに、この試合のニッポン放送の実況担当は、確か松元真一郎アナウンサーだったと記憶している。

 

<石井一久、ノーヒットノーランの快投!!…横浜優勝の夢を砕く、石井一久の一世一代の快投~観戦に来ていた、高秀秀信・横浜市長もガックリ>

 

 

さて、横浜・戸叶尚、ヤクルト・石井一久の両先発で始まった試合は、

両投手ともに、一歩も譲らず、緊迫した投げ合いとなり、試合は0-0のまま終盤を迎えた。

横浜打線は、石井一久の荒れ球に手こずり、ヒットを打てないまま試合は進んだが、

戸叶も踏ん張っていたので、試合は、どちらに転ぶかはわからなかった。

 

 

 

0-0で迎えた7回表、好投していた戸叶が、遂にヤクルト打線に捕まった。

戸叶は、池山隆寛に先制タイムリーを打たれ、その後、小早川毅彦に痛恨の11号2ランホームランを浴びてしまった。

こうして、ヤクルトが一挙3点を先取したが、ベイスターズにとっては、あまりにも痛すぎる3失点であった。

横浜スタジアムの観客席からは一斉に悲鳴が起こり、そして、スタンドは静まり返ってしまった。

石井一久の出来から見て、ベイスターズがこの後、3点を取り返すのは、至難の業であると思われた。

 

 

 

 

横浜打線は、石井一久をなかなか打つ事が出来なかったが、それでも、四球を4つ選んでおり、

塁上には結構ランナーを出していたので、まさか、ベイスターズが1本もヒットを打っていないとは、私も途中までは気付いていなかった。

しかし、ヤクルトが7回表に3点を先取し、3-0とリードしたところで、俄かに、ノーヒットノーランが現実味を帯びて来た。

ベイスターズ打線は、試合終盤にギアを上げて来た石井一久から、全くヒットを打てぬまま、遂に9回裏を迎えた。

そして、9回裏2死、石井一久は、最後の打者・波留敏夫を、高目の剛速球で空振り三振に打ち取り、石井一久はノーヒットノーランを達成した。

その瞬間、石井一久珍しくガッツポーズを見せ、そして満面の笑顔を浮かべた。

捕手の古田敦也をはじめ、ヤクルトナインが一斉に石井一久に駆け寄り、彼を祝福した。

そして、ホージー石井一久を抱きかかえ、ノーヒットノーランを達成した本人よりも、大喜びしていた。

 

 

 

最後の打者・波留敏夫が空振り三振に倒れ、実況の松元真一郎アナウンサーが、

「空振り三振ー!!」

と、叫ぶようにその状況を伝えた時、私は大袈裟ではなく、地獄のドン底に突き落とされたような絶望感を味わった。

まさか、この大一番で、ノーヒットノーランをやられてしまうなんて…。

「勝てないまでも、せめて、1本ぐらいはヒットを打って欲しい」

と願っていたが、結局、ベイスターズは最後の最後まで、石井一久から1本もヒットを打てず、抑え込まれてしまった。

私は、ガックリと落ち込み、その後、ノーヒットノーランを達成した石井一久が、各テレビ局のスポーツニュースに、ハシゴ出演する様子を、ぼんやりと眺めていた。

今まで、ベイスターズというチームを応援して来て、あんなにガックリと落ち込んだ事は、後にも先にも無かった事である。

 

 

後で、実はこの試合に、高秀秀信・横浜市長が観戦に来ていた事を知ったが、

俄かに、横浜優勝の雰囲気が高まった事で、高秀市長も、居ても立ってもいられず、駆け付けてしまったようであった。

しかし、結果は最悪なものとなった。

「余計な事するんじゃねーよ!!」

横浜ファンは、やり場の無い憤りを、市長にぶつけていた。

ともあれ、ベイスターズは痛すぎる1敗を喫し、ゲーム差が4.5ゲーム差に広がった事だけは確かである。

 

<9/3…横浜VSヤクルト「第3次首位決戦」第2ラウンド~横浜が先制するも、その後ヤクルトに逆転され、劣勢に…>

 

 

翌9/3、横浜-ヤクルトの2戦目は、もしヤクルトが勝てば、2位・横浜の自力優勝の可能性が消滅し、ヤクルトにマジックが点灯する。

横浜としては、何が何でも、絶対に負けるわけにはいかない一戦である。

私は、この日もまた、ラジオ(ニッポン放送)で、この試合の中継を聞いていた。

横浜・三浦大輔、ヤクルト・田畑一也の両先発で始まった試合は、2回裏、横浜が佐伯貴弘のタイムリーで1点を先取した。

すると、ヤクルト・野村監督は、田畑に早々に見切りを付け、3回途中で投手交代させた。

降板した田畑は、ベンチ裏で大荒れだったというが、野村監督としても、「この試合は何が何でも勝つ」という執念を持っており、そのために、勝利のための最善の策を取ったのであった。

 

 

横浜は1点こそ先取したものの、その後は、ヤクルトの細かい継投策の前に、なかなか追加点を奪う事が出来なかった。

そして、横浜が1-0と1点リードして迎えた6回表、三浦大輔古田敦也に同点タイムリーを浴び、ここで三浦は無念の降板となった。

1点のリードを守ろうと、三浦も必死で投げていたが、味方打線が追加点を奪えない中、踏ん張りきる事が出来なかった。

 

 

1-1の同点で迎えた8回表、横浜の3番手・島田直也は2死1、2塁のピンチを招いた。

ここで、ヤクルトは5番・土橋勝征が打席に入ったが、次の打順は投手の高津臣吾だった事もあり、土橋は四球で歩かせても良い場面だった。

しかし、横浜の大矢監督は、島田直也-谷繁元信のバッテリーに勝負を指示した。

だが、この選択は裏目に出てしまい、島田直也は土橋に痛恨の勝ち越しタイムリーを打たれ、ヤクルトが2-1と逆転した。

ベイスターズにとっては、あまりにも痛すぎる失点であり、私もラジオの前でガックリしていた。

 

<9回表、「大事件」が発生…ヤクルトに追加点が入り、横浜ファンがグラウンドに大量にメガホンなどを投げ込む。その時、ベイスターズの選手達が取った行動とは…?>

 

 

9回表、横浜の4番手・西清孝が、2死から飯田哲也に痛恨のタイムリーを浴び、これで横浜は1-3と2点をリードされてしまった。

ここで、試合中、降り続いていた雨が激しくなり、試合は一時中断されたが、この時、ベイスターズの不甲斐ない戦いぶりに業を煮やした、ライトスタンドの横浜ファン達が、グラウンドに向かって、一斉にメガホンやゴミなどを投げ込んでしまったのである。

優勝への期待が、一気に打ち砕かれようとしていたこの時、横浜ファンは思わず、心ない行動を取ってしまった。

しかし、その時である。

何と、ベイスターズの選手達が、一斉にライトスタンドの前へ駆け寄ると、全員で、一心にメガホンやゴミなどを拾い集めた。

黙々と、ゴミを集めている選手達の姿を見て、横浜ファン達は、皆、シーンと静まり返った。

中には、涙を流すファンの姿も有った。

「まだ、俺達は決して諦めていない」

ベイスターズの選手達は、無言で、ファンに訴えかけているように見えた。

この時、自らの行動を恥じた横浜ファン達と、ベイスターズの選手達の心は、初めて、一つになったと言って良い。

そして、試合再開後、西からマウンドを引き継いだ河原隆一が、稲葉篤紀を三振に打ち取り、横浜ファンから一斉に大歓声が起こった。

 

 

この時、ラジオでその一部始終を聞いていた私も、

「どんな結果になろうと、最後までベイスターズを応援しよう!!」

と、心に決めた。

ざわついていた心は鎮まり、私は何故か、新たに生まれ変わったような気持ちになっていた。

 

<9回裏、ベイスターズが最後の反撃を見せるも…ヤクルトが連勝し、ヤクルトに「マジック21」が点灯>

 

 

9回裏1死、ベイスターズの3番・鈴木尚典が、ヤクルトの5番手・加藤博人から、

ファーストへボテボテのゴロを打ったが、必死に一塁へと駆け抜け、内野安打で出塁した。

その時、横浜スタジアム全体から、物凄い大歓声が上がった。

ベイスターズの選手達が、最後まで諦めていない以上、ファンもまた、諦めるわけにはいかなかった。

しかし、その後、ヤクルト・野村監督は、投手を伊藤智仁に交代すると、

伊藤智仁は、4番・ローズ、5番・駒田徳広を打ち取り、見事な火消しを見せた。

こうして、ヤクルトが横浜を3-1で破り、「第3次首位決戦」に連勝、ヤクルトにマジック「21」が点灯した。

1997(平成9)年のセ・リーグの優勝争いは、事実上、ここで決着が着いたと言って良いであろう。

この時、横浜ベイスターズ37年振りの優勝の夢は、儚く散って行ったのであった。

 

<エピローグ…9/28 ヤクルトスワローズが2年振り優勝!!…プロ野球史上唯一の「横浜VSヤクルトの優勝争い」が幕を閉じる~そして、ヤクルトは西武を破り、2年振り日本一も達成!!…横浜ベイスターズ、翌1998年の「リベンジ」への序章>

 

 

翌9/4の試合で、横浜ファンは横断幕で「選手の皆さん、ごめんなさい」というメッセージを掲げた。

横浜ファンは、前夜の騒動について、選手達に詫び、そして、最後までベイスターズを応援するという決意を示した。

しかし、その後、ヤクルトは優勝に向けて、グングン加速して行ったが、ベイスターズには、もはやヤクルトを追い掛ける力は残っていなかった。

9/28、ヤクルトのマジックは「1」となっていたが、デーゲームで横浜は9-4で広島に快勝し、意地を見せた。

「ヤクルトよ、優勝したければ、自力で勝て!!」

もしベイスターズが敗れていれば、その時点でヤクルトの優勝が決定する所だったが、ベイスターズが最後の抵抗を見せ、ヤクルトの優勝を阻止した。

 

 

 

同日(9/28)夜、マジック「1」のヤクルトは、本拠地・神宮球場で阪神を16-1で破り、

ヤクルトスワローズが2年振り5度目のリーグ優勝を達成した。

そして、当時はまだ痩せていた(?)つば九郎と共に、神宮球場の場内一周を行ない、超満員のヤクルトファンから、優勝の祝福を受けた。

開幕戦の小早川毅彦の3連発から始まり、終わってみれば、ヤクルトは開幕からリーグ優勝まで、一度も首位の座を譲らなかったという、「完全独走優勝」を達成したのである。

まさに野村克也監督にとっては会心のシーズンであり、ヤクルトでの集大成の年だったと言って良いであろう。

なお、プロ野球史上、横浜とヤクルトが優勝争いを繰り広げたというのは、後にも先にも、今の所は、この1997(平成9)年のみであるが、

ベイスターズは、あと一歩で優勝を逃した、この時の悔しさを決して忘れず、それが翌1998(平成10)年の38年振り優勝、日本一へと繋がって行った。

 

 

 

ヤクルトは、その後、日本シリーズでも西武ライオンズを4勝1敗で破り、ヤクルトスワローズは2年振り4度目の日本一も達成した。

私は、「来年こそは、ベイスターズがこの舞台に立って欲しい!!」と思いながら、テレビで日本シリーズを見ていた。

そして、翌1998(平成10)年、私は法政大学に入り、ベイスターズは本当に優勝してしまうのだが、それはまた、別の物語である。

 

(1997(平成9)年の横浜ベイスターズ…完)