【明治・大正・昭和・平成・令和】天皇家5代と日本野球史① ~「明治天皇と野球伝来」 | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

本日(5/1)、元号が「平成」から「令和」に変わり、「令和」という新時代が幕を開けた。

新時代の幕開けに際して、どんな記事を書こうかと考えたが、

ふと、皇室の方々は、昔から大変野球がお好きであるという事に思い至った。

 

そこで、今回は、大変畏れ多い事では有るが、「明治」以来の、皇室と日本野球の関わりについて、

私が描かせて頂く事としたい。

今回、アメブロで「令和始まりの日」のスタンプもゲットしたが、まずは「明治時代編」(前編)である。

 

 

令和になった瞬間何してた?

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<上皇陛下の退位は、光格天皇以来、202年振りの出来事>

 

 

昨日(4/30)、天皇陛下は「退位礼正殿の儀」に臨まれ、天皇を退位され、

本日(5/1)からは、「上皇陛下」となられた。

なお、天皇の退位は、江戸時代に在位していた光格天皇以来、202年振りの出来事であった。

 

 

光格天皇は、1780(安永8)年~1817(文化14)年にかけて在位し、

1817(文化14)年に退位し、仁孝天皇に天皇の位を譲った。

今回の、上皇陛下の退位が有るまで、これが天皇の生前退位の最後の例であったが、

今回、この光格天皇以来、202年振りに天皇の退位という出来事が有ったわけである。

 

なお、光格天皇は、明治天皇から見れば曽祖父にあたり、

現在の皇室は、光格天皇以来、本日(5/1)即位された今上天皇まで、直系の男系男子により、受け継がれている。

 

<幕末の動乱と、孝明天皇~「ペリー来航」から「江戸無血開城」まで>

 

 

 

 

1853(嘉永6)年、浦賀沖に、アメリカのペリー提督率いる艦隊が突如、姿を現し、日本中が大騒ぎとなった。

所謂「黒船来航」であるが、これをキッカケに、それまで長い間、「鎖国」政策を取り、日本を支配して来た、

徳川家江戸幕府の屋代骨はガタガタとなり、「幕末」の動乱が幕を開けた。

なお、この当時、アメリカでは既にベースボール(野球)が発展していた。

 

この時、江戸幕府を倒そうとする、薩摩や長州を中心とした「倒幕」勢力により、

俄かに担ぎ出されたのが、孝明天皇である。

当時、日本は「外国人を追い払え」という攘夷運動と、日本古来の天皇家を敬おうという「尊皇運動」という二つの思想が有ったが、

その二つが結び付き、「尊皇攘夷」という思想が誕生、この中心として、時の天皇、孝明天皇が神輿に乗せられた。

孝明天皇は、大の外国嫌いであったが、それを「尊皇攘夷」を旗印に掲げる、薩長を中心とする「倒幕」勢力に利用されたのである。

 

 

 

江戸幕府は、1854(嘉永7)年、朝廷の許しを得て、日米和親条約を結んだが、

この事に対し、攘夷運動をしていた勢力から猛反発が起こった。

幕府に対する批判は日増しに高まって行ったが、勿論、江戸幕府も、ただ手をこまねいて見ていたわけではなく、

1858(安政5)年、大老に就任した井伊直弼を中心に、巻き返しを図った。

 

井伊直弼は、朝廷の勅許も得ず、同年(1858年)、独断でアメリカと日米修好通商条約を結んだが、

その後、反対勢力を徹底的に弾圧する「安政の大獄」を引き起こした。

これが、ますます反発を生み、井伊直弼は1860(安政7)年3月3日、江戸城の桜田門外で、水戸藩脱藩浪士らに殺害された。

所謂「桜田門外の変」であるが、白昼堂々、幕府の権力者が江戸城の前で殺害された影響は大きく、幕府の権威は地に堕ちた。

 

<孝明天皇の崩御⇒紆余曲折を経て「明治維新」成る>

 

 

その後、幕末の動乱により様々な出来事が有ったが(詳細は全て割愛する)、

慶応2年12月25日(1867年1月30日)、孝明天皇が崩御した。

そして、中山慶子を生母とする祐宮(睦仁親王、1852(嘉永5)年11月3日生)が即位した。

後の明治天皇である。

 

 

これにより、朝廷との「公武合体」を推進していた江戸幕府は打撃を受けたが、

江戸幕府の第15代将軍に就任した徳川慶喜は、朝廷を抱き込んで「討幕の密勅」を受けていた薩長の先手を取り、

慶応3年10月14日(1867年11月9日)、政権を朝廷に返上する「大政奉還」を行なった。

これにより、260年以上続いた江戸幕府は終わりを告げたが、徳川慶喜としては、それまで数百年間、武家の世が続いていたので、政治などやった事が無い朝廷に、政治など出来るわけが無く、新体制でも、自らが影響力を行使出来ると踏んだ上での行動であった。

 

 

 

しかし、薩長を中心とした倒幕勢力は、それを許さず、慶応3年12月9日(1868年1月3日)に、

京都御所で、旧幕府勢力を締め出した上で、小御所会議を行ない、その結果、「王政復古の大号令」が出された。

この時、中心となっていたのは、公家の岩倉具視と、薩摩の西郷隆盛、大久保利通らであったが、

彼らは、旧幕府勢力を一掃し、薩長を中心とした新政府を作ろうと目論んでいた。

そのため、このようなクーデターを決行し、その目論見は成功した。

 

 

慶応4年1月3日~6日にかけて、「鳥羽伏見の戦い」が行われ、

西郷隆盛が率いる新政府軍が、徳川慶喜を大将とする旧幕府軍を破った。

これにより、大勢は決し、徳川慶喜は江戸へと逃げ帰った。

 

 

新政府軍は、江戸城を総攻撃する予定であったが、慶応4年3月13~14日にかけて、

西郷隆盛と、旧幕臣・勝海舟との間で話し合いが行われ、その結果、新政府軍の江戸城総攻撃は中止された。

これにより、所謂「江戸無血開城」が実現したが、もし、この時、江戸が火の海になっていたら、

その後、江戸が東京と改称され、日本の首都として発展していたかどうか、わからない。

そう考えると、「江戸無血開城」は、まさに歴史的な出来事であった。

 

<明治天皇の東京遷都と「慶應義塾」の誕生、そして野球伝来>

 

 

慶応4年10月13日、明治天皇は京都御所から江戸城へと移り、江戸城は「東京城」と改称された。

正式な遷都宣言などは無かったが、これは事実上の遷都であり、江戸は「東京」と改称され、

以後、「東京」は日本の首都として発展して行く事となった。

そして、元号は「慶応」から「明治」と改元され、ここに新しい時代が幕を開けた(「明治元年」は、慶応4年1月1日(1868年1月25日に遡って適用された)。

 

1860(万延元)年、咸臨丸で、勝海舟らと共に渡米した経験が有る福澤諭吉は、その2年前の1858(安政5)年、蘭学塾を創立し、自ら教授となっていた。

そして1868(慶応4)年、蘭学塾は東京の芝新銭座に移転されたが、その際に、蘭学塾は当時の年号から「慶應義塾」と改称された。

「慶應義塾」は、実学の奨励を掲げ、政界や実業界などに多くの人材を送り出し、発展して行った。

 

 

 

 

紆余曲折を経て「明治維新」を成し遂げた新政府は、様々な専門分野の外国人教師達を、高額で雇い、来日させ、若者達の教育にあたらせた。

所謂「お雇い外国人」であるが、その一人として来日し、

1871(明治4)年、東京開成学校予科(後の旧制第一高等学校、現在の東京大学の源流の一つ)の教師に就任したのが、ホーレス・ウィルソン教授である。

1872(明治5)年頃、ホーレス・ウィルソンにより、東京開成学校の生徒達に、ベースボールが伝えられた。

これが、日本における野球の歴史の始まりであり、「野球伝来」である。

舶来の競技、ベースボールに、東京開成学校の生徒達は夢中になり、やがて、ベースボールは各地に帰郷した選手達により、日本中に伝えられて行った。

 

<西郷隆盛と大久保利通、明治天皇を「近代的君主」として教育するも…「西南戦争」が勃発>

 

 

 

新政府の中心となった西郷隆盛大久保利通は、それまで御簾の奧に居て、外に出る事が無かった明治天皇に対し、

様々な教育を行ない、明治天皇「近代的君主」として育てようと試みた。

明治天皇もまた、西郷隆盛大久保利通に深い信頼を寄せ、君主として成長して行った。

 

 

1871(明治4)年、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文らは、幕末に結ばれた不平等条約改正交渉のため、渡米した。

所謂「岩倉遣外使節団」であるが、不平等条約交渉の結果は芳しくなかった。

そこで、欧米の進んだ文明を見聞し、日本の近代化のために役立てようと努めた。

 

 

その間、西郷隆盛を中心とする留守政府が、鉄道開設など様々な政策を矢継ぎ早に実行していたが、

1873(明治6)年、帰ってきた岩倉具視、大久保利通らと、西郷隆盛は「征韓論」を巡って激しく対立し、

同年(1873年)、西郷隆盛は下野し、政府を去った。所謂「明治六年の政変」である。

 

 

 

その後、西郷隆盛は1877(明治10)年に「西南戦争」を引き起こし、敗れて自刃したが、

明治天皇は、西郷隆盛が自害した事を、深く悲しんだという。

なお、翌1878(明治11)年には、大久保利通も東京・紀尾井坂で暗殺された。

このように、明治初期の騒然とした時代に、日本野球の歴史は始まったのであった。

 

(つづく)