平成30年間を振り返って①~新時代「平成」の幕開け…1989(平成元)年~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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法政大学野球部を中心として、東京六大学野球についての様々な事柄について、思いつくままに書いて行くブログです。
少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

本日(4/30)は、いよいよ「平成」最後の日である。

明日から「令和」という新時代の幕開けを迎える事となるが、

私は以前、当ブログで「平成30年史」という連載をスタートさせた。

 

 

とは言っても、その間、他の記事を色々と書いていたため、「プロローグ」である1988(昭和63)年の分までしか書けておらず、連載は中断していた。

という事で、「平成」最後の日である本日(4/30)、その「平成30年史」の連載再開として、「昭和」から「平成」へ元号が変わり、新時代の幕開けとなった1989(平成元)年について、描いてみる事としたい。

 

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なお、以前にゲットしておいた、1/8の「平成スタートの日」と、本日(4/30)の「平成最後の日」アメブロのスタンプを、まずは併せて掲げておく事とする。
 
<1989(昭和64)年1月7日、午前6:33、昭和天皇が崩御…その後、新元号「平成」が発表される>
 
 
 
1989(昭和64)年1月7日、午前6:33、長らく御病気を患っていた昭和天皇が崩御された。
これで、激動の「昭和」という時代が幕を閉じる事となったが、当時、小学生だった私は、昭和天皇崩御の第一報を、まずは母から聞いた。
子供心に、私も「天皇陛下、亡くなってしまったのか…」と、何とも言えない感慨を持った事を覚えている。
 
 
 
その後、当時の小渕恵三官房長官から、
「新しい元号は『平成』であります」という発表が行われた(小渕恵三「平成おじさん」として有名になり、後に首相にもなった)。
この「平成」という発表を聞いた時も、私は正直ピンと来なかった。
「平成?何だか平安時代みたいな、古臭い元号だな…」
と私は思ったのだが、当時は、昭和天皇の崩御という大ニュースの方がインパクトが大きく、
新元号「平成」というのも、それに比べると、それほどのインパクトは無かった気がする。
ともあれ、翌1/8に皇太子・明仁親王新天皇に即位し、「平成」という時代がスタートした。
 
 
この昭和天皇崩御の日(1/7)と、昭和天皇「大喪の礼」が行われた2/24は、
テレビ番組は、一日中、そのニュースと報道特別番組ばかりが放送された。
そのため、「見る番組が無い」と、レンタルビデオ屋が大繁盛した、という出来事も有った。
そのような雰囲気の下、「平成」という時代は始まったのである。
 
<1989(平成元)年の東京六大学野球…春は法政が優勝(4連覇)、秋は立教が23年振り優勝>
 
 
 
1989(平成元)年の東京六大学野球は、春は法政が優勝し、1988(昭和63)年秋の「昭和最後の優勝」に続き、法政が「平成最初の優勝」を達成、これで法政は3度目のリーグ4連覇となり、最強の黄金時代を謳歌していた。
しかし、同年(1989年)秋は、立教が1966(昭和41)年春以来、まさかかの23年振りの優勝を達成し、世間をアッと言わせた。
まさか立教が優勝するなど、当時は誰も思っておらず、この立教の優勝は、「平成」という新時代の幕開けを飾る、衝撃的な出来事だったと言って良い。
 
<1989(平成元)年のプロ野球…「藤田マジック」で巨人が8年振り日本一!!日本シリーズで近鉄を「3連敗から4連勝」で破る>
 
 
 
 
1989(平成元)年のプロ野球は、実に話題が豊富で、語るべき事は山ほど有るが、いくつか重要な出来事だけをピックアップすると、
まずは、前年(1988年)限りで巨人の王貞治監督が退任し、1980(昭和55)年に長嶋茂雄監督が解任された時に続き、
かつての巨人のエース・藤田元司が後任の監督に就任した。
 
藤田監督「藤田マジック」と称された、数々の名采配を見せたが、
前年(1988年)まで燻っていた斎藤雅樹をエースに成長させ、斎藤雅樹日本新記録となる11連続完投勝利を含む20勝を挙げ、巨人のエースの座に就いた。
打線の方では、クロマティ規定打席到達時点でも打率4割を打ち、このまま「史上初の4割打者誕生か!?」という勢いで打ちまくった(最終的には打率.378で首位打者)。
結局、巨人が藤田監督の下、2年振りのリーグ優勝を飾った。
 
 
 
一方、パ・リーグの方は、前年(1988年)の最終戦、「10.19」のロッテとのダブルヘッダー第2試合で、無念の引き分けに終わり、
惜しくも優勝を逃した、仰木彬監督率いる近鉄バファローズが、シーズン最終盤、西武とのダブルヘッダーで、ブライアント4打数連続ホームランを打つという大爆発を見せ、近鉄が前年(1988年)のリベンジを果たし、オリックス、西武との三つ巴の激闘を制し、奇跡の逆転優勝を達成した。
 
 
 
 
こうして、日本シリーズは巨人-近鉄の対決となったが、近鉄が一気に3連勝し、日本一に王手を掛けた。
その際に、第3戦の勝利投手、近鉄・加藤哲郎「巨人は(パ・リーグ最下位の)ロッテより弱い」(※実は、そんな事は言っていないのだが)と発言したのをキッカケに、シリーズの流れが変わり、そこから巨人が4連勝して、「3連敗から4連勝」という奇跡の日本一を達成した。
 
<1989(平成元)年6月24日、美空ひばり死去…不世出の「昭和の歌謡界の女王」が、この世を去る>
 
 
 
1989(平成元)年6月24日、昭和の大歌手、美空ひばりが、享年52歳で亡くなった。
美空ひばりは、長らく病を患っていたが、前年(1988年)4月11日に、東京ドームで「不死鳥コンサートを開催し、健在ぶりをアピールしていた。
この年(1989年)の1月には、「川の流れのように」という、名曲をリリースしていたが、結果的には、これが美空ひばりの生前最後の曲となった。
不世出の大スター、美空ひばりの死は、否が応でも、時代の変わり目を感じさせる出来事であったが、亡くなるにはあまりにも早すぎた。
しかし、美空ひばりの歌は、今もなお、多くの人々に愛され、時代を超えて聴き継がれている。
 
<WINK、光GENJI、爆風スランプ、プリンセスプリンセス、長渕剛…1989(平成元)年のヒット曲>
 
 
 
1989(平成元年)、WINK(相田翔子、鈴木早智子)という女性デュオが、『愛が止まらない』『淋しい熱帯魚』などを大ヒットさせ、一躍大ブレイクした。
WINKは、2人ともニコリともせず、無表情で歌う事がトレードマークであったが、『淋しい熱帯魚』は日本レコード大賞も受賞した。
そして、この時、小学生だった私は、WINKのファンであったが、当時、男子にはWINK、女子には光GENJIが大人気であった。
 
 
その光GENJIは、大ブレイクした前年(1988年)に続き、この年(1989年)も『太陽がいっぱい』を大ヒットさせ、
この年(1989年)も、光GENJI旋風はまだまだ続いていた。
 
 
 
 
 
その他、この年(1989年)は、爆風スランプ『Runner』、ガールズバンドの元祖・Princess Princess(プリンセスプリンセス)『Diamonds』、元おニャン子クラブの工藤静香『嵐の素顔』、長渕剛『とんぼ』などが大ヒットした(発売は1988年10月だが、翌1989年にかけて大ヒット)。
長渕剛は、『とんぼ』と同名のドラマ(放送は1988年10~12月)に、チンピラ役で主演し、大人気を博したが、このドラマで、長渕は、サザンオールスターズ『みんなのうた』がカーラジオで流れている場面で、舎弟の哀川翔「そんなクソみたいな歌、消せこのヤロー!!」と蹴り飛ばすという場面を演じ、長渕桑田佳祐の確執が、ここで表面化した(※この件に関しては、別の機会で詳述する)。
 
<ワンレン・ボディコンが大流行、吉本ばなながベストセラーを連発、「オバタリアン」・「イカ天」が流行語大賞に…消費税導入と、東証平均株価は史上最高値、日本経済絶頂の時>
 
 
 
 
 
この年(1989年)は、まだまだバブル景気が続き、世の中は華やかな雰囲気に溢れていた。
世のOLや女子大生達は、肩パット入りのボディコンに身を包み、ワンレン(ワンレングス)と称される長い髪をなびかせ、夜な夜な、ディスコ遊びに興じていた。
また、評論家・吉本隆明の娘・吉本ばなな『キッチン』『TSUGUMI』など、ベストセラーを連発し、「ばなな現象」を巻き起こし、
「オバタリアン」や、バンドブームを巻き起こしたTBS「イカすバンド天国」の略称「イカ天」が流行語となった。
 
 
 
1989(平成元)年4月1日~、消費税3%が導入され、国民生活に大きな影響を及ぼし、小銭の需要が一気に高まった。
そして同年(1989年)末、東京証券取引所では、大納会で東証平均株価が、
史上最高値の「3万8915円87銭」を記録した。
つまり、この1989(平成元)年こそ、日本経済の絶頂の時だったと言って良いであろう。
 
<天安門事件、東欧革命、「ベルリンの壁」崩壊、「冷戦」終結…激動の世界情勢>
 
 
 
この年(1989年)の世界情勢は、激動の1年であった。
6月4日、中国で「天安門事件」が勃発、天安門広場に集まり、民主化を求めてデモを起こしていた学生や若者達を、
鄧小平を首班とする中国共産党政府は、戦車や軍隊を使って鎮圧し、多数の死傷者が出るという、衝撃的な結末となった。
以後、中国ではこの事件について人々が語る事はタブーとされ、中国共産党政府は未だに思想統制を行なっている。
 
 
11月9日深夜~翌10日未明にかけて、東西ドイツ分断の象徴であった「ベルリンの壁」が崩壊し、
この日、ドイツ国民は歓喜に包まれた。
私も、子供心に「これは凄い歴史的な出来事だな…」と、驚きと興奮を持って、このニュースを見た記憶が有る。
 
 
 
同年(1989年)12月3日は、「ペレストロイカ」(改革)を進める、ソ連のゴルバチョフ書記長と、アメリカのブッシュ大統領の間で、「マルタ会談」が行われ、歴史的な「冷戦」終結宣言が出された。
ソ連の改革と、米ソの雪解けの影響も有り、東欧諸国が次々に社会主義体制を放棄し、民主化を成し遂げるという歴史的な大変動が有ったが、ルーマニアでは、12月25日に革命が勃発し、長年、独裁者として君臨していたチャウシェスクと、エレナ夫人が革命軍に逮捕され、即時処刑が執行された。
一連の、嵐のような「東欧革命」は、まさに歴史の変わり目の象徴的な出来事であった。