【明治・大正・昭和・平成・令和】天皇家5代と日本野球史② ~「明治時代と学生野球の発展」 | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

法政大学野球部を中心として、東京六大学野球についての様々な事柄について、思いつくままに書いて行くブログです。
少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

新元号「令和」の時代が始まった事を記念して、

「明治」以降の天皇家5代と、日本野球の関わりについて描いているが、

今回は「明治時代編」(中編)である。

「明治」という新しい時代を迎え、日本という国が急速に近代化を遂げて行った、この時代、

日本に伝来した野球もまた、学生野球を中心に、順調に発展して行った。

 

 

<「富国強兵」と「文明開化」…急速に近代化して行った日本…「アヘン戦争」の危機感が根本に>

 

 

 

「明治維新」を成し遂げた新政府は、版籍奉還(1868年)、廃藩置県(1871年)などを矢継ぎ早に断行し、

旧体制を徹底的に破壊し、権力を政府に集中させる体制を作り上げた。

そして、「欧米に、追い付け、追い越せ」という旗印の下、日本の近代化を目指した。

新政府は、所謂「富国強兵」というスローガンを掲げ、ありとあらゆる分野で近代化を押し進めたが、

それに伴い、世の中は西洋文明が一気に流れ込み、「文明開化」一色となって行った。

 

 

そもそも、幕末の動乱や「明治維新」の要因は何だったのかと言えば、

1840年に勃発した「アヘン戦争」で、それまで「眠れる獅子」として恐れられていた清国が、

イギリス軍に大敗を喫してしまい、

その後、清国が、半ば外国の植民地のような状態になってしまった事、その事に尽きるのではないだろうか。

それは、日本にとっても、衝撃的な事であった。

 

「このままでは、日本も清国のように、外国に支配されてしまう」

という強烈な危機感が、煎じ詰めれば、「幕末」の動乱や「明治維新」のエネルギーの元になっていたのである。

 

<鉄道開設と、日本初の野球チーム「新橋アスレチックス」>

 

 

 

 

1872(明治5)年、日本の近代化の一環として、新橋-横浜(現・桜木町)間に、日本初の鉄道が開業された。

この鉄道開業の中心人物だったのが、当時、新政府の若き官僚だった大隈重信、伊藤博文らであった。

 

 

1877(明治10)年、「西南戦争」により西郷隆盛が自刃したのと同じ年、

鉄道技師としてアメリカに留学していた平岡凞(ひらおか・ひろし)が帰国し、

翌1878(明治11)年、新橋鉄道局に入局したが、アメリカで現地の人達と野球に興じていたという平岡は、

早速、新橋鉄道局内に、野球チームを作った。

これが、日本初の野球チーム「新橋アスレチックス」であった。

「新橋アスレチックス」は、ユニフォームも揃え、専用のグラウンドまで作るという熱の入れようであり、

平岡が新橋鉄道局を退職する1887(明治20)年まで存続した。

 

<1882(明治15)年、「新橋アスレチックス」VS「駒場農学校」…日本初の、野球対抗試合と、野球の広がり>

 

 

1872(明治5)年頃、日本に野球が伝来し、東京開成学校(後の東京大学)の生徒を中心に、野球は盛んとなり、

やがて、他の学校にも野球は広まって行ったが、

その後、1878(明治11)年に「新橋アスレチックス」が誕生しても、その頃までは、仲間同士で試合をするか、外国人チームと試合をするだけであった。

しかし、1882(明治15)年、「新橋アスレチックス」対「駒場農学校」(後の農科大学⇒東京大学)の間で、試合が行われた。

これが、日本初の野球対抗試合であった。

 

 

 

 

翌1883(明治16)年以降、工部大学校(⇒東京大学)、東京英和学校(⇒青山学院)、波羅大学(⇒明治学院)など、

各校で次々に野球部が誕生して行ったが、慶應義塾でも1884(明治17)年頃に野球が始められ、1892(明治25)年には、学校から正式に野球部として認められている。

そして、初の大学対抗試合は、1886(明治20)年の工部大学校-波羅大学の試合であった。

 

<1877(明治10)年、「東京大学」の誕生⇒第一高等学校(一高)の誕生と「一高黄金時代」>

 

 

 

 

1877(明治10)年、江戸時代の「昌平坂学問所」を源流とする東京開成学校と、

「蕃所調所」「西洋医学所」などを源流とする東京医学校が合併し、「東京大学」が設立された。

「東京大学」は、日本という国を担うエリート養成機関として作られたが、以後、東大は今日もなお、日本の最高学府として君臨している。

なお、新設された東大でも、法学部を中心に野球は行われたが、1886(明治17)年、東大は野球における強敵・工部大学校を吸収し、帝国大学と改称された。

 

 

1886(明治17)年、東大から予備門が分離し、一ツ橋高等中学が誕生した。

一ツ橋高等中学は、後に第一高等学校と改称され、以後、東大の野球熱は一高(第一高等学校)に受け継がれて行った。

 

 

 

 

以後、各地に「ナンバースクール」と称される高等学校が誕生して行ったが、

一高をはじめとする高等学校は、そのまま帝国大学に進学する、エリート予備軍であった。

高等学校は全寮制であり、彼らの結び付きは強く、その絆の元、野球熱も高まって行った。

 

 

 

一高は、「我々は、日本野球の先駆者である」との意識も強く、校内の野球熱も大変高かった。

一高は1888(明治21)年に野球部を創部するや否や、兄貴分である東大よりも強くなり、

各校の野球部の挑戦を次々に退けて行った。

一高は、国内の野球の試合では負け知らずという程、大変強かったが、

1896(明治29)年には、一高は初の国際試合である横浜外人チームとの試合で29-4で大勝してしまった。

こうして、一高は日本の野球の王者となって行き、「一高黄金時代」が到来したのであった。

なお、一高の寮歌「嗚呼 玉杯に花うけて」は、今も東大野球部の応援歌として、歌い継がれている。

 

<自由民権運動⇒「明治十四年の政変」⇒東京専門学校(早稲田大学)と各私立学校の創立⇒内閣制度の成立⇒大日本帝国憲法の誕生>

 

 

 

1873(明治6)年、「明治六年の政変」で、西郷隆盛らと共に下野した板垣退助は、

薩長が牛耳っている政府に対し、国会開設などを求める政治運動である「自由民権運動」を展開した。

高まる「自由民権運動」の声に抗しきれず、政府も国会開設を認めざるを得ない状況となって行ったが、

その国会開設の時期を巡り、政府内では伊藤博文大隈重信が対立して行った。

 

 

 

そして、伊藤博文との争いに敗れた大隈重信は、遂に下野するに至った。

これが、所謂「明治十四年の政変」であるが、下野した大隈重信は、

転んでもただでは起きず、すぐさま行動を起こした。

 

 

 

大隈重信が下野したのと同じ1881(明治14)年、板垣退助自由党を結成していたが、

大隈重信も、下野した翌年の1882(明治15)年、立憲改進党という政党を組織した。

板垣退助自由党が、フランス流の共和政治を志向していたのに対し、大隈重信立憲改進党は、イギリス流の立憲政治を目指した。

 

 

大隈重信は、立憲改進党を設立したのと同じ1882(明治15)年、東京専門学校(⇒早稲田大学)を創立した。

伊藤博文と対立し、政府を去った大隈重信が作った学校という事で、

当初、政府も「謀反人を育てる学校ではないか」と、東京専門学校を非常に警戒し、

東京専門学校の授業に、政府からスパイが送り込まれたという逸話も残っている。

 

しかし、実際にはそうではなく、慶應義塾を創立していた福澤諭吉と、大隈重信が意気投合し、

大隈重信「福澤先生は、未来ある若者達に囲まれていて、羨ましいですね」と言ったところ、

福澤諭吉から「貴方も、学校を作ったらどうです」と言われ、その言葉が一つのキッカケとなり、

大隈重信も、自らの学校を作ったと言われている。

 

 

 

なお、この時期には、東京専門学校だけではなく、1875(明治8)年には同志社英学校(⇒同志社大学)、1880(明治13)年には東京法学社(⇒法政大学)、1881(明治14)年には明治法律学校(⇒明治大学)など、

私立学校が次々に誕生して行き、やがてそれらの学校でも、続々と野球部が誕生して行った。

 

 

一方、政府はといえば、幕末に欧米諸国と締結された不平等条約を改正しようと、あの手この手を駆使していた。

1883(明治16)年には、鹿鳴館を開設し、日本の近代化をアピールし、何とか条約改正交渉に繋げようとしたが、

その努力も空しく、諸外国からは、全く相手にされなかった。

 

 

 

やはり、日本でも近代的制度を確立しなければダメだと痛感した伊藤博文は、

1885(明治17)年、内閣制度を作り、伊藤博文初代の内閣総理大臣に就任した。

この初代内閣もまた、薩摩や長州の出身者を中心としていた。

 

 

 

 

 

1889(明治22)年2月11日、大日本帝国憲法が発布され、

日本はアジア諸国に先駆け、近代的憲法を有する国家となった。

大日本帝国憲法発布の式典では、明治天皇から第2代総理大臣・黒田清隆に、

発布されたばかりの大日本帝国憲法の文書が下賜された。

 

 

 

 

この大日本帝国憲法の第1条において、「大日本帝国は、万世一系の天皇、これを統治す」と規定され、

天皇が、日本という国家の中心に据えられた。

明治天皇は、明治時代を通して、一貫して比類なきカリスマとして君臨したが、

大日本帝国憲法により、法的にも国家のトップとして位置付けられた。

なお、1867(慶応3)年に左大臣・一条忠香の三女・美子(はるこ)が入内し、明治天皇と共に、昭憲皇后として、広く国民の尊敬を集めた。

 

(つづく)