【高校野球・四国4商】① ~高松商野球部、激闘の歴史~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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2019(平成31)年春の、第91回選抜高校野球大会(春のセンバツ)に出場が決まった、

高松商業(高松商)野球部は、これまで、大正年代昭和年代に、それぞれ甲子園優勝経験が有り、

もし、今年の春のセンバツで優勝すれば、松山商に続き、史上2校目となる、

「大正・昭和・平成」「3元号での甲子園優勝」という快挙を達成する事になる。

 

 

今回は、そんな高松商にエールを送る意味も込めて、

高松商の、甲子園における戦いぶりを、振り返ってみる事としたい。

 

なお、四国は野球王国と言われ、高松商、松山商、徳島商、高知商は、「四国4商」と称され、

甲子園で、偉大な足跡を残して来たのであるが、今回は、「四国4商」の歴史を、各校ごとに描いて行く事する。

その第1回目は、今年の春のセンバツに出場する、高松商についてである。

 

<高松商野球部の創部~宿敵・高松中と激闘を繰り広げる>

 

明治時代の中頃は、野球熱が全国的に広がり、各地の中等学校(中学校)に、次々に野球部が創部されたが、

四国の香川県でも、野球熱は高まっていた。

そして、まずは1896(明治29)年、高松中学(現・高松高校)で野球部が創部されたのを皮切りに、

翌1897(明治30)年には高松中学丸亀分校(現・丸亀高校)でも野球部が創部された。

 

その後、1909(明治42)年に、香川商業、後の高松商業(高松商)でも野球部が創部され、

1910(明治43)年に大川中学(現・三本松高校)で野球部が創部されると、

上記の各校は、それぞれ対抗戦を行い、野球の技量を高めて行った。

中でも、高松中と高松商の対抗戦は、宿命のライバル同士の戦いとして、

香川県内の野球ファンを熱狂させた。

 

<第1回全国中等学校優勝野球大会が開催…高松中VS高松商の激闘>

 

このような、全国的な野球熱の高まりを受け、1915(大正4)年、大阪朝日新聞は、

中等野球の全国大会を開催する事を決定し、新聞紙面上で、大々的に告知を行なった。

 

 

その第1回全国中等学校優勝野球大会こそ、今に続く「夏の甲子園」の始まりであるが、

第1回大会は、阪急電鉄の創始者・小林一三によって作られた、大阪の豊中球場で開催された。

そして、全国の各地区で、本選出場校を決めるための予選が行われたが、

第1回の四国予選では、強豪の愛媛県勢が参加しておらず、四国代表決定戦は、宿敵の高松中と高松商の間で行われた。

 

(1915(大正4)年、第1回全国中等学校優勝野球大会に出場した高松中

 

試合は、9-9の同点のまま、延長戦に入り、延長10回の表裏に、

両校が2点ずつを取り合い、11-11の同点となったところで、高松商の投手が疲労のため棄権してしまった。

その結果、栄えある第1回大会の四国代表は高松中となった。

 

<高松商、第1回春のセンバツで優勝!センバツの初代王者に輝く>

 

第1回の全国大会に、惜しくも出場を逃した高松商は、

その悔しさをバネに、1916(大正5)年、エース・鳥居順造投手を擁し、第2回の全国大会出場を果たした。

そして、初戦は鳥居順造の力投も有り、高松商は関西学院中を2-1で破り、全国大会での初勝利を挙げた。

続く準々決勝では、この大会で優勝した慶応普通部に3-9で敗れたが、高松商は、全国大会で確かな足跡を残した。

 

翌1917(大正3)年の第3回大会にも、高松商はエース鳥居が健在で、出場を果たしたが、

残念ながら、初戦で盛岡中に1-5で敗れてしまった。

以後、高松商は暫く全国大会の舞台から遠ざかるが、名古屋高商在学中の石井健一郎が監督に就任し、チーム強化に取り組むと、

高松商は、最強チームを作り上げた。

 

(1924年、第1回春のセンバツに出場した、高松商の松本投手(中)、野村主将(左)、生乃捕手(右)

 

1924(大正13)年、第1回全国選抜中等学校野球大会、所謂「春のセンバツ」が開催されると、

その第1回春のセンバツに出場した高松商は、エース・松本善隆、主将・野村栄一を中心とするチームで出場し、

初戦の和歌山中との対戦で、4-6と2点ビハインドの9回裏、村川克己の同点タイムリー三塁打と、相手のエラーにより、

高松商が、7-6と和歌山中に劇的な逆転サヨナラ勝ちを収めた。

 

 

この勝利で勢いに乗った高松商は、準決勝で愛知一中を7-1、決勝で早稲田実業(早実)を2-0で破り、

高松商は、見事に第1回のセンバツ大会の優勝を果たした。

 

高松商野球部、伝統の志摩供養

 

なお、同年(1924年)夏の全国大会予選で、高松商高松中に大敗してしまうが、

その帰路での船の中で、高松商の三塁手・志摩定一が胸部疾患で発熱し、同年冬に亡くなってしまった。

以後、高松商は1回の守備に就く際に、三塁ベース付近でナインが肩を組み、主将が水を口に含んで、三塁ベースに吹きかける、

所謂「志摩供養」が伝統になったという。

 

<大正末期~昭和初期、高松商が最強メンバーで黄金時代を築く!!>

 

大正末期~昭和初期にかけて、高松商は強力な布陣を揃え、

全国大会の舞台で、最強の黄金時代を築き上げた。

 

1925(大正14)年春、高松商は、宮武三郎、本田竹蔵の二大エースに、三塁手の水原茂を中心としたメンバーで、

春夏連続して甲子園に出場した(甲子園球場が1924(大正13)年に完成し、以後、全国大会は甲子園球場で開催)。

そして、まずは同年(1925年)春の第2回センバツで、高松商は市岡中を15-0、和歌山中を5-3、愛知一中を3-1で破り、決勝に進出したが、

高松商は、決勝で松山商に2-3で惜敗し、惜しくもセンバツ連覇を逃した。

 

 

 

しかし、同年(1925年)夏、高松商は、全試合を宮武三郎-本田竹蔵の投手リレーで、

東山中を14-0、静岡中を4-1、大連商を9-2で破り決勝に進出すると、決勝で早実を5-3で破り、

高松商は、夏の甲子園の初制覇を果たした。

 

 

その2年後の1927(昭和2)年、高松商の監督に大塚英一が就任すると、

同年(1927年)夏、高松商はエース・井川喜代一、三塁手と投手の二刀流の水原茂を中心としたメンバーで、

第一神港商を8-1、北野中を8-1、福岡中を1-0(延長12回)、愛知商を1-0で破り決勝に進出すると、

高松商は、決勝で広陵中を5-1で破り、夏の甲子園の2度目の優勝を達成した。

 

(高松商から慶応に進学し、中心選手として大活躍した水原茂(前列右)と、宮武三郎(後列右端)

 

この当時の高松商の中心選手である、宮武三郎、水原茂、井川喜代一らは、後に慶応に進学し、

昭和初期の、慶応黄金時代の中心メンバーとしても大活躍した。

このように、当時の高松商は、全国屈指の強豪校として、その名を日本中に轟かせていた。

 

<1960(昭和35)年春、高松商の戦後初優勝>

 

その後も、高松商は強豪校としての座を保ち続けたが、

1960(昭和35)年春のセンバツに、若宮誠一監督が率いた高松商はエース・松下利夫、遊撃手・山口富士雄らを擁して出場し、

高松商は、平安を4-1、滝川を2-0、北海を2-0破り、決勝に進出した。

 

(1960年春のセンバツ決勝でサヨナラ本塁打を放った、山口富士雄(高松商)

 

 

そして、決勝では、エース・宮本洋二郎を擁し、決勝に進出した米子東と対決したが、

高松商は、1-1の同点で迎えた9回裏、山口富士雄がサヨナラ本塁打を放ち、

史上初めて、サヨナラ本塁打による決着で、甲子園優勝を果たした(ちなみに、春のセンバツでサヨナラ本塁打で優勝が決まったのは、これが唯一の例である)。

 

<名門・高松商の復活!しかし2016(平成28)年春のセンバツで準優勝、惜しくも「3元号での甲子園優勝」を逃す>

 

(1978年夏の甲子園の初戦、延長17回の大熱戦の末、仙台育英にサヨナラ押し出し死球で、0-1で敗れた、高松商の河地良一投手

 

(1983年夏の高松商の甲子園出場メンバー)

 

(1996年春夏連続で甲子園出場した高松商

 

その後、高松商は、1970(昭和45)年夏の甲子園で、ベスト4に進出(準決勝で、PL学園に5-16で敗退)したのをピークに、

徐々に甲子園での戦績も下降して行った(1978(昭和53)年夏、高松商は延長17回の大熱戦の末、仙台育英に0-1で惜敗。1983(昭和58)年夏には、主砲・大森剛で甲子園に出場したが、初戦敗退)。

1996(平成8)年、高松商春夏連続で甲子園に出場したのを最後に、暫くの間、甲子園の舞台から遠ざかってしまった。

 

しかし、2015(平成27)年、高松商は、長い眠りから目を覚まし、素晴らしい戦績を残した。

2014(平成26)年に高松商の監督に就任した長尾健司は、見事に名門・高松商を再建し、

2015(平成27)年、高松商はエース・浦大輝投手、主将で遊撃手の米麦圭造、センターの安西翼らのメンバーを擁し、

秋季四国大会で、高松商は池田を6-3、今治西を9-7、済美を6-5、決勝で明徳義塾を6-5で破り、優勝した。

 

 

 

そして、四国代表として出場した、同年(2015年)秋の明治神宮大会で、

高松商は、札幌第一を7-2、大阪桐蔭を7-6、敦賀気比を8-3で破り優勝、

あの1960(昭和35)年春のセンバツ以来の、全国大会での優勝を果たした。

 

 

こうして、翌2016(平成28)年春のセンバツで、高松商は20年振りとなる甲子園出場を果たすと、

高松商は、いなべ総合を7-6、創志学園を5-1、海星を17-8、秀岳館を4-2で破り、決勝に進出した。

決勝では、高松商は智弁学園と対決したが、延長11回、惜しくも1-2でサヨナラ負けを喫してしまい、準優勝。

高松商は、1960(昭和35)年春以来56年振り、そして平成になって初めての優勝を、あと一歩の所で逃した。

しかし、優勝こそあと一歩で逃したものの、名門・高松商の復活は、多くの高校野球ファンを沸かせたのであった。

 

<そして2019(平成31)年春…高松商は「3元号での甲子園制覇」に挑む!!>

 

それから3年後の2019(平成31)年春のセンバツに、高松商が帰って来る事となったが、

3年前に、あと一歩で逃した優勝を、今大会こそ果たす事が出来るか、

そして、松山商に次いで史上2校目となる、「大正・昭和・平成3元号での甲子園優勝」が成るかどうか、

私も、大いに期待している。

 

(2016年春のセンバツの観客席。高松商OBの山口富士雄(中)、米子東OBの細川幸男(左)、常藤幸治(右)

 

なお、今大会には、1960(昭和35)年春のセンバツで、高松商が決勝で対決した米子東も出場するが、

高松商米子東は、過去に甲子園で3度対戦し、3度とも高松商が勝っている(1960年春決勝、高松商〇2-1●米子東・1961年春準決勝、高松商〇4-1●米子東、1965年春2回戦、高松商〇4-1●米子東)。

果たして、今大会で高松商米子東の再戦が有るかどうかも、注目である。

 

(高松商野球部、甲子園での通算成績:春26回、夏19回出場、優勝4回、準優勝3回、通算58勝41敗)