1992~1993年のサザンのクリスマスの名曲と、大洋ラストイヤー&横浜ファーストイヤー | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

法政大学野球部を中心として、東京六大学野球についての様々な事柄について、思いつくままに書いて行くブログです。
少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

今日は、クリスマスイブである。

そこで、今回はクリスマスっぽい記事を書きたいと思うのだが、

最近、当ブログではサザンオールスターズや、横浜DeNAベイスターズの記事を、数多く書いているので、

今回も、サザンベイスターズに絡めて、書かせて頂きたい。

 

 

デビュー40周年を迎えるサザンオールスターズにも、クリスマスにまつわる名曲は有るのだが、

今回は、特に私が好きな、サザンのクリスマス・ソングと、

そのクリスマス・ソングがリリースされた、1992(平成4)年の、大洋ホエールズのラストイヤーと、

1993(平成5)年の横浜ベイスターズのファーストイヤーがテーマである。

 

<1992(平成4)年、サザンの名盤『世に万葉の花が咲くなり』と、名曲『CHIRISTMAS TIME FOREVER』>

 

1992(平成4)年は、サザンオールスターズが華々しく大活躍した年である。

まず、7月18日に、サザンは『シュラバ★ラ★バンバ/君だけに夢をもう一度』と、『涙のキッス/ホリデイ~スリラー「魔の休日」より』というシングルを、2枚同時発売したが、

上記の2曲は、オリコン初登場1位と2位を独占するなど、大ヒットを記録した。

 

 

特に、『涙のキッス』は、佐野史郎が、マザコン男の「冬彦さん」を怪演した、TBSのドラマ『ずっとあなたが好きだった』の主題歌として起用され、『ずっとあなたが好きだった』と同様、大ヒットした。

それまでのサザンでは最高のセールスを記録したが、『涙のキッス』といえば、反射的に「冬彦さん」を連想する人が多いのではないだろうか。

それぐらい、インパクトの有るドラマだったが、佐野史郎賀来千香子が主演し、佐野史郎の母親役で野際陽子(立教OG)、賀来千香子の昔の恋人役で布施博が出演している。

 

だが、今回のテーマは、『涙のキッス』についてではなく、

同年(1992年)の9月26日にリリースされた、サザンの11枚目のアルバム『世に万葉の花が咲くなり』に収録されている、

『CHIRISTMAS TIME FOREVER』についてである。

 

『世に万葉の花が咲くなり』は、前述のシングルの4曲も含め、全16曲が収録されているが、

サザン小林武史(後に、Mr.Childrenのプロデューサーとなる)がタッグを組んだ『世に万葉の花が咲くなり』は、

収録された16曲のどの曲も、シングルとしてリリースしても良いのではないかというぐらいの、名曲揃いの名盤であり、

私も、サザンのアルバムの中では一、二を争うぐらい大好きである。

 

その『世に万葉の花が咲くなり』の最後の16曲目に収録されているのが、『CHIRISTMAS TIME FOREVER』という曲であるが、

サザンにとっては、初めての本格的なクリスマス・ソングと言っても良い曲であり(1980年の『シャ・ラ・ラ』も、一応クリスマスがテーマの曲ではあるが)、私は初めて聴いた時から、「何て、素晴らしい曲なんだ」と感動し、この曲が大好きになった。

 

 

『CHIRISTMAS TIME FOREVER』は、同年(1992年)冬の、丸井のセールのCMソングとして放送されていたため、知っている方も多いとは思われるが、

この曲は、シングル・カットはされていないので、サザンの曲の中では、知る人ぞ知るという位置付けであろう。

とても素晴らしい曲なので、もっと多くの人に知ってもらいたいと、私も常々思っているのだが、

シングルになっていないのが、本当に勿体ないと、私は思う。

 

『CHIRISTMAS TIME FOREVER』の歌詞の一節)

 

しかし、この時期にピッタリな、大変素晴らしい曲であるのは間違い無いので、

機会が有れば、是非ともお聴き頂きたい。

 

<1992(平成4)年、大洋ホエールズのラストイヤー>

 

1992(平成4)年は、結果として、横浜大洋ホエールズのラストイヤーとなった年である。

前年(1991年)のクリスマスの日に、当時の大洋のエース・中山裕章が不祥事で逮捕され、大洋ファンにとっては最悪のクリスマスとなっていたのだが、その中山抜きで1992(平成4)年のペナントレースに挑んだ大洋は、開幕から苦しい戦いを強いられた。

 

勝てる投手は、盛田幸妃ただ一人という状況で、大洋は5月初めの段階で、7勝15敗と最下位に低迷していたが、

不振の責任を取り、須藤豊監督が休養(事実上の辞任)をするという状況に追い込まれた。

 

 

退陣した須藤監督に代わり、ヘッドコーチだった江尻亮(早稲田OB)が、監督代行として後を引き継いだが、

江尻監督代行(シーズン中に、監督に昇格)は、低迷していたチームをよく建て直し、

先発だった盛田をリリーフに回し、前年(1991年)から抑えに定着していた佐々木主浩と合わせ、

後半戦からは盛田-佐々木という必勝リレーを確立させた。

 

 

 

今でこそ、抑え投手に繋ぐ前のセットアッパーは、何処の球団にも居るが、

盛田のリリーフは、その先駆けと言っても良いものであった。

大洋は、最終的な順位こそ5位に終わったものの、後半戦はセ・リーグの上位陣に勝ちまくり、

セ・リーグの台風の目として、大洋の後半戦の勝率は、セ・リーグ1位だった(もし、前後期制なら、後期の優勝は大洋だとも言われた)。

そして、江尻監督は、石井琢朗進藤達哉といった若手を積極的に起用し、

後の1998年の優勝メンバーが、芽を出し始めた年でもあった。

 

 

なお、同年(1992年)は、佐々木が初の最優秀救援投手に輝き、ラリー・シーツが100打点で打点王を獲った。

大洋ホエールズは、翌年(1993年)から横浜ベイスターズと改称される事が決まったが、

1992年の大洋は、新チームに希望を抱かせる戦いぶりだったと言って良い。

 

<1993(平成5)年、サザンはクリスマス・ソングの『クリスマス・ラブ』をリリース>

 

1993(平成5)年のサザンは、7月21日に『エロティカ・セブン』『素敵なバーディー』の2枚のシングルを同時にリリースし、

前年(1992年)に引き続き、2枚のシングルが同時に大ヒットを記録した。

『エロティカ・セブン』は、後に(2000年に)『TSUNAMI』に抜かれるまでは、サザン史上最高売り上げを記録した曲であったが、

同年(1993年)の11月20日には、サザンは『クリスマス・ラブ(涙のあとには白い雪が降る)』を、シングルとしてリリースした。

 

 

『クリスマス・ラブ(涙のあとには白い雪が降る)』も、前年の『CHIRISTMAS TIME FOREVER』に続き、

丸井の冬のセールのCMソングとして起用され、また、シングルでリリースされた事もあり、

サザンのクリスマス・ソングと言われれば、こちらを思い浮かべる人が多いかもしれない。

 

(サザンを生んだ青山学院大学のクリスマスツリー点灯式)

 

しかし、率直に言えば、私の個人的な感想としては、『CHIRISTMAS TIME FOREVER』の方が、

『クリスマス・ラブ(涙のあとには白い雪が降る)』よりも好きである。

勿論、『クリスマス・ラブ(涙のあとには白い雪が降る)』も素晴らしい曲なのだが、

『CHIRISTMAS TIME FOREVER』は、詞も曲も、非の打ち所の無い名曲であり、今聴いても、全く古さを感じない。

というわけで、何度も繰り返すが、この曲はサザンを代表する名曲の1つであると、私は強調しておきたい。

 

 

 

なお、前年(1992年)に、「冬彦さんブーム」を起こした佐野史郎賀来千香子のコンビは、

この年(1993年)にも、TBSドラマ『誰にも言えない』で共演し、ドラマはまたしても大ヒットした(野際陽子も、再び出演)。

佐野史郎の怪演ぶりは、更に凄みを増し(このドラマでの役名は、麻利夫さんである)、

『誰にも言えない』の主題歌となった、松任谷由実(ユーミン)『真夏の夜の夢』も大ヒットした。

 

<1993(平成5)年、ジェットコースターのような乱高下をした、横浜ベイスターズ初年度>

 

1993(平成5)年、新生・横浜ベイスターズは、大洋OBの近藤昭仁(早稲田OB)を新監督に迎え、新たなスタートを切ったが、

横浜ベイスターズは、いきなり開幕5連敗と、出だしで大きく躓いた。

開幕6試合目の阪神戦で、進藤達哉が劇的なサヨナラ満塁ホームランを放ち、ベイスターズとしての初勝利を挙げたが、

ベイスターズは、なかなかエンジンがかからず、4月末時点で首位・広島に8ゲーム差を付けられて最下位と、完全に出遅れてしまった。

 

 

5月末時点でもベイスターズは最下位で、首位ヤクルトに大きく差を付けられていたが、

新外国人選手のグレン・ブラッグスが、6月2日から、外国人選手の新記録となる29試合連続安打と打ちまくると、

ベイスターズは急上昇し、7月15日の時点で首位ヤクルトに2.5ゲーム差の2位と迫った。

 

 

しかし、ブラッグスが29試合連続安打を達成したヤクルト戦(神宮)の試合後、階段で転倒し右手小指を骨折し、

以後、シーズン終了までの欠場を余儀なくされると、ブラッグスにおんぶに抱っこだったベイスターズは、完全に失速し、

オールスターを挟んで10連敗を喫して、あっという間に最下位に転落してしまった。

 

 

後半戦は、ブラッグスと共に入団し、当初は守備の人と思われていたロバート・ローズ二塁手が4番に座り、94打点打点王を獲得、

野村弘樹が17勝で最多勝、石井琢朗が初の盗塁王を獲得するなど活躍し、低迷する広島を抜いて、何とか5位に浮上したが、

ブラッグスが打ちまくると同時に浮上し、ブラッグスが故障で離脱すると同時に終戦してしまったという事で、

横浜ベイスターズの初年度は、まさにジェットコースターばりの乱高下のシーズンであった。