マスコットで振り返るプロ野球史② 国鉄・ヤクルト編 ~特急「つばめ」と鉄腕アトムと、つば九郎~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

現在、プロ野球12球団で一番人気が有るマスコットと言っても良いのが、

東京ヤクルトスワローズの、つば九郎である。

 

 

つば九郎は、如何にして誕生し、そして、球界きっての人気者(人気鳥?)になって行ったのかを紐解いて行くと、

東京ヤクルトスワローズのルーツである、国鉄スワローズに行き着くのであるが、

今回は、スワローズの歴史を、マスコットという観点から振り返ってみる事としたい。

 

<1950(昭和25)年、国鉄スワローズ誕生!球団名の由来は、特急「つばめ」>

 

1950(昭和25)年、プロ野球がセ・パ両リーグに分裂した際に、

セ・リーグの8番目の球団として新加盟したのが、国鉄スワローズである。

 

元々、全国各地の国鉄には野球チームが有り、都市対抗野球にも出場する程の強豪だったが、

1950(昭和25)年、プロ野球への参入が決定した。

 

(国鉄の象徴、特急「つばめ」は、スワローズの球団名の由来となった)

 

新生・国鉄球団は、全国の国鉄職員の士気を高める目的も有ったため、

国鉄にピッタリの愛称として名付けられたのが、

当時、東海道本線を走っていた、国鉄を象徴する列車、特急「つばめ号」に由来する、スワローズであった。

 

(国鉄の特急「つばめ」の、つばめマーク(スワローエンジェル)

 

特急「つばめ」は、多くの日本国民から愛された列車だったため、

国鉄スワローズという愛称は、まさに国鉄球団にはピッタリの愛称だったと言って良い。

このスワローズという愛称が、後にヤクルトスワローズへと繋がり、やがて、つば九郎というキャラクターを生み出す事になるのだから、

特急「つばめ」こそが、つば九郎のルーツだったという言い方も出来る。

 

国鉄スワローズの大エース、金田正一投手)

 

なお、国鉄スワローズは、球団創立の年(1950年)に入団した、大エースの金田正一投手のワンマンチームであり、

金田正一は、翌1951年から14年連続20勝という不滅の大記録を残したが(金田は国鉄時代に通算353勝、巨人に移籍後47勝で、通算400勝を達成)、

国鉄スワローズとして活動した期間(1950~1964年)は、国鉄はAクラス(3位以上)になったのは1961(昭和36)年の一度だけであり、遂に一度も優勝する事は出来なかった。

 

そして、国鉄は1964(昭和39)年限りで球団経営から撤退し、金田も同年(1964年)を最後に国鉄を退団し、巨人に移籍したが、

翌1965(昭和40)年からは、球団経営は国鉄からフジサンケイグループへと移り、球団名はサンケイスワローズとなった。

 

<『鉄腕アトム』とのコラボで、スワローズ⇒アトムズに球団名を変更!!>

 

ところで、当時フジテレビ系列で、初の国産アニメとして、

手塚治虫が原作の『鉄腕アトム』が放送され、子供達に大人気となっていたが、

フジサンケイグループがスワローズの経営権を獲得した時、手塚治虫は、フジテレビ系列で『鉄腕アトム』が放送されていた縁も有り、

新生・サンケイ球団の後援会の副会長を務めていた(ちなみに、後援会長は徳川夢声である)。

 

(初の国産アニメ『鉄腕アトム』。原作の手塚治虫「虫プロ」を設立し、アニメ製作も手掛けた)

 

『鉄腕アトム』の原作者で、「漫画の神様」と称された手塚治虫

 

そこで、サンケイ球団は、手塚治虫の意向も確認した上で、

『鉄腕アトム』の人気にあやかり、球団名を、スワローズからアトムズに変更する事に決定した。

アトムズという名称に変更する事により、広く少年少女のファンを取り込もうという狙いが有ったわけだが、

1966(昭和41)年から、球団名はサンケイアトムズとなった。

 

 

ちなみに、後年、西武ライオンズが、手塚治虫『ジャングル大帝』レオを、球団のキャラクターとして採用したが、

球界参入は、実はレオよりもアトムの方が先だったわけである。

 

(1966(昭和41)年、新生・サンケイアトムズを応援するアトム、ウラン、お茶の水博士

 

<ヤクルトが経営権を獲得、球団名はヤクルトアトムズに変更!しかし、苦戦が続く>

 

しかし、アトムズはあまりにも弱く、1967(昭和42)年には、巨人に3勝23敗という大惨敗を喫するなど、

アトムズは、毎年Bクラスを低迷するという低空飛行が続いた。

1969(昭和44)年には、フジサンケイグループが、球団の経営権の一部をヤクルトに売却し、

ヤクルトが球界に参入、同年(1969年)は、フジサンケイグループとヤクルトの共同経営で、球団名はアトムズとなった(サンケイアトムズの、「サンケイ」の冠が取れて、ただの「アトムズ」になった)。

 

 

翌1970(昭和45)年からは、フジサンケイグループが完全に球団経営から撤退し(その後も、フジサンケイグループとヤクルト球団との友好関係は続いた)、

ヤクルトの単独経営で、球団名はヤクルトアトムズとなったが、同年(1970)年のヤクルトアトムズは、

33勝92敗5分 勝率.264で、優勝した巨人に45.5ゲーム差を付けられ、ダントツ最下位に終わった。

なお、この92敗という記録は、2017年にスワローズが96敗を記録するまで、国鉄・ヤクルトを合わせて、最多敗戦記録であった。

 

 

とにかく、アトムズは弱すぎたため、当初の目論見とは異なり、子供達から広く人気を集める事は出来ず、

本拠地の神宮球場は、巨人ファンが沢山やって来る巨人戦以外は、客席はガラガラで、常に閑古鳥が鳴いていた。

 

<球団名を再びスワローズに変更、球団名はヤクルトスワローズに!そして、ヤー坊とスーちゃんの誕生!!>

 

1974(昭和49)年から、ヤクルト球団は、球団名をアトムズから、伝統有るスワローズに戻す事を決定、

これにより、球団名はヤクルトスワローズとなった(※これは、1973(昭和48)年に、手塚治虫のアニメプロダクションの「虫プロ」が倒産したという事情も有った)。

同年(1974年)以降、現在まで続くヤクルトスワローズという名称となったが、ヤクルトスワローズは徐々に力を付け、

1978(昭和53)年、ヤクルトスワローズは、球団創立29年目にして、遂に悲願の初優勝を達成した。

かつて、ヤクルト戦では閑古鳥が鳴いていた神宮球場は、この年(1978年)は、連日、多くのヤクルトファンで埋め尽くされ、ヤクルトファンは優勝を願い、スワローズに大声援を送った。そんなヤクルトファンの熱気に後押しされた事も有り、ヤクルトは初優勝を勝ち取ったのであった。

 

(1978(昭和53)年、ヤクルトスワローズは球団創立29年目にして、悲願の初優勝

 

そして、同年(1978年)の、ヤクルトの大フィーバーに乗って、本拠地の

神宮球場に燕のマスコットが非公式に登場したとの記録が残っているが、

翌1979(昭和54)年、プロ野球史上初のマスコット・キャラクターとして、ヤー坊スーちゃんが登場した。

 

(1979(昭和54)年、ヤクルトのマスコット・キャラクターとして、ヤー坊(左)スーちゃん(右)が登場)

 

ヤー坊スーちゃんは、ツバメをモチーフとした、男女(?)のマスコットであり、

1980~1990年代初頭にかけて、神宮球場のヤクルトファンを盛り上げたが、

ヤー坊スーちゃんの健闘も空しく、ヤクルトは1978年の初優勝以降、またも万年Bクラス球団に逆戻りしてしまった。

 

<1994(平成6)年、遂につば九郎がデビュー!!今やヤクルト随一の人気者(人気鳥?)に>

 

そして1994(平成6)年、先代のヤー坊スーちゃんから、

ヤクルトスワローズのマスコットの座を引き継ぎ、つば九郎が登場した。

 

(1994年、ヤクルトのマスコットとして、つば九郎がデビュー。当時は、とても痩せていた)

 

(しかし、その後、つば九郎はでっぷりと太って行った)

 

つば九郎は、1994(平成6)年4月9日、神宮球場のヤクルト-阪神戦で、マスコットとしてデビューを果たしたが、

デビュー当時は痩せていたつば九郎も、やがて、でっぷりと太って行った。

そして、つば九郎は、マスコットらしからぬ毒舌を含む、数々の言動(スケッチブックでの筆談)など、

それまでのマスコットとは一味違うキャラクターとして、大人気となった。

(※ちなみに、つば九郎の名前の由来は、燕(つばめ)の別称「つばくろ」であるが、他にも「野球は9人で9回戦うゲーム」であり、更に、「苦労(九郎)して接戦をものにして欲しい」という意味が込められているという)

 

 

つば九郎は、大のビール党であるが、真っ赤な頬っぺたは、本人(本鳥?)曰く、酔っぱらっているわけではなく、

「夢と希望が詰まっている」との事である。

 

なお、つば九郎は1994年のデビュー以来、2018年現在まで、ヤクルトのホームゲームには1試合も欠かさず出場し、

2008年には1000試合連続出場、2015年には1500試合連続出場を達成しており、

その間、野村克也、若松勉、古田敦也、高田繁、小川淳司、真中満、そして再任した小川淳司と、

24年間、6人の監督に仕えて来ており、つば九郎は、まさにスワローズの歴史の生き証人と言って良いであろう。

 

 

今や、神宮球場では、つば九郎が登場するだけで大歓声が起こり、もしかしたら山田哲人よりも人気が有るかもしれないが、

つば九郎は、スワローズの選手達からも信頼されており、円陣にも参加すれば、優勝した時には選手を従えて先頭を行進し、

勿論、ビールかけにも堂々と参加している。

 

(2015年、東京ヤクルトスワローズ14年振り優勝。行進する選手を先導する(?)つば九郎

 

(2015年のヤクルト優勝のビールかけに堂々と参加する、つば九郎

 

なお、つば九郎ファミリーとして、妹のつばみ(1999年~登場)、燕太郎(2005~2014年5月)、トルクーヤ(2014年6月~)なども居るが、

つば九郎は、毎年の契約更改で、「もし、妹のつばみをいじめたら減俸にする」と言われている事もあり(?)、仲良くやっているようである。

ヤクルトスワローズといえば、退団した選手を球団職員やヤクルト本社として雇用する事も多く、家族的な球団という印象が強いが、

その家族的な温かさは、つば九郎ファミリーの仲の良さにも表れているように思われる。

 

つば九郎ファミリー。左から順に、つばみ、つば九郎、燕太郎(2014年で引退))

 

(2014年~以降、活躍している、トルクーヤ

 

という事で、つば九郎に会いたいという方は、是非とも、神宮球場のヤクルトの試合を見に行って頂きたい。

今や、中日ドラゴンズのドアラと、ディナーショーを開くほど人気の有るつば九郎だが、

自らのホームである神宮球場でのつば九郎は、ひと際、輝いて見える筈である。

そして、つば九郎には、是非とも前人未到の、マスコットとしての2000試合連続出場つば九郎が、目標として掲げている)を達成して欲しいと、私も願っている。

 

(毎年開かれている、つば九郎ドアラのディナーショーは、チケットは数分で完売するほどの大人気)

 

(2008年、ヤクルトアトムズの復刻イベントでの、鉄腕アトム(左)つば九郎(右)

 

※なお、余談であるが、ヤー坊とスーちゃんは、現在は沖縄の浦添に移住しているとの事である。

 

(現在は、沖縄の浦添で活躍している、スーちゃん(左)ヤー坊(右)