今回は、平成の30年間を振る返る企画として、「平成30年史」という記事を書いているが、
平成時代に入る前のプロローグとして、昭和末期についても記述している。
前回の1987(昭和62)年に続き、今回は、事実上の昭和最後の年である、1988(昭和63)年について、書いてみたい。
1988(昭和63)年は、日本は相変わらずの好景気(所謂、バブル景気)に沸いていたが、
この年は、昭和天皇の病状が悪化し、世の中に自粛ムードが溢れた年でもあった。
そして、野球界では、日本初の屋根付き球場、東京ドームが開場する一方、
パ・リーグの南海ホークス、阪急ブレーブスという、2つの老舗の名門球団が、その長い歴史に幕を閉じている。
そんな中、法政野球部は前年(1987)年秋に続き、東京六大学野球で春秋連覇を達成、都合、三連覇を達成し、強さを見せ付けた。
(1988(昭和63)年、昭和天皇の病状が悪化。世の中は自粛ムードに)
(昭和天皇の病状回復を願い、皇居前広場で記帳をする人々)
<1988(昭和63)年春、法政が完全優勝で秋春連覇を達成!!>
1988(昭和63)年春の東京六大学野球は、
3年生エース・葛西稔が、シーズン6勝1敗と大車輪の活躍を見せ、法政が10勝2敗2分の勝ち点5の完全優勝、
前年(1987)年秋の優勝に続き、法政は秋春連覇を達成した。
しかし、法政の優勝は決して順風満帆なものではなく、
法政は、慶応には連勝したものの、1回戦は3-2、2回戦は7-6と、いずれも1点差での辛勝であり、
また、法明戦は、何と5回戦にまでもつれ込む激闘となったが(六大学野球史上、25年振り)、
法政が2勝1敗2分で明治を倒し、底力を示した。
まさに、「血の法明戦」の面目躍如というべき死闘だったが、軍配は法政に上がった。
法政は、打線は低調だったが、葛西稔-瀬戸輝信(後に広島)というバッテリーを中心とした守りの野球で、
粘り強く戦い抜いた末の栄冠であり、価値有る優勝であった。
法政に次いで、勝ち点4で2位に終わった慶応は、大森剛が、打率.500 6本塁打16打点という大活躍で、三冠王に輝いた。
また、早稲田は、1960年秋の早慶6連戦の時の優勝監督・石井連蔵が25年振りに監督に復帰、
早稲田は市島徹と小宮山悟の両エースが奮闘したが、明治と並び、同率3位に終わった。
なお、早稲田・小宮山悟と慶応・大森剛の対決は、「早慶戦の華」と称されたが、
このシーズンの早慶戦は慶応が連勝した。
【1988(昭和63)年春 東京六大学野球 勝敗表】
①法政 10勝2敗2分 勝ち点5 勝率.833
②慶応 8勝2敗 勝ち点4 勝率.800
③早稲田 5勝6敗 勝ち点2 勝率.455
③明治 5勝6敗2分 勝ち点2 勝率.455
⑤立教 4勝6敗 勝ち点2 勝率.400
⑥東大 0勝10敗 勝ち点0 勝率.000
<1988(昭和63)年秋、法政が三連覇達成!!昭和最後のシーズンを制す>
1988(昭和63)年秋は、結果として、東京六大学野球にとって、昭和最後のシーズンとなったが、
法政が、シーズン4勝2敗の葛西稔、シーズン5勝無敗の芝光夫という両エースの活躍と、
打率.406の宮間豊智、瀬戸輝信、大島公一(後に近鉄-オリックス)、中根仁らが打率3割を達成するという強力打線で、
投打がガッチリと噛み合った横綱相撲を見せた法政が、10勝2敗の勝ち点5の完全優勝で、危なげなく三連覇を達成した。
法政は、昭和最後のシーズンで見事に優勝したが、法政を三連覇に導いた主将・中根仁は、翌年、近鉄に入団した。
法政戦以外は全て勝ち点を挙げた慶応は、勝ち点4で惜しくも2位に終わったが、
慶応のエース・志村亮は、六大学史上初の5試合連続完封勝利、
更に、六大学新記録の53イニング連続無失点という大記録を達成。
志村亮は、慶応での4年間で通算31勝17敗 防御率1.82という素晴らしい成績を残したが、
志村は卒業後はプロに進まず、野球から足を洗い、三井不動産に就職した。
なお、このシーズンの早慶戦で、早稲田・小宮山悟、慶応・大森剛との対決に注目が集まった。
早稲田が初戦を落として迎えた2回戦、早稲田が4-3と1点リードして迎えた9回裏2死2塁で、
小宮山は大森を敬遠したが、スタンドからは小宮山に「弱虫!」と激しい野次が飛んだ。
チームの勝利のために、個人対個人の勝負よりも、敬遠策を選んだ小宮山は悔し涙を流したが、結局、早稲田が4-3で勝利。
3回戦は慶応が勝ったが、小宮山の心意気を示した名場面であった。
【1988(昭和63)年秋 東京六大学野球 勝敗表】
①法政 10勝2敗 勝ち点5 勝率.833
②慶応 9勝3敗 勝ち点4 勝率.750
③早稲田 8勝5敗 勝ち点3 勝率.615
④立教 5勝7敗 勝ち点2 勝率.417
⑤明治 3勝8敗 勝ち点1 勝率.273
⑥東大 0勝10敗 勝ち点0 勝率.000
<星野仙一監督率いる中日ドラゴンズ、6年振り優勝!!巨人は東京ドーム元年での優勝成らず>
プロ野球のセ・リーグは、就任2年目の星野仙一監督(明治OB)率いる中日ドラゴンズが、
4月こそ5勝11敗と出遅れたものの、夏場以降、日替わりヒーローが続出する劇的な逆転勝利を連発、
結局、中日が2位・巨人に12ゲーム差を付ける独走で、6年振りの優勝を果たした。
中日は、エース・小松辰雄、37セーブを挙げた守護神・郭源治を軸とした投手陣に、
落合博満、宇野勝、ゲーリー、立浪和義らの「恐竜打線」がガッチリと噛み合った、見事な優勝であった。
一方、この年に開場した東京ドーム元年での優勝を狙った巨人は、
7月の中日戦(札幌円山球場)で、フライを追ったレフトの吉村禎章が、センターの栄村忠広と激突、
左足の靭帯断裂という大怪我で戦線を離脱。
(1988年の東京ドームでの開幕戦は大雪、早速、ドーム球場の利点が証明された)
6月にも、主砲・クロマティが死球により骨折するなど、主力の離脱が相次ぎ、
結局、巨人は優勝を逃してしまい、王貞治監督は退任を余儀なくされた。
なお、戦列を離脱したクロマティに代わり、台湾出身の呂明賜が一軍に上がり、
呂明賜は6/14のヤクルト戦(神宮)で、ギブソンから初打席初ホームランという衝撃のデビュー。
呂明賜は、デビュー9試合で36打数12安打7本塁打(またデビュー17試合で10本塁打)と大活躍し、旋風を巻き起こした。
また、ヤクルトは5位に終わったものの、関根潤三監督(法政OB)が、
広沢克己(明治OB)、池山隆寛(共に、30本塁打を記録)など、若手選手を積極的に起用、
また、長嶋一茂は4/27の巨人戦(神宮)で、プロ初安打を本塁打で飾るなど、多くの話題を提供。
ヤクルトは、徐々に力を付け、後の黄金時代の礎を築きつつあった。
<ロッテVS近鉄、「10.19」の死闘、西武がパ・リーグ四連覇、3年連続日本一!!>
パ・リーグは、黄金時代を築いていた西武が、
この年も、秋山幸二、清原和博、バークレオの「AKB砲」を中心とする強力打線や、工藤公康、渡辺久信、郭泰源らの強力投手陣で、
西武が開幕から首位を独走、この年も西武の優勝は間違い無しと思われた。
しかし、6月末には、首位・西武に8ゲーム差を付けられていた近鉄が、夏場から西武を猛追した。
近鉄は、大麻不法所持で逮捕されたデービスに代わり、中日の二軍に居たラルフ・ブライアントを獲得すると、
ブライアントは、そこから74試合で34本塁打と、大爆発。
近鉄は、ブライアントをはじめ、大石大二郎、新井宏昌(法政OB)、オグリビー、鈴木貴久らの「いてまえ打線」と、
エース・阿波野秀幸の力投により、王者・西武を追い詰めた。
(近鉄は「10.19」決戦のロッテとのダブルヘッダーの死闘で、惜しくも優勝を逃す。中央は近鉄・仰木彬監督)
そして、先に首位で全日程を終えた西武に対し、近鉄は10/19の、最後のロッテとのダブルヘッダー(川崎球場)で、近鉄が連勝すれば逆転優勝という所まで来たが、近鉄は1試合目を4-3で逆転勝ちしたものの、
2試合目は、近鉄は阿波野が高沢秀昭(ロッテ)に痛恨の同点ホームランを浴び、結局、時間切れで、
延長10回、4-4の引き分けに終わり、近鉄は惜しくも優勝を逃した。
そして、結果待ちだった西武がパ・リーグ四連覇となったが、
ロッテ-近鉄のダブルヘッダーの死闘は「10.19」決戦として、長く語り継がれている。
(3年連続日本一で、胴上げされる西武・森祇晶監督)
なお、日本シリーズは西武が4勝1敗で中日を破り、
西武ライオンズが3年連続日本一を達成した。
<南海ホークス、阪急ブレーブスが、その歴史に幕を閉じる>
そして、パ・リーグの老舗の名門球団、南海ホークスがダイエーに、阪急ブレーブスがオリックスに、
それぞれ球団の譲渡をする事を発表。南海と阪急は、その栄光の歴史に幕を閉じる事になったが、
伝統有る両球団の身売りは、時代の変わり目を感じさせる、大きな出来事であった。
翌1989年から、南海は福岡ダイエーホークス、阪急はオリックスブレーブスとして、新たなスタートを切る事となった。
(大阪球場で、ファンに別れを告げる南海ホークスの選手達と、杉浦忠監督(立教OB))
(西宮球場で、ファンに阪急最後の挨拶をする阪急ブレーブスの上田利治監督)
<ソウル五輪で、鈴木大地が金メダル、野球日本代表が銀メダル>
1988年は、ソウルオリンピックが開催された。
日本は、100m背泳ぎの鈴木大地(現・スポーツ庁長官)など、合計で4つの金メダルを獲得。
(※余談だが、翌1989年に生まれた、現ロッテの鈴木大地の名前は、この鈴木大地にあやかって付けられた)
また、ソウル五輪では、野茂英雄、潮崎哲也、石井丈裕、渡辺智男、古田敦也、野村謙二郎、小川博文、中島輝士、笘篠賢治など、
後にプロ入りを果たす豪華メンバーで、野球の日本代表は戦いに臨んだが、決勝でアメリカに3-5で敗れ、銀メダルに終わった。
そして、ソウル五輪では、陸上男子100mで、ベン・ジョンソンがカール・ルイスを破り、金メダルを獲得したが、
後日、ドーピングにより、ベン・ジョンソンの金メダルは剥奪され、世界に衝撃を与えた。
また、女子の100m、200m、400mで金メダルを獲り、三冠を達成したフローレンス・ジョイナーも、一躍、大スターとなった。
<光GENJI旋風と、「24時間戦えますか」>
1988年は、ジャニーズ事務所の光GENJIが、大旋風を巻き起こした。
ローラースケートで、颯爽と歌う7人組(内海光司、大沢樹生、諸星和己、佐藤寛之、山本淳一、赤坂晃、佐藤アツヒロ)は、
『ガラスの十代』、『パラダイス銀河』など、大ヒットを連発し、社会現象となった。
また、時任三郎が出演し、「24時間戦えますか」というフレーズが話題となったリゲインのCMは、
この時代のモーレツ・サラリーマンの働きぶりを象徴していると言えよう。
<東京ドームで、美空ひばりが「不死鳥コンサート」を開催>
この年に開場した東京ドームは、後楽園球場に引き続き、巨人と日本ハムが本拠地としたが、
様々なアーティストにより、沢山のコンサートが開かれるようになった。
3月に、ミック・ジャガーの来日コンサートや、BOØWYの解散コンサートが行なわれた後、
4/11に、闘病生活から復帰した美空ひばりが、「不死鳥コンサート」を開催した。
後に、美空ひばりは、とうていコンサートなど出来るような体調ではなかった事が明らかとなるが、
美空ひばりは、魂の込もった歌を歌い切り、多くの人々に感動を与えた。
<リクルート事件、青函トンネル、瀬戸大橋の開業>
この年は、「ロッキード事件」以来の政治とカネの大スキャンダル「リクルート事件」が世を騒がせる一方、
青函トンネルと瀬戸大橋が開業し、インフラの整備が更に進んだ。
日本は、まだまだ元気な時代であった。
(1989(平成元)年編につづく)