⬆️このお話の続き
次男からもらったシフォンケーキでのんびりティータイムを楽しんでいた。
なかなかおいしいシフォンケーキだったし、「おいしいなぁ」って思いながら食べていたそのとき,いきなり言葉が入ってきた。
「ちゃんと生きた。
ちゃんと終わる。
みくもちゃんと生きたし、
ちゃんと終わろうとしている」
クーちゃんが言った。
聴いた瞬間涙があふれた。
クーちゃんは続けて言った。
「みくは庭に出たり,拓人やママの布団で寝ることだったり‥ それですごく幸せなの。
今も幸せなんだよ。
かわいそうじゃない。
ちゃんと生きて,ちゃんと自分が決めた時までが生きるから,ママは悲しんでないで、元気で,いつものママでいて」
クーちゃんは、いつもよりかなりきっぱり言った。
夜、遅くに帰ってきた三男は相変わらず、「みくは大丈夫」と言ってたくさんみくをなでていた。
でも、「今度の日曜はみくと一日中一緒に過ごすことにした」と言っていた。
たくさん、かわいがってあげたいらしい。
三男はちっとも悲しい様子は見せない。
全くいつもと変わらないでいる。
ただ、よりたくさんみくと過ごそうとしているだけ。
みくといる時間を慈しんでいるが,それはいつものことなのだ。
変わらないってすごいことだ。
ふと思った。
皆んないつ死ぬか分からない。
そう言ってるわたしも明日死ぬかもしれないのだ。
ひすいこたろうさんの本に、
「あした死ぬかもよ?」っていうのがある。
つまり,いつ突然の別れが来るか皆んな分からないのだ。
たまたま余命宣告されると,後,このくらいなのか‥っていうめやすになるだけ‥
クーちゃんの言うように,いつもの日常を幸せに過ごす、それが1ヶ月後に終わるのか、10年後に終わるのか分からない。
その一日一日を慈しむことは,1ヶ月後に終わろうとも10年後に終わろうとも同じなのだ。
若くして、天にいった人のことを「かわいそう」と、言うことがあると思うが,本人からしたら、「かわいそう」って思われることは嫌みたいだ。
自分の人生を充分に生きて満足しているのに同情されることは心地悪い。
さて,
本日のみくは朝日を浴びて草を喰み、わたしの布団の上で丸くなって眠っていた。
近くに寄ったら、「ゴロゴロ」言ってる。
間違いなく、みくは今日も幸せ💕