安部公房『友達 棒になった男』 | ホーストダンスのブログ

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安部公房の『友達 棒になった男』を読みました。

先日読んだ三島由紀夫作品に続いて、安部公房による戯曲です。安部公房の作品はいくつか読みましたが、戯曲という形式を読むのは初めてです。


この本には表題の2作品を含め3作品が収録されています。

『友達』は安部公房の戯曲の中では代表作とされ、傑作との評価が多くあります。

一人暮らしの独身の若い男のアパートに、ある日突然、大人数の家族が押しかけて共同生活を始めようとする、という舞台設定で、読み始めのうちはかなり荒唐無稽な話だな、という印象を持ってしまうのですが、その大人数の家族たちが笑ってしまうほど本当に厚かましく、いわゆる「友達ヅラ」して居座ろうとするので、読者は知らず知らずのうちに舞台に引き込まれてしまいます。

最初のうちは大家さんや警察官を頼んで追い払おうとしていた若い男もやがて大家族のペースに飲み込まれてしまうようになります。そして彼の婚約者やその兄までが大家族に言いくるめられてしまうようになり、若い男は精神に異状をきたすようになってしまいます。

最後、若い男が衰弱死のような形で死んでしまうと、その大家族たちは彼を弔った後、次なる「餌食」を求めるかのように再び放浪の旅に出ます。


『棒になった男』は三部作から構成されています。

第一部の『鞄』は結婚したばかりの若い女が、女友達に、変な音が聞こえてくる夫の鞄を開けて中身を確かめてほしいと頼むというストーリーです。夫によると鞄の中には彼の「先祖」が入っているらしいのですが、頼まれた女友達は不気味な鞄を開けることなくその場を去っていき、その女も結局その鞄を開けることなく作品は終わります。

第二部の『時の崖』は落ち目のボクサーが若手のボクサーと対戦し、ダウンして敗れるまでの情景が、本人が自ら実況中継するような形で語られる作品です。

第三部の『棒になった男』はデパートの屋上から落ちてきた棒がフーテンのカップルのそばに転がる場面から始まります。そのフーテンは棒を探しに来た地獄からやってきた男女に千円でその棒を売り、棒を買い取った男はその棒の処置について地獄の本部に問い合わせた結果、処置は不要と判断され、棒はその場に放置されてしまいます。(その棒の正体は、デパートの屋上で息子と遊んでいた父親なのです)

このように非常に寓意的な三部作の戯曲で、作者が一体何を表現しようと考えていたのか、理解し難いというのが正直な感想ですが、多くの評論にあるように、現代社会における人間の孤独を描いている、と考えると、最初の収録作品『友達』と通じるものがあるのかもしれません。


3作品目の『榎本武揚』はだいぶ毛色の異なる作品で、幕末期、幕府派として箱館戦争を指揮し、投獄された後、出所して明治政府の中枢に上り詰めた榎本武揚を批判的に描いた戯曲です。

調べてみると、安部公房は長編小説としても『榎本武揚』を書いており、この戯曲は、小説に対して投げかけられた様々な賛否の声に応える形で作られたもののようです。

作品では榎本武揚はいわば「奸雄」として描かれており、「佐幕派」としての彼も実はうわべだけであり、新撰組も利用しただけであり、函館戦争については「八百長戦争」とまで言い切っており、その後の明治政府内での出世も、自身の能力によるものとはいえ、結局は日和見主義の変節漢だからこそなしえた事だった、と断定されるなど、かなり酷い人物として描かれています。

作品中、新撰組の土方歳三の下にいた浅井十三郎という人物が登場し、彼が榎本武揚の節操のない変節漢ぶりを厳しく責め立てるのですが、彼は純粋ではあるもののやや時代錯誤的で単細胞な男としてえがかれています。

作品の見どころはこの両者の掛け合いにあると思うのですが、作者が榎本武揚の実利主義的な行動と浅井十三郎の忠義を貫き通す生き方のどちらに共感していたのか、あるいはどちらを読者(観劇者)に訴えかけようとしていたのかはよくわかりません。もしかすると両者を対立した形で表現すること自体に狙いがあったのかもしれません。


いずれにしても、これらの作品を読み終えた後、読者はそれをどう消化したらよいのか、宿題が与えられたような状態にになることでしょう。

何度か作品を読み返すことで消化するのか、あるいは作品に対する様々な批評などを通じてそれぞれの読者なりの評価を作り上げていくのか、取るべき途はいろいろありそうですが、一読しただけでは腹の中に残ったモヤモヤ感を消し去ることのできない、独特の味わいを持った作品群でした。