良いいちじくは非常に良く、悪いのは非常に悪く、悪くて食べられないものです。
前回は、「エレミヤ書 21〜22章」を紹介しました。 今回は、「エレミヤ書 23〜24章」を紹介したいと思います。その前に、まず「私の祈り」から入りたいと思います。そして、「私の祈り」の中に、紹介したい聖書の章に出てくる「5つのキーワード」(マーカーで印)を含ませておきます。聖書の紹介は、穴埋め問題形式にしますので、正解となる言葉を知りたい時は、「私の祈り」に出てくる「5つのキーワード」の中から探しだしてください。最初にお祈りの言葉を唱えてから、その後で聖書を読んでいくというスタイルは、これまでと一緒ですので、お付き合いの程よろしくお願いします。では、今からお祈りします。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・聖なる神さま。今日もこうして神さまにお祈りし、朝を迎えることができることに感謝します。そして、RAPTさんの「御言葉」から神霊な波長を受けて、神さまの御心に立ち返る機会を与えていただき、本当にありがとうございます。今回紹介する預言詩の中で、私が興味を引いたのは次の行です。(24章3〜10節)ーーーそのとき、主が私に、「エレミヤ。あなたは何を見ているのか」と言われたので、私は言った。「いちじくです。良いいちじくは非常に良く、悪いのは非常に悪く、悪くて食べられないものです。」すると、私に次のような主のことばがあった。「イスラエルの神、主は、こう仰せられる。この良いいちじくのように、わたしは、この所からカルデヤ人の地に送ったユダの捕囚の民を良いものにしようと思う。わたしは、良くするために彼らに目をかけて、彼らをこの国に帰らせ、彼らを建て直し、倒れないように植えて、もう引き抜かない。また、わたしは彼らに、わたしが主であることを知る心を与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心を尽くしてわたしに立ち返るからである。しかし、悪くて食べられないあの悪いいちじくのように、―まことに主はこう仰せられる―わたしは、ユダの王ゼデキヤと、そのつかさたち、エルサレムの残りの者と、この国に残されている者、およびエジプトの国にすみついている者とを、このようにする。わたしは彼らを地のすべての王国のおののき、悩みとし、また、わたしが追い散らすすべての所で、そしり、物笑いの種、なぶりもの、のろいとする。わたしは彼らのうちに、剣と、ききんと、疫病を送り、彼らとその先祖に与えた地から彼らを滅ぼし尽くす。ーーーーーーーーーーーーーこの行の中で、前回紹介した21章の冒頭に出て来たユダの王ゼデキヤが、また登場します。このゼデキヤとは、どのような王であったのでしょうか?(ここより転載)**********■ユダ王国の滅亡 ユダ王国第20代国王(在位、前597~587年)。王国の滅亡に直面した最も不幸な王。前王ヨヤキンのおじ。 第1回バビロン捕囚直後に、バビロニア王ネブカドネツァルによって王位に就けられた。 バビロニアはユダの領地の多くを奪い取り、間接的に王国を統治したので、ゼデキヤ王はほとんどあやつり人形のような王だった。 ネブカドネツァルによって王となったので、ゼデキヤもバビロニアのいうことに従った。 しかし、前589年になると、ゼデキヤはエジプトを後ろだてとした周辺諸国の誘いに乗って、バビロニアに反旗を翻した。 バビロニア軍はすぐにも攻めて来ると、エルサレムを包囲し、前587年にはついにエルサレムを徹底的に破壊した。 ゼデキヤは捕らえられてネブカドネツァルの前に連行され、目の前で王子たちを殺された上に、彼自身も両目をえぐられ、青銅の足かせをはめられてバビロンに連行された。 これによって、ユダ王国は滅亡し、ユダはバビロニアの属州となり、以降70年間にわたるバビロン捕囚の時代が始まったのである。**********(転載ここまで)このように、ネブカドネツァルのあやつり人形だったゼデキヤが、エジプトを後ろ盾にして反旗を翻したがためにバビロンに連行され、目の前で王子たちを殺された上に、彼自身も両目をえぐられるという悲惨な末路をたどったということです。要するに、神様に立ち返る事をせず、サタンを崇拝する側に与したがために、天罰が降ったということでしょう。そしてゼデキヤような背信の徒を指して、「悪いいちじく」という表現でエレミヤは喩えています。そこで、気になるのは「いちじく」です。聖書では、様々な場面で「いちじく」が登場します。そもそも「いちじく」とは、聖書においてどのような位置づけにあるものなのでしょうか?(ここより転載)**********イチジクは「羞恥」の象徴?エデンの園の甘美な果実ジョヴァンナ・ガルツォーニ《China Bowl with Figs, a Bird, and Cherries》、1651年~1662年頃、羊皮紙に水彩、26×38cm、イタリア、フィレンツェ・パラティーナ美術館蔵Giovanna Garzoni [Public domain], via Wikimedia Commonsイタリア南部で、レモンの木とともに多く見られるのがイチジクの木です。庭に植えられているだけではなく、道端や畑の隅にも自然に生えるがまま、イチジクの木が葉を茂らせていることもしばしば。枝を広げて大きく成長するイチジク、夏には人々にほっと涼める木陰を提供しています。収穫の時期が長いのも特徴で、6月ごろから9月まで夏の味覚として愛されています。生活に寄り添い親しまれてきたイチジクは、絵画作品にもよく登場します。例えば、宗教画を数多く残したヤコポ・リゴッツィ(Jacopo Ligozzi)。博物学者ウリッセ・アルドロヴァンディ(Ulisse Aldrovandi)の影響で、イチジクを含む自然の事物もたくさん描きました。さてこのイチジク、「羞恥」の象徴として描かれることも。一体なぜでしょうか。アダムとイブの裸を隠したイチジクの葉作者不詳《Codex Aemilianensis》、994年、スペイン、ミニアチュール、エル・エスコリアル修道院蔵By Anonymous [Public domain], via Wikimedia Commons創世記の中で、蛇にそそのかされて「禁断の果実」を食べたアダムとイブが、自分たちの「裸」を恥ずかしく思うようになる。そんなシーンをご存知の方も多いでしょう。その後、エデンの園と呼ばれる楽園を追放されるアダムとイブですが、裸を恥じてその身を覆ったのが「イチジクの葉」。地中海世界のイチジクは大木が多く、それに応じて日本で見かけるイチジクに比べて葉も非常に大きくなります。このエピソードがきっかけで、イチジクは「羞恥」のシンボルとなっていきました。「禁断の果実」はリンゴではなくイチジク?ミケランジェロ・ブオナローティ《楽園追放》、1509年から1510年、フレスコ画、280×570cm、バチカン、システィーナ礼拝堂天井画Michelangelo [Public domain], via Wikimedia Commons創世記に登場する「禁断の果実」と聞いて、どんな果物が頭に浮かぶでしょうか。たいていは、「リンゴ」が頭に浮かびます。じつは、聖書の中では「リンゴ」とは明記されていません。そのため、地中海の人々は、アダムとイブが口にしたのも「イチジクの実」と考えていたようです。恥じて裸身を覆った葉がイチジクであったのですから、食べたのもその実と思っても不思議ではありません。もちろん、リンゴの木が身近にあるドイツやイギリスの画家たちは、エデンの園にリンゴの実を描いています。しかし、地中海世界の人々にとってはより近しい存在であるイチジクが、「禁断の果実」にふさわしい甘美な果物だと思っていたのでしょう。地中海式食事法には欠かせなかったイチジク古代ギリシアの人々は、甘い食材としてイチジクとハチミツをことのほか愛していました。パン、ワイン、ブドウ、豆類、オリーブオイルとともに、イチジクも古代から地中海の食卓の中心にあったのです。古代ローマの逸話の中には、政治家が演説を行う際に聴衆を説得するためにイチジクを用いたというものまであります。エデンの園にある果物であったことから、「原罪」のシンボルとしてイチジクはよく登場します。ざらざらとした皮の下には柔らかく乳のような豊かな果実を隠しているため、神学者によっては「キリスト教そのもの」と表現した人もいます。さらに、その豊かな甘さは、17世紀以降に流行した静物画でも大活躍。ジョヴァンニ・ガルツォーニをはじめ、メディチ家の屋敷を飾るため、バルトロメーオ・ビンビもイチジクの作品を残しています。とにかく豊かに実をつけるイチジクは、豊饒のシンボルとしても人々に愛されていたのです。宗教画に描かれたイチジク創世記だけではなく、旧約聖書のイザヤ書にも「イチジクで作った塗り薬」で傷を癒すという記述があります。聖書にたびたび登場するためか、イチジクは実だけではなく樹木も宗教画に描かれています。例えばアンドレア・マンテーニャ(Andrea Mantegna, 1431~1506)が描いた《聖セバスティアヌスの殉教》。柱に縛り付けられ矢で射られた聖セバスティアヌスの足元にイチジクの木が。兵士の守護成人として知られる聖セバスティアヌスはペストからも守ってくれると信じられ、中世に人気を博しました。以降もたびたび絵画をはじめとする芸術作品に登場しています。ちなみに三島由紀夫が聖セバスティアヌスに扮した写真を篠山紀信が撮影しています。アンドレア・マンテーニャ《聖セバスティアヌスの殉教》(1480年頃、テンペラ画、255×140cm、フランス、ルーヴル美術館所蔵) Andrea Mantegna [Public domain], via Wikimedia Commonsまたジョヴァンニ・ベッリーニ(Giovanni Bellini, 1430~1516)が茨の冠をかぶせられたキリストを描いた《Christ crowned with Thorns》には、キリストの後方に細いイチジクの木が描かれています。ジョヴァンニ・ベッリーニ《Christ crowned with Thorns》(1515年、カンヴァスに油彩、103×64cm、スウェーデン国立美術館蔵) Giovanni Bellini [Public domain], via Wikimedia Commons**********(転載ここまで)このように、「禁断の果実」は林檎ではなくて実は「いちじく」であったとのこと。そして、エデンの園から追放されたアダムとイブが、裸を恥じてその身を覆ったのが「イチジクの葉」であったことから、イチジクは「羞恥」のシンボル、あるいは「原罪」のシンボルとなったというわけです。また一方で、「いちじく」は「癒し」のシンボルあるいは「復活」のシンボルとして扱われている場面があり、「イチジクで作った塗り薬」で傷を癒すというイザヤ書の記述がその一例だということです。いずれにせよ、エレミヤが喩えているように、「いちじく」には良いものと悪いものがあるということです。良いいちじくは、正しい信仰を表しており、神様の御元で「復活」することができます。方や悪いいちじくは、間違った信仰を表しており、「原罪」を抱えたまま神様から見放され、朽ち果てて行くということです。新約聖書の中にも、イエス様がいちじくの木を枯らしてしまうシーンがありますが、これもいちじくを喩えにして、正しい信仰と間違った信仰について語っておられるのです。(マタイによる福音書21章18〜22節)ーーー翌朝、イエスは都に帰る途中、空腹を覚えられた。道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。弟子たちは、これを見て、驚いて言った。「どうして、こうすぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか。」イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになります。あなたがた信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー嗚呼神様。この私は「良いいちじく」でしょうか?それとも「悪いいちじく」でしょうか?どうか神様、この私をお救いください。「良いいちじく」として導いてください。RAPTさんの「御言葉」によれば、「これからの時代は、神様と義人がこの地を統治する。」と宣布されています。つまり、聖なる世界を求める者が栄え、悪なる者は滅びて行くしかないということです。霊肉魂ともに清らかで平安を保ち、神様と永遠に繋がった状態が聖なる世界です。希望と喜びで心が満たされ、真の幸福が得られる世界です。どうか神様。そのような世界が、一刻も早く到来しますよう心から願います。そして、これまで支配していた悪人たちの醜態や愚行が露わになり、多くの人々が真実に目覚め、神様の道へと導かれますように心から祈ります。どうか神様。この私を神様の器として使ってください。良いいちじくの実がなるように、導き育ててください。この世の中が神様の御心に叶った世界になりますよう、多くの兄弟姉妹が良いいちじくとなり、神様の栄光を現す者となれますよう心から祈ります。私たち一人ひとりが神様と深く疎通し、啓示が受けることができますように心から願います。そして、どうか神様。中心者RAPTさんをお守りください。RAPTさんの活動を妨害する工作員や集団ストーカーたちを裁いてください。中国マフィアである李家、創価学会、群馬人脈、イルミナティ・サタンを滅ぼしてください。そして、十二弟子の皆さんや全国の兄弟姉妹たちが天に富を積み、豊かな聖霊で満たされ、多くの人々を救うことのできる者となれますよう心から祈ります。これら全てのことに感謝して、愛する主の御名によって祈ります。アーメン ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・それでは次に、「エレミヤ書」に移りましょう。23〜24章を紹介します。(旧約聖書〈新改訳〉より抜粋)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・エレミヤ書 23章1 「ああ。わたしの牧場の群れを滅ぼし散らす牧者たち。―主の御告げ―」2 それゆえ、イスラエルの神、主は、この民を牧する牧者たちについて、こう仰せられる。「あなたがたは、わたしの群れを散らし、これを追い散らして顧みなかった。見よ。わたしは、あなたがたの悪い行いを罰する。―主の御告げ―3 しかし、わたしは、わたしの群れの残りの者を、わたしが追い散らしたすべての国から集め、もとの牧場に帰らせる。彼らは多くの子を生んでふえよう。4 わたしは彼らの上に牧者たちを立て、彼らを牧させる。彼らは二度と恐れることなく、おののくことなく、失われることもない。―主の御告げ―5 見よ。その日が来る。―主の御告げ―その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行う。6 その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。その王の名は、『主は私たちの正義』と呼ばれよう。7 それゆえ、見よ、このような日が来る。―主の御告げ―その日には、彼らは、『イスラエルの子らをエジプトの国から上らせた主は生きておられる』とはもう言わないで、8 『イスラエルの家のすえを北の国や、彼らの散らされたすべての地方から上らせた主は生きておられる』と言って、自分たちの土地に住むようになる。」9 預言者たちに対して―私の心は、うちに砕かれ、私の骨はみな震える。私は酔いどれのようだ。ぶどう酒に負けた男のようになった。主と、主の ことばのために。10 国は姦通する者で満ちているからだ。地はのろわれて喪に服し、荒野の牧草地は乾ききる。彼らの走る道は で、正しくないものをその力とする。11 実に、預言者も祭司も汚れている。わたしの家の中にも、わたしは彼らの悪を見いだした。―主の御告げ―12 それゆえ、彼らの道は、暗やみの中のすべりやすい所のようになり、彼らは追い散らされて、そこに倒れる。わたしが彼らにわざわいをもたらし、刑罰の年をもたらすからだ。―主の御告げ―13 サマリヤの預言者たちの中に、みだらな事をわたしは見た。彼らはバアルによって預言し、わたしの民イスラエルを惑わした。14 エルサレムの預言者たちの中にも、恐ろしい事をわたしは見た。彼らは姦通し、うそをついて歩き、悪を行う者どもの手を強くして、その悪からだれをも戻らせない。彼らはみな、わたしには、ソドムのようであり、その住民はゴモラのようである。15 それゆえ、万軍の主は、預言者たちについて、こう仰せられる。「見よ。わたしは彼らに、苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる。汚れがエルサレムの預言者たちから出て、この全土に広がったからだ。」16 万軍の主はこう仰せられる。「あなたがたに預言する預言者たちのことばを聞くな。彼らはあなたがたをむなしいものにしようとしている。主の口からではなく、自分の心の幻を語っている。17 彼らは、わたしを侮る者に向かって、『主はあなたがたに があると告げられた』としきりに言っており、また、かたくなな心のままに歩むすべての者に向かって、『あなたがたにはわざわいが来ない』と言っている。」18 いったいだれが、主の会議に連なり、主のことばを見聞きしたか。だれが、耳を傾けて主のことばを聞いたか。19 見よ。主の暴風、―憤り―うずを巻く暴風が起こり、悪者の頭上をうずが巻く。20 主の怒りは、御心の思うところを行って、成し遂げるまで去ることがない。終わりの日に、あなたがたはそれを明らかに悟ろう。21 わたしはこのような預言者たちを遣わさなかったのに、彼らは走り続け、わたしは彼らに語らなかったのに、彼らは預言している。22 もし彼らがわたしの会議に連なったのなら、彼らはわたしの民にわたしのことばを聞かせ、民をその悪の道から、その悪い行いから立ち返らせたであろうに。23 わたしは近くにいれば、神なのか。―主の御告げ―遠くにいれば、神ではないのか。24 人が隠れた所に身を隠したら、わたしは彼を見ることができないのか。―主の御告げ―天にも地にも、わたしは満ちているではないか。―主の御告げ―25 「わたしの名によって偽りを預言する預言者たちが、『私は夢を見た。夢を見た』と言ったのを、わたしは聞いた。26 いつまで偽りの預言が、あの預言者たちの心にあるのだろうか。いつまで欺きの預言が、彼らの心にあるのだろうか。27 彼らの先祖がバアルのためにわたしの名を忘れたように、彼らはおのおの自分たちの夢を述べ、わたしの民にわたしの名を忘れさせようと、たくらんでいるのだろうか。28 夢を見る預言者は夢を述べるがよい。しかし、わたしのことばを聞く者は、わたしのことばを忠実に語らなければならない。麦はわらと何のかかわりがあろうか。―主の御告げ―29 わたしのことばは火のようではないか。また、岩を砕く金槌のようではないか。―主の御告げ―30 それゆえ、見よ、―主の御告げ―わたしは、おのおのわたしのことばを盗む預言者たちの敵となる。31 見よ。―主の御告げ―わたしは、自分たちの舌を使って御告げを告げる預言者たちの敵となる。32 見よ。わたしは偽りの夢を預言する者たちの敵となる。―主の御告げ―彼らは、偽りと自慢話をわたしの民に述べて惑わしている。わたしは彼らを遣わさず、彼らに命じもしなかった。彼らはこの民にとって、何の役にも立ちはしない。―主の御告げ―33 この民、あるいは預言者、あるいは祭司が、『主の宣告とは何か』とあなたに尋ねたら、あなたは彼らに、『あなたがたが重荷だ。だから、わたしはあなたがたを捨てる』と言え。―主の御告げ―34 預言者でも、祭司でも、民でも、『主の宣告』と言う者があれば、その者とその家とを、わたしは罰する。」35 あなたがたは互いに「主は何と答えられたか。主は何と語られたか」と言うがよい。36 しかし「主の宣告」ということを二度と述べてはならない。主のことばが人の重荷となり、あなたがたが、生ける神、万軍の主、私たちの神のことばを曲げるからだ。37 「あの預言者たちにこう言え。主は何と答えられたか。主は何と語られたか。38 もし、あなたがたが『主の宣告』と言うなら、それに対して、主はこう仰せられる。『わたしはあなたがたに、主の宣告、と言うなと言い送ったのに、あなたがたは主の宣告ということばを語っている。39 それゆえ、見よ、わたしはあなたがたを全く忘れ、あなたがたと、あなたがたや先祖たちに与えたこの町とを、わたしの前から捨て、40 のそしり、忘れられることのない、永遠の侮辱をあなたがたに与える。』」エレミヤ書 24章1 バビロンの王ネブカデレザルが、エホヤキムの子、ユダの王エコヌヤとユダのつかさたちや、職人や、鍛冶屋をエルサレムから捕らえ移し、バビロンに連れて行って後、主は私に示された。見ると、主の宮の前に、二かごのいちじくが置かれている。2 一つのかごのは非常に良いいちじくで、初なりのいちじくの実のようであり、もう一つのかごのは非常に悪いいちじくで、悪くて食べられないものである。3 そのとき、主が私に、「エレミヤ。あなたは何を見ているのか」と言われたので、私は言った。「いちじくです。良いいちじくは非常に良く、悪いのは非常に悪く、悪くて食べられないものです。」4 すると、私に次のような主のことばがあった。5 「イスラエルの神、主は、こう仰せられる。この良いいちじくのように、わたしは、この所からカルデヤ人の地に送ったユダの捕囚の民を良いものにしようと思う。6 わたしは、良くするために彼らに目をかけて、彼らをこの国に帰らせ、彼らを建て直し、倒れないように植えて、もう引き抜かない。7 また、わたしは彼らに、わたしが主であることを知る心を与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが を尽くしてわたしに立ち返るからである。8 しかし、悪くて食べられないあの悪いいちじくのように、―まことに主はこう仰せられる―わたしは、ユダの王ゼデキヤと、そのつかさたち、エルサレムの残りの者と、この国に残されている者、およびエジプトの国にすみついている者とを、このようにする。9 わたしは彼らを地のすべての王国のおののき、悩みとし、また、わたしが追い散らすすべての所で、そしり、物笑いの種、なぶりもの、のろいとする。10 わたしは彼らのうちに、剣と、ききんと、疫病を送り、彼らとその先祖に与えた地から彼らを滅ぼし尽くす。」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(エレミヤ書 23章〜24章より)今日は、ここまで。(2021.10.31)