今回は、「コリントの信徒への手紙一6章」の内容について考察したいと思います。

 

但し、充分慎重に考察する必要があることを肝に銘じたいと思います。

 

もし非真理を伝えてしまった時に、神様がお怒りになるのは勿論のこと、RAPTさんや十二弟子の皆さん及び兄弟姉妹の皆さんに、多大な迷惑をおかけすることになります。

 

ここは慎重に、自分の文章を何度も読み直して、できる限り非真理が混じることのないように努めていこうと思います。

 

どうか神様、このブログを書き進める中で、少しでも非真理が入り込んでしまった時は、すぐに気づくことができるように導いてください。

 

もし、非真理が混ざり込んでいたことに気がついた場合には、悔い改めてすぐに訂正します。

 

どうか私の霊魂を真理で充満させて、神様の御心に適った文章が書けるよう導いてください。

 

神様の恵みと正しい導きがあることを信じて、ここから本題に入って行きたいと思います。

 

前回、このブログで「コリントの信徒への手紙一6章」の本文を掲載しましたので、その本文を傍らに置きながら皆様も、お付き合いの程よろしくお願いします。

 

「コリントの信徒への手紙一6章」では、二つのテーマで書かれています。

 

一つ目は信仰のない人々に訴え出てはならない」、二つ目は聖霊の住まいである体」です。

 

以前紹介した「コリントの信徒への手紙一5章」において、パウロは教会内の問題は教会内の人間によって裁くべきであると主張しておりましたが、この6章においても、同じことを別の角度から述べています。

 

まず彼は、教会内で争い事が起こった時、絶対に信仰のない人々に訴え出てはならない」と警告するのです。

 

(6章1〜6節)・・・

1あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起こしたとき、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです。 

2あなたがたは知らないのですか。

聖なる者たちが世を裁くのです。

世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたにはささいな事件すら裁く力がないのですか。 

3わたしたちが天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか。

まして、日常の生活にかかわる事は言うまでもありません。 

4それなのに、あなたがたは、日常の生活にかかわる争いが起きると、教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせるのですか。 

5あなたがたを恥じ入らせるために、わたしは言っています。

あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか。 

6兄弟が兄弟を訴えるのですか。

しかも信仰のない人々の前で。 

・・・・・・・・・・

 

ここで注目すべきは、(6章2〜3節)です。

 

あなたがたは知らないのですか。

聖なる者たちが世を裁くのです。

世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたにはささいな事件すら裁く力がないのですか。 

わたしたちが天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか。

まして、日常の生活にかかわる事は言うまでもありません。(6章2〜3節)

 

ここでパウロは、「聖なる者たちが世を裁く」と主張しています。

 

私は、以前このブログで「人が人を裁くのは罪である」と述べましたが、それは霊的に成長できていない人に対する警告であって、逆に、神様と愛の関係で結ばれた高次元の霊を獲得した人は、それに該当しないということを改めて押さえておく必要があります。

 

神様が望まれる判定を知ることができるのであれば、人は、その神託に従って行動すれば義とされます。

 

つまり、神様が何を望んでおられ何を嫌悪されているか、神様の心情を理解でき、かつ自身も全身全霊で御心に従うことのできる程の霊的成長を遂げた者であれば、場合によっては人を裁くことも許諾されるのです。

 

そして、以前私は「5章」の考察の中で、「外部の人々(世の人々)」を裁くのは神様の管轄であって人の預かる所ではないが、「内部の人々(教会内の人々)」なら、むしろ教会内にいる人間によって裁くべきだと述べました。

 

しかし、この言い方だと、「外部の人々(世の人々)」の裁きについては、人は一切関わるなという風に受け止められてしまう可能性があることに気付いたのです。

 

上記(6章2〜3節)で示されているように、聖なる者たちが世を裁くのです。

 

「聖なる者たち」とは神様が何を望んでおられ何を嫌悪されているか、神様の心情を理解でき、かつ自身も全身全霊で御心に従うことのできる程の霊的成長を遂げた人たちのことです。

 

すなわち「聖なる者たち」は、神様と愛の交感ができる人たちです。

 

そのような人たちは、神様の心情を汲み取りつつ、同時に自分の願いも神様に祈り求めることができる人ですから、仮に裁いて欲しい対象が現れた時、「聖なる者たち」が祈れば、その願いを神様は聞き入れて裁いてくださるのです。

 

だから私は、「人が人を裁くこと」について、下記のように言い換えたいと思います。

 

神様と愛の交感ができない人が人を裁くことは慎むべきだが、愛の交感ができる「聖なる者たち」は、相手が「外部の人々(世の人々)」であろうと「内部の人々(教会内の人々)」であろうと、御心に反した悪に対して、神様の了承の元、裁きを下す権限が与えられるということです。

 

そして、神様を信仰する私たち一人一人は、神様に願いが届くように「聖なる者」となり、祈りの力によってこの世の悪を消滅させる使命を果たしていかねばならないのです。

 

なので、仮に自分が「聖なる者たち」によって裁かれたのであれば、素直に受け止めなければなりません。

 

何故なら、「聖なる者たち」は神様によって遣わされた使命者だからです。

 

己の不義によって「聖なる者たち」から裁かれ、社会的地位や名誉が奪われることになっても、それに甘んじるしかないのです。

 

心の底から悔い改めて、神様に赦しを請うしかないのです。

 

ところが、コリントの信徒の中には、それとは真逆の方向に進み、己の非を素直に認めようとせず、保身に走り、裁判沙汰になるまで問題をこじらせたのです。

 

本来なら、「聖なる者たち」の忠告を素直に受け入れるべきところを、あろうことか、信仰心のない「教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせる」という愚を犯したのです。

 

それを知ったパウロは、内心穏やかではなかったことでしょう。

 

だから、パウロは下記のように彼らを強烈に批判したのです。

 

(6章7〜12節)・・・

7そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。

なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。

なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。 

8それどころか、あなたがたは不義を行い、奪い取っています。

しかも、兄弟たちに対してそういうことをしている。

9正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。

思い違いをしてはいけない。

みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、10泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。 

11あなたがたの中にはそのような者もいました。

しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。

12「わたしには、すべてのことが許されている。」

しかし、すべてのことが益になるわけではない。

「わたしには、すべてのことが許されている。」

しかし、わたしは何事にも支配されはしない。 

・・・・・・・・・・・

 

ここでパウロは、「正しくない者が神の国を受け継げない」ことを述べる一方、せっかく主イエス・キリストの十字架によって救われたのだから、その恩恵を忘れることなく「聖なる者」となるように促します。

 

そして、聖霊の住まいである体」について下記のように言及するのです。

 

(6章13〜20節)・・・

13食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます。

体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。 

14神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。 

15あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。

キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。 

16娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。

「二人は一体となる」と言われています。 

17しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。 

18みだらな行いを避けなさい。

人が犯す罪はすべて体の外にあります。

しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。 

19知らないのですか。

あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。 

20あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。

だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。

・・・・・・・・・・・・

 

上記のように、私たちの体は「神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿」と成らなければなりません。

 

自分の中のサタン的な要素を全て排除して、神様と愛の交感ができる器となることが、人間の本来あるべき形なのです。

 

ここで、RAPTさんの「御言葉」を紹介させていただきます。

 

○RAPT有料記事804(2023年1月8日)愛は愛とだけ波長が噛み合うので、愛のない人は神様の愛を感じることができない。(天国は常に愛の交感が成される世界だ。)

 

 

この「御言葉」の冒頭部分だけを転載させていただきます。

 

ここから転載)**********

 

神様は2022年9月の段階で、この日本に対する裁きを宣布されましたが、それ以降、日本の経済は衰退し、今年に入ってからも未曾有の災難が次々と日本各地を襲っています。
 
それでも人々は、相変わらず神様に立ち返ろうとせず、未だに政府が救済してくれるのを今か今かと待ちつづけて、それでも何ら救済してくれない政府にブツブツと文句を言っています。
 
そんな中にあっても、神様は私たち人類に愛で働きかけ、神様を愛する者には祝福と恵みを与え、私たち人間と愛を成そうと強力に働きかけてくださっています。
 
そして、真に心に愛のある者は、神様の愛とも波長が噛み合うので、その神様の愛を感じ、受け取ることができますし、実生活の中でも様々な恵みと祝福を受けて生きています。
 
しかし逆に、心の汚れた者、エゴや虚栄に満ちた者たちは、神様の愛の波長が噛み合わないので、かえって心に苦しみを覚え、実生活の中で様々な裁きを受けることはもちろん、それによって精神の崩壊が進んでいくと仰いました。
 
こうして神様は、悪人たちには霊的にも肉的にも裁きを下し、どんな状況の中でも苦しみの中で生きるしかないように導かれる一方、義人たちには神様と愛を成せるように導き、どんな状況の中でも幸福に生きられるようにしてくださっています。
 
この世の中には神様を信じない人、悪を行う人たちが余りにも多いので、神様の裁きばかりが進行しているかのように見えますが、その実、今や着々と、そして隠密に、人類は羊と山羊とに明確に分けられ、義人たちの上には救いと恵みと祝福の歴史が進んでいるのです。
 

 **********(転載ここまで)

 

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聖なる神様、ありがとうございます。


聖書とRAPTさんの「御言葉」のお陰で、神様を信仰する私たち一人一人は、神様に願いが届くように「聖なる者」となり、祈りの力によってこの世の悪を消滅させる使命を果たしていかねばならないことを悟りました。

 

そして、自分の中のサタン的な要素を全て排除して、神様と愛の交感ができる器となることが、人間の本来あるべき形であることを知りました。

 

どうかこの私を、真に心に愛のある者にしてください。

 

神様と愛の交感ができる器となることが、人間の本来あるべき形であることを実感させてください。

 

神様の愛と波長が噛み合い、その神様の愛を感じ、受け取ることができ、実生活の中でも様々な恵みと祝福を受けて生きられますことを心から祈ります。

 

この世が、無神論の世界から神様を信じる世界へと変わっていくことを心から願います。
 
神様を信じることが当たり前の世界に変わっていくことを心から願います。

 

私たち一人一人が常日頃から神様を呼んで、神様が常に共にしてくださる幸福な人生を生きることができますことを心から願います。

 

多くの人々が、RAPTさんこそが真の中心者であり、神に遣わされた人であることを心底悟れるようにしてください。


中心者の語る一言一言が宝だと思って学び、深く悟れるようにしてください。

 

全ての罪を悔い改めて「御言葉」に従って実践すれば、今この時代における神様の裁きに巻き込まれることなく、霊的にも肉的にも救われることを実感させてください。

 

RAPTさんの「御言葉」に出会った多くの人たちが、よこしまな心を取り除いて、一筋の心で神様を愛し、無限に真理を吸収して、サタンに完全に勝利し、この世の多くの人々を救う大使徒へと成長していきますことを心から祈ります。

 

RAPTさんが聖なる神様を体現し、私たちを導く希望の光となり、永遠に輝き続けられますことを心より祈ります。

 

そして一刻も早く、私たち一人一人の祈りの力によって、悪人とサタンをことごとく滅ぼし、この世に義なる世界を打ち立てて、地上天国が成されますことを心から祈ります。

 

これら全てのことに感謝して、愛する主の御名によって祈ります。

 

アーメン ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 

皆様に祝福がありますように。

 

(2024.1.12)