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HONMOKU JACK - Honky Tonk Gang.

ジャンルに拘らず 昔懐かしい音楽動画を貼り付けたりしたいと思います。

 墓石の裏側には、河島英五さんの手帳に書かれていた 
奥様へのメッセージが刻されています。
 


ふりかえると いくつもの幸せ


ふりかえると いくつかの哀しみ


いそがしさを いいわけにして


あなたとゆっくり話すこともなかったが


あなたがいてくれたから


がんばってこれたんだ


あなたを支えにして


あなたに ほめられたくて・・・・


                    英五


英五 1952.4.23 〜 2001.4.16


〇 河島 英五
河島 英五(かわしま えいご、1952年(昭和27年)4月23日 - 2001年(平成13年)4月16日)は、日本シンガーソングライター俳優大阪府東大阪市出身。長女・河島あみるはタレント、長男・翔馬は歌手。次女・河島亜奈睦は音楽ユニット「アナム&マキ」メンバー。公称身長184cm[1]

人物
大阪府立花園高等学校卒。晩年は大阪府四條畷市に在住していた。


男の強さや哀しさ、優しさ、父親としての心情を唱いあげた数々の曲は、時代を越えて男性の共感を呼び、歌い継がれている。若いころにギターを持って世界を放浪し、庶民の暮らしに触れ、音楽を通して共に喜怒哀楽を共有し合った経験が、河島英五の音楽の礎を築いている。


内外のミュージシャンが驚くほどパワフルな音量と大声で唱いあげる姿、「男らしさ」にこだわった歌詞が特徴。

コンサート活動は、大都市だけでなく山間部や僻地でも行い、音楽を通じてファンと交流することに主眼を置いた。

来歴
・1969年、高校在学中にフォークソングを始める[1]。高校卒業後「ホモ・サピエンス」というグループで活動[1]。京都の自主レーベル京都レコードからデビュー。支離滅裂派フォークとしてあのねのねらと活動を共にした[1]。デビュー当時は、その風貌とボーカルスタイルから"吉田拓郎の再来"などと騒がれた[1][2]


・1973年、グループ解散後ソロ活動開始。


・1975年4月、メジャーデビュー[1]


・代表曲は「酒と泪と男と女」(作詞・作曲:河島英五、編曲:宮本光雄)。この歌は河島が19歳のとき、彼の叔父の姿を見て作曲したものである。萩原健一がカバーし、テレビの歌番組などで歌っていたが、同じ頃、河島の歌唱版が京都伏見清酒メーカー・黄桜酒造(現:黄桜)のCMソングとして使われるようになると全国的なヒットとなり、河島の名も全国的に知られるようになった。


  ・1981年3月に西城秀樹がカバー(アルバム『HIDEKI SONG BOOK』)。

  ・1988年10月にBOROがカバー(アルバム『LOVE & TEARS-BORO BEST SELECTION』)。

  ・2007年7月に柏原芳恵がカバー(アルバム『アンコール』)。

  ・2008年5月に大友康平がカバー(アルバム『J-STANDARD 70’S』)。

  ・2008年9月に藤田恵美がカバー(アルバム『ココロの食卓 〜おかえり愛しき詩たち〜』)。


・その他の代表曲は「野風増」(橋幸夫らとの競作)、「時代おくれ」、「生きてりゃいいさ」(加藤登紀子に書き下ろした楽曲で、のちに河島もシングル発売)など。「時代おくれ」は、現在も多くのおやじ世代にカラオケで歌われており、松本人志朝青龍山本浩二久保竜彦らも愛唱歌としている。また、“ランバダ”がダンスナンバーとして日本で流行する以前に『花の種』というアンデスを舞台にした哀調の日本語ナンバーに仕上げてレパートリーとしていた。


・1980年代、ケニアの首都ナイロビにある「グリーンバー」という酒場のジュークボックスには「酒と泪と男と女」のレコードがあり、日本人客が来ると現地の娼婦などがよくかけてくれた。当時、旅行者の間では、河島がグリーンバーに立ち寄った際、「俺は日本の歌手だ」と言っても誰も信じてくれなかったために自分のレコードを置いていった、という逸話がある。


・1980年代、NHKの番組「北陸東海」(中部7県で放送)の「英五のろまんちすと紀行」に旅人として出演、中部7県(愛知県岐阜県三重県静岡県富山県石川県福井県)各地を訪れた。なお、河島はこの番組のオリジナルテーマソングも歌っている。


・「時代おくれ」で、『第42回NHK紅白歌合戦』(1991年)の出場歌手として選出されるに至った。当日は第1部の白組トリで、ピアノを弾きながら歌われている。


阪神・淡路大震災の被災者を励ますために、友人の桂南光らと毎年神戸でチャリティコンサート「復興の詩」を開いていた。死去した年のコンサートでは、河島の3人の子供たちと桂南光が、遺作『旧友再会』を観客と共に歌った。


・長女・河島あみるの結婚式に参列後の2001年4月16日肝臓疾患のため急死した。48歳没。亡くなる2日前にライブに立ったのが最後の仕事だった。亡くなる前日に体調を悪くし、病院に運ばれるも既に手遅れの状態で家族に看取られ息を引き取った。


・告別式終了後の出棺の際、棺の上に遺影が置かれ、参列者から「英五」の連呼が起こった。自身のヒット曲「野風増」の歌詞には、息子が20歳になれば2人で酒を酌み交わしたいという内容があったが、河島本人は歌詞通りに息子・翔馬と杯を交わすことは叶わなかった。


・河島の墓は奈良市十輪院に建てられている。


・河島の忌日となった4月16日は『桜風忌』と呼ばれている。


 

河島英五とホモ・サピエンス
メンバー

・河島英五

・新井基浩

・木下景弘

・河島哲


1976年9月に解散

ディスコグラフィ
アルバム
・人類(1975年)

・運命(1976年)ここまで「河島英五とホモ・サピエンス」名義で発表

・信望(1977年)

・ライブてんびんばかり(1977年)(ホモ・サピエンスのメンバーが参加)

・仁醒(1978年)

・河島英五作品集(1979年)

・EIGO SPECIAL(1979年)

・ホモサピエンス門外不出(1979年)

・文明 I(1980年)

・文明 II(1980年)

・文明 III(1980年)

・トップシングルコレクション(1983年)

・河島英五 の世界(1984年)

・発汗(1985年)

・時代おくれ(1986年)

・ベスト・セレクション(1986年)

・ろまんちすと(1987年)

・河島英五1975-1986(1987年)

・「文明」ベスト&名作集(1987年)

・季節(1988年)

・河島英五 SCENE OF38(1989年)

・いくつかの場面(1991年)

・河島英五 アコースティックベストセレクション(1992年)

・ほろ酔いで(1993年)

・自選集(1993年)

・ボーカル&カラオケ・ベスト5(1994年)

・自選集II〜カヌーにのって(1995年)

・大全集Vol.1〜ホモサピエンス(1997年)

・大全集Vol.2〜酒と泪と男と女(1997年)

・全曲集’98(1997年)

・ベスト・コレクション(1997年)

・大全集Vol.3〜心から心へ(1998年)

・コレクション 酒と泪と男と女(キングCD文庫)(1999年)

・河島英五 ベスト撰集(2000年)

・河島英五 LASTLIVE〜今日は本当にありがとう(2001年)

・DREAM PRICE 1000 河島英五(2001年)

・酒と泪と男と女 メモリアル(2002年)

GOLDEN☆BEST 河島英五 SINGLES(2002年)

・河島英五 History 〜天夢〜(2003年)

・GOLDEN☆BEST 河島英五 ヒット全曲集(2009年)

・旧友再会〜ベスト オブ 河島英五〜(2011年)


詳しいことは、「河島英五ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E5%B3%B6%E8%8B%B1%E4%BA%94
(wikiより)

 

 

河島英五

 

 

 

 

 

前野 曜子(まえの ようこ、1948年昭和23年〉1月25日 - 1988年〈昭和63年〉7月31日)は、日本の歌手[1][2][3][4]ペドロ&カプリシャスの初代ヴォーカル。宝塚歌劇団在籍中の芸名は弓 千晶(ゆみ ちあき)、その後の初期芸名は西丘 有理(にしおか あり)。1980年前後の時期、俳優として劇場用映画テレビ映画に出演した[1][2][3][4]

人物・来歴

初めてのリサイタル(ヤクルトホール 1980年5月 )

1948年(昭和23年)1月25日、東京都中央区銀座に生まれる。

1963年(昭和38年)4月、川村高等学校に進学するも、満17歳になった1965年(昭和40年)、同校を中途退学し、宝塚音楽学校に進む。1967年(昭和42年)、第53期生として宝塚歌劇団へ入団、同年の星組公演『世界はひとつ』が初舞台公演の演目であった。同期は54名、室町あかね小松美保がおり、前野の当時の芸名は弓 千晶。1968年(昭和43年)10月30日付で同劇団を退団した。

宝塚時代に知り合った亀渕友香ディスコ赤坂ムゲン」で再会して上野義美がプロデュースしていたリッキー&960ポンドに参加、翌1969年(昭和44年)、「ワッハッハ」(CBSソニー)がヒットを記録する。この頃は西丘 有里と名乗る。1971年(昭和46年)、同グループと同じ事務所(小学館プロダクション)に所属するペドロ&カプリシャスにヴォーカルとして参加、同年10月発売の「別れの朝」が大ヒットを記録する。同作の原曲はウド・ユルゲンスの「夕映えのふたり」(ドイツ語Was ich dir sagen will, 1967年)である。

1972年(昭和47年)9月、「ペドロの前野曜子が倒れた」と報道される[5]。1973年(昭和48年)、ペドロ&カプリシャスを脱退し渡米、半年弱の滞在後帰国し、本村俊雄をリーダーとするバンド”マスカレード"にて歌手活動を再開後、1976年(昭和51年)に古巣のリッキー&960ポンドに復帰する。1977年(昭和52年)9月、リッキー&960ポンドとアルバム『ABRAZAME』を録音。「別れの朝」は3ヴァージョンが存在するが、このアルバムに収録されたものが最高の出来との評価もある[誰によって?]。同グループに3年間所属した後、再び脱退する。

1979年(昭和54年)に映画『蘇える金狼』の主題歌『蘇える金狼のテーマ』をリリース。このとき「あの前野曜子が6年ぶりにカムバック!!」と報道されたが[6]、カプリシャス脱退以降の経歴が考慮されていない。1980年(昭和55年)、映画『野獣死すべし』に出演。1980年代初期には自己のバンド"ASANTE-SANA"を組みリサイタルも行った。1982年(昭和57年)から始まったテレビアニメ『スペースコブラ』(フジテレビ)のテーマ曲を歌う。同時期、都内の病院に入院し闘病を開始したとされる[7]

次第にアルコール依存症等が深刻化し、1988年(昭和63年)7月31日、心不全で死去した[7]。満40歳没。訃報についてはリアルタイムに報道されることなく、3年後に『女性自身』1991年4月23日号が初めて報じた[7]

2015年(平成27年)4月18日 第1回のファンの集いが開かれた。

ディスコグラフィ

リッキー&960ポンド

シングル

アルバム

  • 『ABRAZAME(抱きしめて)』(1977年12月)- 2011年CD化。

ソロ

シングル

発売日 規格 規格品番 タイトル 作詞 作曲 編曲
ユニオンレコード
1970年9月5日 EP US-696 A 朝を待たずに[8] 山上路夫 鈴木邦彦 馬飼野俊一
B なくてもともと[8] 山上路夫 鈴木邦彦 馬飼野俊一
ワーナー・パイオニア/ATLANTIC
1973年9月25日 EP L-1155A A 夜はひとりぼっち 安井かずみ 都倉俊一 前田憲男
B センチメンタル・ヨーコ 水野礼子 森岡賢一郎
1974年4月25日 EP L-1906A A ゆうなぎ 山上路夫 都倉俊一 東海林修
B 誘惑
キャニオンレコード
1979年7月25日 EP C-146 A 蘇える金狼のテーマ[9] 浅野裕子 ケーシー・ランキン トッシュ
B 唇に微笑み心に拳銃[10] ケーシー・ランキン
日本コロムビア
1980年5月26日 EP AK62-AX A ユー・アー・ラヴ[11] なかにし礼 Teo Macero Edison Watanabe
B テイク・ア・チャンス 岡田冨美子 萩田光雄
1980年11月25日 EP AK727-AX A こんな時は[12] 岩谷時子 Krystyna Pronko 渡辺エジソン
B モーニング・ダンシング 庄野真代 庄野真代 渡辺エジソン
1981年4月20日 EP AH-50AA A ラブ・イズ・ミステリアス[13] Dweight Waldrom 林 哲司
B イフ・アイ・ハヴ・ゴー・アウェイ Marci Sutin 林 哲司
1981年7月20日 EP AH133-A A 星ふる夏 A.プガチェヴァ

訳)麻生ひろし

I.レスニック 山下正
B ジャスト・ライク・ユーアンドミー 竜真知子 渡辺敬之
1982年10月21日 EP AH148-A A コブラ[14] 冬杜花代子 大野雄二
B シークレット・デザイアー[15]

アルバム

  • 蘇える金狼・前野曜子』(1979年8月)- 2011年CD化。
  • 『HALF TIME』(1980年8月)- 2012年CD化。
  • 『一人で(アローン) 』(1981年12月、日本コロムビア、AF-7096-N)- 2012年CD化。
  • 『TWILIGHT』(1982年9月)- 2012年CD化。
  • 『YOKO MAENO memorial collection “BEST” -30th Anniversary-』(2018年7月)

フィルモグラフィ

特筆以外はいずれも「出演」である[1][2][3][4]

脚注

  1. a b c 前野曜子文化庁、2015年8月3日閲覧。
  2. a b c 前野曜子KINENOTE, 2015年8月3日閲覧。
  3. a b c 前野曜子日本映画データベース、2015年8月3日閲覧。
  4. a b c 前野曜子テレビドラマデータベース、2015年8月3日閲覧。
  5. ^ 週刊明星[1972], p.52-54.
  6. ^ 週刊平凡[1979], p.159.
  7. a b c 女性自身1991年4月23日号「「別れの朝」のペドロ&カプリシャス 前野曜子さん3年前に淋しき死! 」
  8. a b 西丘有里名義。
  9. ^ 映画『蘇える金狼』主題歌。
  10. ^ 映画『蘇える金狼』挿入歌。
  11. ^ 映画『復活の日』主題歌日本語版。
  12. ^ 第20回国際歌祭ソポト大衆賞。
  13. ^ 映画『スフィンクス』イメージソング。
  14. ^ TVアニメ『スペースコブラ』のオープニングテーマ。
  15. ^ TVアニメ『スペースコブラ』のエンディングテーマ。

参考文献

関連項目

外部リンク

 
⇧ 前野曜子
 
 

hide(ヒデ、本名:松本 秀人〈まつもと ひでと〉[1]1964年〈昭和39年〉12月13日[2][3] - 1998年〈平成10年〉5月2日)は、日本ミュージシャンギタリスト歌手プロデューサー[3]神奈川県横須賀市出身[2]。1987年から1997年までX JAPAN(旧名:X)のギタリストとしてHIDE名義で活動[2][3]。2007年のX JAPAN活動再開以降も正式メンバーとして在籍。1989年にアルバム『BLUE BLOOD』でXのメンバーとしてメジャーデビュー[2]。 愛称は「ヒデくん」、「ヒデちゃん」。身長170cm。体重54kg。血液型AB型


1993年より、hide名義でソロ活動も開始し[2]、1996年にはレコードレーベル「LEMONed」(レモネード)を設立[4]。1997年のX JAPAN解散後はhide with Spread Beaver及びzilchでの活動を開始するも、1998年5月2日に急逝[2][3][4]

人物

少年時代は肥満から来るコンプレックスのため、内気で大人しい子供であった。小学生のころ、太っている生徒は休み時間校庭を走らされるという罰があり、その中にhideも入っていた。この頃、深夜ラジオでロックに出会い、「ロックミュージシャンは痩せてなくては」と、ダイエットしたという。学習塾や習いごとに忙しく通っていた。祖父の「松本家から医者を出せ」という命令もあり、卒業文集では「医者になって見離された患者さんを助けてあげたい」と綴った。アメリカへの集団でのホームステイも経験している。そこにはホンジャマカ恵俊彰も参加していた。UNITEDの横山明裕とは幼馴染であり、互いにプロになって以降も交流があった。


中学時代、友人がきっかけでロックに興味を持ち、祖母ギブソンエレキギターを買ってもらいバンドを組むも、活動はしておらず、そのまま県内屈指の進学校の高校へと進学した。高校が「エレキ禁止」であったためにバンドを組めずにいたが、横須賀のどぶ板通りに通うようになり、そこで出会った友人らとX加入以前に活動していた唯一のバンド、「サーベルタイガー」を組んで活動する。


また、「おばあちゃん子」であったhideは美容院を営んでいた祖母からの影響を少なからず受けている。Xデビュー当初は祖母のサリーを借りてステージ衣装として使用したりしていた。若作りでお洒落な人物であったために、後のファッションなどの基盤となった。高校卒業後に、ハリウッドビューティ専門学校へと進み、卒業して実際に美容院で働いてもいた。「サーベルタイガー」を解散した時には、全ての音楽活動からは足を洗って美容師として生きていこうと決心し、いくつかのバンドから誘いがあったのをすべて断っていたが、結局はYOSHIKIの誘いでXに加入することになる。


インディーズバンドの発掘に力を入れ、エクスタシーレコードではバンドリサーチ担当としてLUNA SEAGLAYZI:KILL、DEEPを発掘し、また、自身でもレモネードレーベルを立ち上げZEPPET STOREVINYL、trees of lifeなどのバンドを発掘した。


テレビやゲームが好きであり好んで視聴したり遊んだりしていた。またコンピュータに強い興味を示しており、90年代前半には、すでにライブでパソコンを使ったギミックを披露していた。1995年には自身で製作したホームページを開設している。テレビ番組の中では特にお笑い番組が好きで、当時人気を誇っていた「ダウンタウンのごっつええ感じ」などがお気に入りであり、ダウンタウン(特に松本人志)のファンでもあった。また、スーパーファミコンソフト『スターフォックス』にはまっていて、デビュー・シングルの『EYES LOVE YOU』のミュージック・ビデオは、そこから得たアイディアを取り入れている。


また、子供好きでも有名で、弟でマネージャーを務めた裕士に子供が生まれたときには、とても喜んでおり、大きなぬいぐるみを買ってあげたりもしていた。また、1994年のソロツアーでは アンコールで観客の子供をステージに連れてきて、一緒に歌ったこともある。しかし、自身に子供が欲しいかを聞かれると「もし自分に子供が生まれたら、ツアーや仕事で何日も留守にするなんて 絶対に無理だと思うし、全ての情熱を子供に注いで 音楽は蔑ろになってしまうかもしれないから要らない。」「裕士に子供が生まれたから、俺は子供は要らないし、結婚もしない」と語っていた。また「世界一の親バカになる自信がある」と語ったこともある。

音楽性と影響

中学生の頃、初めて聴いたキッスレコードに大きな衝撃を受け、ロックに目覚める。以後は様々なロックを聴き漁るようになり、その中でキッス(特にエース・フレーリー)、ザ・クラッシュアイアン・メイデンディープ・パープルヴァン・ヘイレンダムドレッド・ツェッペリンジミー・ペイジ)、ジャパンなどに影響を受けた。BOWWOW山本恭司ファンではあるが、hideの代名詞となる「モッキンバード」は、同じBOWWOWの斉藤光浩が使用していたのが気になった事がきっかけであると語っている[5]


Xの「PSYCHEDELIC VIOLENCE CRIME OF VISUAL SHOCK」というフレーズを考案した。これがヴィジュアル系という言葉を生み出したのはhideと言われる所以である。また、hideが音楽界に与えた視覚面や音楽面の影響は多大で、音楽ライターの市川哲史からヴィジュアル系はhideから始まってhideで終わったとも言われている。


のちに有名になるマリリン・マンソンだが、まだ無名時代からhideの大ファンだったという[6]

略歴

Xに加入しての初仕事は「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」の企画で行われた「やしろ食堂」でのライブであった。1989年4月、Xのギタリストとしてアルバム『BLUE BLOOD』でメジャーデビュー。Xではギター以外にもバンドのビジュアル全般を担当し、メンバーの髪のセットなども行っていた[3]。主にYOSHIKIがXの作詞・作曲を行っていたが、HIDEも一部の曲で作詞・作曲を担当[3]


Xでの活動と並行して1993年1月21日にLUNA SEAJINORANと共にMxAxSxS名義でオムニバスアルバム『DANCE 2 NOISE 004』に参加し、同年8月5日に2枚のシングル「EYES LOVE YOU」、「50%&50%」を同時発売しソロデビュー[3]。9月29日にはZI:KILLのTUSKと、映像作品『Seth et Holth』を発表する[注 1]


1994年2月、初のソロアルバム『HIDE YOUR FACE』を発売。ジャケットの仮面のオブジェは、映画『エイリアン』などで知られるH・R・ギーガーによるデザイン。また、同年3月から4月にかけて初のソロツアーを開催した。

1996年、アマチュアバンドであったZEPPET STOREの楽曲や存在を世間に知らしめたいという動機からレーベル「LEMONed」(レモネード)を立ち上げる。5月22日に同名タイトルのオムニバスアルバムとビデオを発売することでレーベルの存在を公にした。また、6月よりソロアルバム制作を開始し、9月2日に2ndアルバム『PSYENCE』を発売。


1997年9月、TOSHIの脱退によりX JAPANは解散を発表し、同年12月31日の「THE LAST LIVE」をもってXは解散[注 2]。その翌日の1998年1月1日、hide with Spread Beaverとして朝日新聞紙上に全面広告を掲載。同年1月28日にシングル「ROCKET DIVE」を発売。


1998年5月2日の朝7時30分頃、自宅マンションの寝室にてドアノブに掛けたタオルで首を吊って呼吸停止した状態になっているのが同居していた婚約者によって発見され、病院に搬送されたが午前8時52分に死亡が確認された。33歳没。後にファンが後追い自殺をするなどの事態が発生したという。5月5日に関係者のみ300人を集め密葬が執り行われ、5月6日に通夜、5月7日に告別式が催され、両日はファンの献花を受け付け、連日ファンが大挙して押し寄せた。告別式にはTOSHI、TAIJIを含むX JAPANのメンバーをはじめ、親交のあった音楽仲間や業界関係者も参列した。告別式はテレビで生中継された。

hideの死
晩年

1998年5月1日、hideはSpread Beaverのメンバーと共にフジテレビ音楽番組「ロケットパンチ!」の収録を行う(その際に披露した曲は「ROCKET DIVEピンクスパイダーever freeDOUBT'97」)。これが生前最後に収録した番組となった。その打ち上げ後、日付をまたいで更に飲み、泥酔したhideはマネージャーの弟・裕士が運転する車で自宅マンションまで送られた。


5月2日朝7時30分頃、hideは自宅マンション寝室のドアノブに掛けたタオルで首を吊った状態で発見された。その後、病院に搬送されたが午前8時52分に死亡が確認された。病院に着いた時は既に心肺停止状態だったという[7]。当日午後3時頃から、「元X JAPANのギタリストhideが死亡、警視庁は自殺と断定」と速報で報道された。


HURRY GO ROUND」の歌詞や、ラジオ番組「オールナイトニッポンR」での発言が意味深長で自殺に関連するのではないかという見方や、はたまた事故ではなく自殺だと断言している人間の存在までもあり、様々な見解がある。警察は雑誌取材などに「『牽引』にしては首の輪が小さく、むしろ死を意図するものであった。また、『バンドや音楽活動で悩み酒量が増えていた』と聞いており、突発的に死に踏み切ったのだと思われる」と答えている。「故意による自殺」か、「不慮の事故」かは不明であり、遺書や「死にたい」と自殺をほのめかす発言がない事や、ドアノブに柔らかいタオルで自殺する方法は珍しいことから、不慮の事故とする説がある。YOSHIKIは「彼は自殺するような人間ではない」と発言している。


1998年10月24日 hide不在の中行われた hide with Spread Beaver TOUR appear!! "1998 TRIBAL Ja,Zoo" 公演前に行われた記者会見で、マネージャーの裕士は「hideは生前、ひどい肩こりと偏頭痛に悩まされており、整骨医が行う首の牽引によるストレッチをしていた。いつものように牽引していたが、帰国直後の時差ボケと、泥酔状態であったために起こった事故であり自殺ではない」ことを改めて発表している[8]


2014年8月22日、「中居正広の金曜日のスマたちへ」に出演したToshlが、hideの死について、自分が洗脳されていなければと自責の念を述べた[9]


1998年9月に出版された「hide 真実のストーリー」にはコンサートで行われる予定であった首吊り自殺の演出の練習を酔っぱらったまま行ってしまい死んでしまったと書き記されている。

葬儀までの5日間

hideの遺体は5月3日に東京都中央区築地築地本願寺に安置された。夕方、YOSHIKIがロサンゼルスから帰国し成田空港から築地本願寺に直行。YOSHIKIは最初これを「悪い冗談じゃないか」とも思っていたが、飛行機の中での正式な報道を見た瞬間に現実であることを受け入れ号泣したという。


翌5月4日、週が明け本格的にワイドショーなどで大々的に取り上げられる。築地本願寺にファンが集まり始め、その数は5万人規模となる。夕方にYOSHIKIがの正面に姿を現し、報道陣を前にメッセージを発表した。


5月5日には、遺族・親族・X JAPANのメンバーを始めとする音楽関係者など300人を集め密葬がとり行われた。
その間もファンは絶え間無く押し寄せ、その数は数千人にもふくれ上がった。また、疲労と心労が重なったファンが次々と倒れ、救急車で病院に搬送された。さらに、「hideが自殺」と報道されていたためにファンの後追い自殺が築地本願寺境内をはじめ全国で相次いだ。そのため、翌日には警視庁の要請でX JAPANのメンバーが記者会見を開き、自殺を思いとどまるように訴えた。


5月6日の通夜、5月7日の告別式の両日はファンの献花を受け付け、連日ファンが大挙して押し寄せた。中には単なる通行人や野次馬もいたとされるが、通夜、告別式に5万人近くが集まったとされ、隅田川沿いに2 - 3kmのファンの列が出来たことも報道されていた。「ファンは列に並ぶ際、パニックになるようなこともなく、むしろ近隣住民の迷惑にならないようにゴミ拾いまで進んで行う素行の良さであった」と葬儀翌日の朝日新聞天声人語に掲載されている他、本社が築地にあるという場所柄、「銀座の花屋が空になった」「地下鉄の車内は花の香りでむせかえるほどだった」等の記者の証言が数多く残されている。また、本願寺の外では hideやX JAPANの楽曲が流れていた。


5月7日の告別式はテレビで生中継された。告別式には、脱退したTOSHI、TAIJIを含む元X JAPANメンバーをはじめ、親交のあった音楽仲間や業界関係者が列席した。築地本願寺開山以来初めてのグランドピアノ持ち込みによるYOSHIKIの伴奏で、TOSHIがX JAPANの「Forever Love」を歌った。hideの「GOOD BYE」が流される中、午後3時40分出棺。道路に交通規制が掛けられ一般車両を完全に止めた状態であったが、ファンが大挙して道路に広がり霊柩車を追いかける者まで現れる非常事態となり、築地本願寺周辺がパニック状態になった。


その後、hideは渋谷区代々幡斎場荼毘に付された。代々幡斎場周辺も築地本願寺同様ファンが大挙して道路に広がり霊柩車が斎場に到着するシーンも追いかける者まで現れる非常事態となり、これもパニック状態になった。法名秀徳院釋慈音(しゅうとくいん しゃくじおん)。遺骨四十九日法要をもって、神奈川県三浦市三浦霊園に納骨され、一部はロサンゼルスの海に当時のzilchのメンバーや弟・裕士によって散骨されている。 2013年3月に、何者かの手によってhideの墓石が刃物のような物で傷を付けられるという事態が発覚した。そのため、器物損壊罪で調査を行うこととなった[10]


十三回忌にあたる2010年5月2日には、築地本願寺で法要が行われた。法要には約35000人の関係者やファンが参列した[11]

死後

1998年5月13日にシングル「ピンクスパイダー」、5月27日にシングル「ever free」が生前に予定されていた通りに発売。7月23日、生前にレイ・マクヴェイとポール・レイヴンと共に結成されたプロジェクトzilchの1stアルバム『3・2・1』が発売。10月21日、未発表曲としてシングル「HURRY GO ROUND」が発売。これは生前に録っていた仮歌の音源を使用して、hideと共に最もレコーディング作業に深く関わっていたI.N.Aによって制作された。11月21日、アルバム『Ja,Zoo』が発売。このアルバムは生前には未完成であったが、Spread Beaverのメンバーや、サーベルタイガー時代からの仲間であるkyo菊地哲などの参加により完成された。


死去から丁度1年後の1999年5月1日、トリビュート・アルバムhide TRIBUTE SPIRITS』が発売。hideに縁のあるミュージシャンや、hideがBOØWY時代からファンであった布袋寅泰などが参加。


2000年7月20日、故郷である神奈川県横須賀市の海岸沿いにある京浜急行電鉄所有の土地を利用し、記念館「hide MUSEUM」が開館。衣裳や楽器などhideにゆかりのある品々を展示、併設の「Cafe Le PSYENCE」ではライブも行われた。オープン式典にはX JAPANファンを公言し、設立にも協力したという衆議院議員小泉純一郎も出席。横須賀市内を走る京浜急行バスでも、hide並びにhide MUSEUMをテーマにした路線バスを3台(衣笠営業所所属車2台と湘南京急バス堀内営業所所属車1台)製作・運行させている。七回忌に当たる2004年5月2日には「FILM GIG」などのイベントが開催された。2005年9月25日に記念館は閉館。当初は3年間の期間限定であったが、結果的に5年に延長された。閉館後も、展示品などは時期を見て公開する予定であるとされている。


2007年4月1日、裏原宿に移転しLEMONed shopがオープン。


2007年10月17日、X JAPANが再始動。新曲「I.V.」は、生前のhideの演奏をデジタル加工して使用されており、念願としていた世界デビューへhideも同行する形が取られた。10月22日のミュージックビデオの撮影にはhideの立ち位置に空席のマイクスタンドとhideモデルのエレキギターが設置され、YOSHIKIがhideの人形を持って登場するなど『hideも一緒である』ということが強調されていた。2008年3月28日に東京ドームで開催されたX JAPANの復活ライブでは、特殊映像などを駆使して再現されたhideの立体映像が登場。


2008年5月3日・5月4日、味の素スタジアムにてhideを追悼する為の十周忌追悼ライブ『hide memorial summit』が開催された。多数のバンドやミュージシャンが出演し、5月3日に出演したhide with Spread Beaverと5月4日に出演したX JAPANでは、ステージに設置された巨大モニターに生前のhideの映像を放映する形で共演。


2013年はソロ活動20周年、2014年は生誕50周年のメモリアルイヤーとなり、hide MUSEUMの8年ぶりの復活など、様々なプロジェクトが進められた。


2014年12月10日、生誕50周年アルバムとして、3rdアルバム『Ja,zoo』に収録される予定であった未発表曲を含むベストアルバム子ギャルが発売された。収録内容も、新曲の「子ギャル」に加え、2002年7月にリリースされたベストアルバム『hide SINGLES 〜Junk Story〜』に収録された15曲(16曲目に収録されたコメントは除く)を、Junk Storyから順番に歴史を遡るように収録している。なお、この15曲はボーナス・トラック扱いである。また、初回限定版には、「子ギャル」のデモ音源も収録され、怪人カードが初回限定版・通常版にも封入された。これにより、完全に幻の曲は「ZOMBIE'S ROCK」の1曲となった。この曲はタイトルしか判明しておらず、メロディー・歌詞ともに hideの頭の中にしか存在していないため、音源化は不可能である。


2015年5月24日、生誕50周年記念ドキュメンタリー映画「hide 50th anniversary FILM 〜JUNK STORY〜」が全国の映画館で公開され、また世界各国でも公開された。


2016年1月29日、日本人ロックアーティスト初として、約14万字に及ぶ膨大なヒストリー・未公開を含む、約100枚以上の貴重な写真、母子手帳、成績表、名刺、サイン色紙、イラスト、作品発売のポスター、ライブチケット、スケジュール表、日本レコード大賞 特別賞の賞状、hide MUSEUMオープンのポスター、hide MUSEUMのパンフレットなど、お宝アイテム約50点で構成された、豪華な大型本「hide Perfect Treasures」が発売された。


2016年7月18日、1996年に千葉マリンスタジアムで、翌年には都内5カ所のクラブを、インターネット配信で同時中継した伝説のイベント「hide MIX LEMONeD JELLY」が、舞浜アンフィシアターで開催された。


2016年10月14日から16日までの3日間に渡って、幕張メッセで開催されたVISUAL JAPAN SUMMITに、X JAPAN及びhide with Spread Beaverのメンバーとして出演。なお、hide with Spread Beaverは、2008年5月に味の素スタジアムで開催された「hide memorial summit」以来、約8年ぶりの再集結であった。


2016年10月15日、伝説の2nd ソロツアー最終公演を3D映画化した「hide solo tour 1996 -PSYENCE A GO GO-」が全国で公開された。


2017年3月3日、X JAPANのドキュメンタリー映画We Are Xが、全国で公開された。


2017年8月5日、「hide MIX LEMONeD JELLY」が、新木場STUDIO COASTCOASTで開催された。


2018年4月28日・29日、『hide 20th memorial SUPER LIVE「SPIRITS」』がお台場野外特設ステージで開催された。hideと交友関係のあるアーティストが多数出演。hide with Spread BeaverのメンバーはVISUAL JAPAN SUMMIT以来約一年半ぶりに集結。


2018年5月26日ドキュメンタリー映画「HURRY GO ROUND」が全国で公開された。


2019年5月2日CLUB CITTA'KAWASAKIにて『hide Memorial Day 2109~春に会いましょう~』献花式が開催された。


2019年12月8日CLUB CITTA'KAWASAKIにてhide Birthday Partyが開催された。


2020年8月30日裏原宿のLEMONedショップが新型コロナウイルスの影響で閉店。 なお、オンラインショップは続行中である。

詳しいことは、「hideウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/Hide
(wikiより)

 

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佐野 実(さの みのる、1951年4月4日 - 2014年4月11日[1][2][3][4])は、日本の料理人実業家で、ラーメン店「支那そばや」創業者。神奈川県横浜市戸塚区出身。血液型A型。メディアに多数出演し、「ラーメンの鬼」の異名で知られた[5]

経歴・人物
神奈川県横浜市戸塚区に4人兄妹の次男として生まれた。家が貧しくつねに空腹だったため、幼いころから「将来の夢はラーメン屋か寿司屋になること」と言っていたらしい(本人は記憶していない)[6]


父親は酒乱気味で、少年時代の佐野に度々暴力を振るっており、時には庭の樹木に縛り付けた事もあったと言う。その影響からか、本人も短気ですぐ「キレる」性格故、同級生への暴力行為を理由に幼稚園を退園処分になった事もあった。


横浜市立戸塚小学校横浜市立戸塚中学校時代は新聞配達や牛乳配達のアルバイトをして小遣いを稼ぎ、そのでラーメン屋に通った。中学生のとき初めてラーメンを作って家族にふるまい、旨いと褒められた。また、母親は本人を身籠っていた時からラーメンを食べ続けており、本人曰く「ラーメンが胎教代わりだった」との事。


中学生時代のクラブ活動は園芸部。当時好きな女子生徒に近付きたくてその女子生徒と同じ園芸部に入ったという。これがきっかけでが好きになり、将来は育種家か園芸家になろうと思って[7]神奈川県立平塚農業高等学校園芸科を受験したが不合格となった[8]。なお、花は派手な物、大きな物よりもあまり目立たないような小ぢんまりしたような物を好み、一番好きな花はミヤコワスレであるとも述べている[9]。また、アルバイトで飲食業の仕事を始めたのはこの頃で、金がかかる園芸の資金稼ぎにと甘味屋や純喫茶などで仕事をするうち、だんだん飲食業が楽しくなっていったという[7]


私立藤沢商業高等学校(現:藤沢翔陵高等学校)に進学し、野球部に所属してプロ野球を目指したが、チームメイトに後に読売ジャイアンツなどで投手として活躍した小俣進がいたため、実力の差を知り、プロ野球への夢を諦めた。その小俣とは高校卒業後もずっと親交が深く[10]、小俣は佐野の店に時々ラーメンを食べに来たりもしていた[11]。なお、野球部退部後、高校を卒業するまで応援団に所属して活動しており、小俣が不甲斐ない成果を見せた時は叱咤激励していたとのこと[11]。学校の近くに好きなラーメン屋があり、毎日のように登校前と昼休みの2回食べに行った[6]


高校卒業後、横浜ドリームランド内の不二家レストランに就職。同店のカレーライスが好きで、1ヶ月近く通い詰めるほど旨かったからという[12]。以後ずっと洋食の世界ですごし、28歳から34歳までは管理職(店長)を務める傍ら趣味でラーメン店の食べ歩きを重ねていたが、独立してラーメン店を開きたいという思いが募り、「修業はした方がいい」と言う地元・戸塚の飲食店組合融資部長が斡旋した湯河原の青竹手打ち麺が売り物のラーメン店で1週間修業したのち[13]、実兄の資金援助を受けて1986年8月に藤沢市鵠沼海岸7丁目に「支那そばや」を開店した。店名については、自分の原体験から「ラーメン」より「支那そば」という名称の方が馴染みがあったとのことで、前述の融資部長のアドバイスも受け入れた上で決めた[13]


初めは思うような味が作れず、客も少なく、厨房で涙を拭った事もあるという。店の経営がようやく軌道に乗りはじめたのは、2年後の1988年ごろである。2000年からは藤沢の店舗は佐野の弟子に譲ったが、その弟子も辞めてしまった上に後継者も居なかった為、2004年に閉店している[14][15]


ラーメンの世界で唯一頭が上がらない人物として、旧「東池袋大勝軒」店主の山岸一雄の名を挙げている[16]

2000年以降、2008年11月に自身の出身地である横浜市戸塚区に移転した「支那そばや」本店と、新横浜ラーメン博物館店を営業している。本店の開店と同時に、「「ラーメンの鬼」佐野実の厳選ブログ」を開設した[17]


2009年5月に駒沢オリンピック公園で行われた「ラーメンShow in Tokyo 2009」など、近年のラーメン関係のイベントでは、「佐野JAPAN」[18]というチーム名で出店している。これは、佐野を師と仰ぐラーメン店の店主たちが集まったチームであり、支那そばや同様あっさり系スープの店が多い。イベントではHEY!たくちゃんにものまねされることも多い。なお、弟子については授業料をもらう代わりに技術を教え、独立した時には佐野自身が食材の斡旋をしていた。独立以後の弟子についてあまりこだわらなかったところ、閉店する店も出て来たため、この反省を踏まえて「最低3年から5年は修業してもらい、自分が納得するまでは独立させない」方針に転換した。「俺のと同じ味は作れないが、俺のよりうまいラーメンは作れる」と教えていたと言う[19]


人前で涙を見せることはなかった佐野だが、弟子の一人であるHEY!たくちゃんが『東京ラーメンショー2011』の『NRA杯 ラーメンコンテスト バトプリ2011』で優勝したという連絡を受けた時、トイレに駆け込んで一人でこっそり泣いていたとのことで、佐野の妻で株式会社エヌアールフード代表取締役である佐野しおりは「夫が泣いている姿を見たのはその時だけ」だったという[20]


2014年4月11日午前2時57分、多臓器不全のため川崎市の病院で死去。関係者によると、2006年頃から10年近くに亘り糖尿病を患っており、同年2月中旬より体調を崩していたという。63歳没[1][2][3][4]。亡くなる数日前に佐野自身が最後に口にした物もやはりラーメンで、本人が病室のベッドの上で「ラーメンを食いたい」と発言し、病室のベッドの上で佐野の弟子らが作ったラーメンのスープをやや薄めた物を食していたと言う。その際、本人は「薄くて不味い、毎日店でこんな物出しているのか」と言いながらも最後までそのラーメンを食していた。


私生活では2度結婚している。佐野しおりとは知人の紹介で2004年に再婚。息子と娘が一人ずつ居り、佐野の店舗は娘とTBS系列「ガチンコ!」のコーナー「ガチンコラーメン道」の第2シリーズの優勝者と戸塚に移転してからの佐野の弟子が継いでいる。息子は愛媛県今治市でイタリア料理店を経営している。



こだわり
麺は自家製麺を使用しており、新しい麺の開発にも積極的である。新横浜ラーメン博物館店で使用している「絹越和伊麺」(きぬこしわいめん)[21]は、イタリア産のデュラムセモリナ粉と、国産小麦『ハルユタカ』をブレンドしたものを用いている。製麺機から出来た麺は木箱に入れ、2〜4分間、少し蓋を開けて放置。その後高湿冷蔵庫(高級蕎麦屋で使われている)でひと晩保管して熟成させる[22][23]


戸塚本店では、スープに使う鶏ガラは名古屋コーチン[24]、麺に使うかん水モンゴル[25][26]。具のネギは九条ネギ[25]、醤油味と塩味で分けている器は有田焼などと、高価なものを使用している[27]。他に具材は、豚肉は中型のヨークシャー種中心[28]、スープ材に焼きアゴ(アゴとはトビウオの幼魚)を使用しているとも述べている[29]。スープに使われている水もスープのコクを生み出す為にセラミックスを用いてアルカリ性に変換している。その為、価格設定も他の同業界に比べかなり高めとなっている。


藤沢時代は、香水の匂いが強い人の入店・店内での私語・喫煙携帯電話の使用・ベビーカーを引き連れての乳幼児との入店が一切禁止とされていたが[30]、こういったことは佐野自身が決めたわけではなく「私語が出来ないような雰囲気の店である」ことをマスコミが演出した結果こうなったらしいともされており[31]、佐野自身は「香水・私語・携帯電話・タバコの煙はラーメン作りの全てを台無しにしてしまう物。自分の作っているラーメンを客には最高の状態で味わってもらうべき」と主張を持っていた。店内の私語については「当店のラーメンは麺が細麺で伸びやすいから食事中は静かにと言っているだけ」と述べているほか、香水については「香水の匂いがきつい女性客が来店した事があったからでその匂いがラーメンの風味を壊している」とコメントしている[31]。その旨の注意喚起の張り紙も店内に掲示されていた。また、過去には泥酔した客に対して刃物を振り回して「お前らは客じゃない、金は取らないから出て行け」と追い出した事もあった[32][33]


その他、麺の出来に納得いかない時は店を臨時休業したり[34]、スープを残す客に対して「残すなら最初から食うな」と本人が発言している[33]。又、営業時間も昼間の数時間のみと非常に短いほか、他のラーメン店で見られる様な餃子チャーハンといったサイドメニューの提供も無い。

詳しいことは、「佐野 実ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E9%87%8E%E5%AE%9F
(wikiより)

 

佐野 実

 

 

 

永 六輔(えい ろくすけ、1933年昭和8年)4月10日[2] - 2016年平成28年)7月7日[4])は、日本のラジオ番組パーソナリティタレント随筆家。元放送作家作詞家テレビラジオなどを中心に活躍。軽妙な語り口と歯に衣着せぬトークで人気を集めた。1961年7月に坂本九により初演され、その後世界中でヒットしたポップソング上を向いて歩こう』の作詞者として知られる[5]。また短く簡単な言葉で物事の本質を突く、短文の名人としても知られ、著作も多い。『大往生』は200万部を超える大ベストセラーとなった[6]


“旅の坊主”、“ラジオ屋”、“テレビ乞食”、“遊芸渡世人”、“男のおばあさん”などを自称。本名は永 孝雄(えい たかお)。晩年の所属事務所は「オフィス六丁目」だった。角刈り頭と細長い顔がトレードマーク


長女の永千絵は映画エッセイスト、次女の永麻理は元フジテレビアナウンサー、麻理の長男、岡﨑育之介は俳優、脚本家、演出家。麻理の次男は「大遺言〜祖父・永六輔の今を生きる36の言葉」(小学館刊)の著者拓実[7][8]。また、藤本義一とは遠戚である。

略歴
生い立ち
1933年、代々東京・元浅草の最尊寺の住職を勤めていた永忠順(1900年 - 1991年[9])の息子として生を受けた。江戸時代初期に渡来した中国の学僧を先祖に持つ在日本外国人17代目と自称[10]。父や祖父は永という姓を「ヨン」と名乗っていた[10]。東京都下谷区(現・台東区)の国民学校に通っていた1944年、学童疎開により長野県北佐久郡南大井村の国民学校に転校し、そこで終戦を迎えた。

学生時代以降

1946年に長野県立上田中学校(旧制)に入学するが翌年東京へ帰り早稲田中学校(旧制)に2年編入で転校。この間同校が学制改革により新制の早稲田中学校・高等学校となったため3年で高等学校に昇級進学して卒業する。ラジオに興味を持ち、焼け跡の金属を換金し秋葉原で部品を買い鉱石ラジオを組み立てるグループを作る。そのグループのリーダーが渥美清であった。


この頃からNHKのラジオ番組『日曜娯楽版』にネタを投稿するようになり、そして学校をさぼって実家から近い国際劇場を本拠地にしていた松竹歌劇団レビューを見続けたことがのちの放送作家やテレビ演出活動の原点になった。また、1948年から淀川長治が主催していた「東京映画友の会」の初期の参加メンバーであった[11]。1952年に早稲田大学第二文学部へ入学。大学では民俗学者であった宮本常一の影響を受ける。在学中に三木鶏郎(『日曜娯楽版』の発案者)にスカウトされ、トリローグループのメンバーとして放送作家、司会者としてデビューする。早稲田大学第二文学部を1952年に中退[2][12]


放送作家として

日本でテレビジョン放送が始まる前の実験放送からテレビに関わっており、数々の番組の作・構成を手がけた「放送作家」のまた、先駆者と言える。日本のテレビ草創期を語るときに欠くことのできない存在である。


また、のちには自身も出演者としてテレビ・ラジオの多くの番組を持つようになる。


かくして20代前半から、ラジオ・テレビ番組の企画・演出や、ピアニストで作曲家の中村八大らと組んでの歌曲作詞、また軽妙な語り口を生かしたタレントとしての活動など、マルチプレイヤーとして活動を続けてきた。特にラジオパーソナリティとしての知名度が高い。古今の芸人についての研究や、日本政府によるメートル法の厳しすぎる施行で過度に排除された尺貫法の復権を志す運動[13]、佐渡島の独立運動、「天皇陛下に公式の場で和服(着物)をおめしいただこう」という運動(「天皇に着物を!市民連合」略称「天着連」)など、ユニークな取り組みも多い。


ディズニーの日本語版製作のアルバイトをしていた関係で1956年には同社のアニメ映画『わんわん物語』でチワワのペドロの声を演じた。続けて『バンビ』『ダンボ』にも声優として出演している[14]


1958年には、若手の文化人らと「若い日本の会」を結成し、安保闘争時に安保改正に反対した。当時、『光子の窓』の脚本を担当していたが、安保デモに参加して脚本を落とし、しかも永を捜しにデモ現場に駆け付けた日本テレビの担当者の「安保と番組、どっちが大事なんだ!」との問いに「安保です」と答えたために番組を降ろされている[15][16]


1960年代には1年間大阪で漫才作家の修行を積み若井はんじ・けんじらの漫才台本を書く。この頃にのちにやなぎ句会で一緒になる桂米朝と出会う。


1961年に NHKで始まった音楽バラエティ番組「夢であいましょう」の作・構成を手がけ、音楽とコントを取り合わせて当時としては大変垢抜けた画期的な番組として人気を博した。この番組からは渥美清、坂本九、黒柳徹子、初代ジャニーズ、E・H・エリックといった多くの人気者を輩出している。


1970年には読売テレビで「遠くへ行きたい」が始まる。タイトルは永と中村八大によるヒット曲「遠くへ行きたい」からとったもので番組開始当初は永六輔が毎週旅をして出演、テレビの旅番組の先駆けとなった。


1977年革新自由連合の結成に参加し政治活動にも進出。1983年6月26日執行の第13回参議院議員通常選挙に比例代表区から出馬したが落選。以降選挙への立候補からは撤退している。1985年、次女・麻理がフジテレビのアナウンサーとして同局に入社(1993年、結婚のため退職)。


1994年には『大往生』を発表。日本のあちこちの無名の人々の生、死に関する様々な名言を集めたこの本は、200万部を超える大ベストセラーとなる。他に、多方面でのエッセイの著作が多数ある。2000年に、全業績で菊池寛賞を受賞。


2002年 - 2007年まで、校長が中山千夏、講師陣が永・矢崎泰久小室等という私塾「学校ごっこ」に係わった。


2008年6月、第45回ギャラクシー賞で、ギャラクシー賞45周年記念賞を受賞[17]

音楽ではシャンソンが好きで、石井好子との学生時代からの交友関係もあった。その一方で、演歌はあまり好きでないが「好きな演歌もある」そうである[18]


闘病

2009年に呂律が回らなくなったと『週刊女性』に報じられ[19]、そのときは加齢と入れ歯のせいだとしていたが[20] [21]、2010年になってパーキンソン病と診断されてこれを公表し、投薬治療を受けていた[22][23]。2010年9月30日には、前立腺癌とパーキンソン病と闘病しながら活動を行う永を密着取材したドキュメンタリー番組『永六輔 戦いの夏』がNHK総合で放送された[24][25]。一時は引退も考えたと語ることもあったが、投薬治療されるようになってからは症状が良くなりラジオでも会話が滑らかになっていた。


パーキンソン病の影響で歩行困難になり[24]、2006年に奄美大島で転倒して右足小指骨折し、半年間杖で歩行していた。さらに2011年11月16日夕、東京都内の自宅で転倒して大腿骨頸部を骨折し入院・手術[23]。永の強い意志で仕事は極力休まず、ラジオのレギュラーは病室からのゲスト参加や収録という形式が採られた。同12月27日、イベントへ車椅子で参加。以後、レギュラー2番組の放送・収録は病院からスタジオへ赴いた。2012年1月17日に退院、リハビリは継続した。


リハビリ中には、インドネシア人介護福祉士が「日本にはいい歌がある。『上を向いて歩こう』を歌いながら歩きましょう」と提案。永は恥ずかしがり、「この歌、僕知らないからやめてください」と言ったところ、リハビリの主任の医師から「外国から勉強に来ている子なんだから嘘つかないでください。ちゃんと言ってください」と言われ、翌日リハビリが始まるときに「あれは嘘です、知ってます。なぜ知ってるかっていうと僕が作ったからです」というと、インドネシア人の介護士は「また嘘ついてる」と笑った[26]


2013年、毎日芸術賞特別賞を受賞。


死去

2016年6月27日の放送を以って「六輔七転八倒九十分」が終了し[注釈 1]、全レギュラー番組を降板した。

2016年7月7日午後1時57分に、肺炎のために東京都内の自宅にて83歳で死去していたことが同月11日に発表された。[27][4][注釈 2]。医師によると「死因は肺炎とするが、老衰と言っていい状況」で穏やかな最期だったという[28]。葬儀・告別式は実家の最尊寺で7月11日、近親者で行った。8月30日に青山葬儀所で《 六輔・永(なが)のお別れ会 》と題したお別れの会が行われ、同日に赤坂BLITZでファン参加型のお別れの会「ばらえてぃ 永六輔を送りまSHOW」が昼夜2回催された[29][30][31]


友人である黒柳徹子に対し、「黒柳が亡くなった際の葬儀委員長をやる」とよく話していたが、実際は永が先に亡くなり、黒柳が永のお別れの会でメッセージを述べることとなった。そのお別れの会で黒柳は永の顎が外れたエピソードを話し、会場が爆笑となった[32][33]


2016年11月17日第58回日本レコード大賞の特別功労賞を受賞することが発表された[34]


作詞家活動

1959年、作曲家の中村八大からの依頼がきっかけで作詞家として活動を始める[35]。この年、「黒い花びら」で第1回日本レコード大賞を受賞。1959年 - 1966年にかけて中村八大とのコンビにより数々のヒット曲を飛ばし、特に1961年に坂本九が唄って大ヒットした「上を向いて歩こう」がアメリカ合衆国で『スキヤキ・ソング』(Sukiyaki)とタイトルを変え『ビルボード』のウィークリーチャート(Hot 100)で1位(1963年6月15日付けから3週連続)に輝くという金字塔を打ち立てた。


しかし、この曲の録音の際、永は坂本九の「ウヘホムフイテ、アールコホゥホゥホゥ」という独特の節回しの歌いだしを聴いて、耳を疑い「おまえ、どこにホゥホゥホゥと書いてあるんだ」と激怒し、これではヒットしないと考えた。舞台の袖にいた俳優の水谷良重は「こういうのヒットするのよね」と言っていた。永の予感は外れ、全米のヒットチャートでも1位に輝くなどしたが、後に永は坂本が幼児期から清元小唄を仕込まれていたことを知り、「あの歌い方は邦楽だった。彼の中に日本の伝統が生きていた」と自分自身を納得させた[36][5][37]


「上を向いて歩こう」は当時大人気だったNHKの音楽バラエティ番組「夢であいましょう」(作・構成は永六輔)の”今月の歌”で歌われたことにより一気に日本中でヒットしたが、この番組からは数々の歌が生まれ、六輔・八大・九の3人による歌がヒットするにつれ、「六・八・九トリオ」と呼ばれるようになった。また、同じように「夢であいましょう」の”今月の歌”であった「こんにちは赤ちゃん」も第5回レコード大賞を受賞している。


作曲家・いずみたくと共に作ったミュージカル「見上げてごらん夜の星を」からのタイトル曲も、「上を向いて歩こう」と並んで坂本九の代表曲となっている。


永が作詞家として全盛期を迎えたのは、日本のミュージックシーンに作詞・作曲から歌まで1人で手がけるシンガーソングライターが登場した時期でもあった。ビートルズが来日した1966年は、美輪明宏が「ヨイトマケの唄」を、さらに荒木一郎が「空に星があるように」を、自ら作詞・作曲し歌ってヒットさせた年でもある。


ラジオの活動に重きをおくようになった1967年以降は作詞活動から後退し、1969年以降は付き合いを除く作詞活動から撤退した。


作詞をやめた理由としては、「テレビに出れば何でも流行するのか」と怖くなったことがあげられる[38]。また、永が多くの詞を提供した作曲家である中村八大といずみたくの2人は、同世代であり互いの曲を意識しあったが、共通の友人でもある永には複雑な思いがあった。特に板挟みのような状況ではなく作曲家2人は仲が良かったのだが、それだけに「友達でいることを優先」したかったことも、その理由のひとつだったと後に本人は述べている[39]。それとともに、シンガーソングライターの出現により「自分が歌いたい歌を作詞すればよい」と思うようになったということもあげられるが、それはシンガーソングライターを否定するものではなく、きたやまおさむとは『土曜ワイド』にたびたびゲストとして招いたり、逆にNHK-FMの『きたやまおさむのレクチャー&ミュージック』に永がゲスト出演する(2010年12月10日・17日など)という仲である。


永は1974年に野坂昭如小沢昭一と中年御三家を結成して日本武道館でコンサートを行い、ビートルズ以来と言われるほど盛況であった(2003年に「帰ってきた中年御三家」コンサートをNHKホールで行ったが、野坂は病気のため不参加)。


テレビ出演

かつてTBSテレビ放送40周年記念特別番組の際、タレントが永が行っていたラジオ番組紹介コーナーの進行を無断で遮ったことに憤慨し、生放送であるにもかかわらず途中で退場[40]。その後、テレビへの出演に消極的になった(なお他のテレビ番組(テレビ朝日こんにちは2時』など)でも途中退場したことがある[16])。


2016年2月4日には82歳で、『徹子の部屋』40周年記念ゲストとして81歳の大橋巨泉と共に出演した。パーキンソン病の影響と、過去に圧迫骨折した背骨の再手術を控えて入院先の病院からスタジオへ出かけての出演であったため、リクライニングシートを斜めに倒した車椅子に座った状態だったが、巨泉からプレゼントされたエイ(魚)のぬいぐるみを膝に乗せてトークを披露した。『徹子の部屋』には通算39回出演。


ラジオ出演

それまで構成作家として関わってきたラジオ番組だが、1959年放送開始の『昨日のつづき』にて初めて出演することとなる。この番組は、日本初のフリートークで進められる番組で[41]、永六輔は番組開始後、早い時期に喧嘩別れして大橋巨泉と交代した。1966年に『夢であいましょう』が終了すると、活躍の場をラジオに求め、翌年の1967年に『誰かとどこかで』がスタートする。それ以降は、ラジオに重きを置くようになっているが、TBSラジオ以外の関東地方のラジオ局では晩期は定時番組(レギュラー)での仕事をしていない。「出演者は自分で名乗るべき」と永六輔に諭されていたらしい外山惠理が、永六輔亡き後の番組で、いきなりトークに入り、それに対してはぶ三太郎が「あなたは何者ですか?」と自己紹介を促したことがあった。「ご自身(永六輔)は名乗らないで、いきなりトークに突入することもあった」と、2016年7月11日放送の『いち・にの三太郎〜赤坂月曜宵の口』の中で述べている。


なお、朝日放送中部日本放送琉球放送のラジオ番組にも出演しているが、あくまでも個人的な付き合いに留まっている(朝日放送はアナウンサーの道上洋三との[42]、中部日本放送はつボイノリオとの親しい縁から[43]、道上によると、永は面白いと思った地方ラジオ放送局にアポイントを入れることなく、直接プロデューサーに交渉して出演するという。道上、および、つボイとの親交が特に深いのは、こういった事情もある。なお、出演料は基本的にノーギャラであり、CBCラジオの「つボイノリオの聞けば聞くほど」に出演した際には、「高級天丼」が、ギャラの代わりに提供されることも明らかにしている。


全国こども電話相談室』に回答者として出演した際、「どうやったらテレビに出られますか?」という質問に対し「出なくてもいい」という趣旨の答えを返し、「もっといろいろなものに興味を持ちなさい」と子供を諭した逸話がある[44]


TBSラジオでかつて放送されていた『永六輔の土曜ワイドラジオTokyo』は久米宏が初めてレギュラーを受け持った番組であり、久米は永のことを「拾ってくれた」「恩人」と言っている[45]。しかし後に永自身が語ったところによると、久米は永からかなりぞんざいに扱われた為、当時はかなり恨んでいたという[46]。久米は現在でも「永さんの前に立つと緊張する」と語っているが、恨みは持っておらず、『大往生』がベストセラーとなった1994年にはニュースステーションの年末特番に「ベストセラー作家」として永がゲスト出演している他、2010年1月2日には『久米宏 ラジオなんですけど』にゲスト出演している。また、永の訃報に久米は「永さんは、僕の恩人で先生です。いなくなると、とても困るのです。ですから、永さんはいなくならないのです」とコメントを出した。


映画出演
フランキーの宇宙人(1957年3月27日公開、菅井一郎監督、日活) - 新聞記者 役
男はつらいよ 寅次郎純情詩集(1976年12月25日公開、山田洋次監督、松竹) - 根津神社の警官 役
春男の翔んだ空(1977年12月19日公開、山田典吾監督、現代ぷろだくしょん) - 野杉春男 役(主演)[注釈 3][47]
大往生(1998年10月10日公開、藤田傳監督、劇団1980)- 熊御堂 役[48]
理由(2004年12月18日公開、大林宣彦監督、アスミック・エース) - 有吉房雄 役


その他の活動

舞台監督としても活躍していた時代があり、自らのトークショーや地方講演などではプロの舞台監督を雇わずに自分で進行をしていた。ただし、業界で唯一信頼を置いて舞台進行を任せる人物に勇村育世がおり、最近では永自らが構成・演出する舞台であるにもかかわらず、彼女を「舞台演出家」と他の出演者に紹介するほどである。「彼女の言うことに僕は逆らったことがない」というのが口癖。


初めてテレビCM出演したのが浅田飴、初めてスポンサーラジオ番組を持ったのが桃屋だが、つながりができた理由は自身の語るところによると「江戸風俗・芸能に造詣が深いから」という。


自身の信念とは正反対の文藝春秋で記事を書くこともあるが、これも「江戸風俗・芸能に造詣が深いから」書けるとのこと。しかし、文藝春秋で書いていることについて「あいつらに人質にとられているようなものですよ」と半ば自嘲気味に語っている。新潮社でも「江戸風俗・芸能に造詣が深い」との理由から長らく記事を書いていたが、親交のある灰谷健次郎斎藤十一のやり方に抗議して絶縁した1997年以降疎遠となり、週刊金曜日主催の「ちょっと待った! 教育基本法改悪 共謀罪 憲法改悪 緊急市民集会」[注釈 4]での言動を同社の雑誌に批判されてからは完全に絶縁した。


物柔らかく高めの声音が明仁天皇に似ていて、永自身も明仁天皇の即位前から冗談の種にしている[要出典]NHKラジオ第1放送の番組『話芸・笑芸・当たり芸』において「我は高田文夫を深く認識いたします」とのセリフでものまねを披露したこともあった。その一方、永のものまねをした者もいる( →永七輔小堺一機タブレット純大泉洋など)。自らを「男のおばさん」と標榜しており、ピーコなどと仲が良い。


中居正広と接点があり、バラエティ番組「SMAP×SMAP」の1コーナーだった中居のコント「輔のちょっといい話」のために、自前の衣装(和服)をプレゼントしたことがある[49]


プライベート
生活
・大変な愛妻家として知られる。1955年、日本テレビの廊下で一目惚れした女性と22歳で結婚。テレビ・放送業界で活躍し始めていたものの、相手の家庭が堅い職業の家柄だったため、僧侶である自分の父親に頼んで筆と巻紙で手紙を書いてもらって両親に挨拶に行き、結婚の許しを得た。 2002年、68歳で妻に先立たれるが、遺骨をずっと自宅に置き、妻宛に日記代わりのハガキを書き続けた。投函して自宅に届けられた亡き妻宛のハガキは1500通を超えた。
・アナログ人間であり、ポリシーとしてウェブ(インターネット)や電子メール、携帯電話など最先端のものを避けてきたが、SO213iWR(AMラジオが付いた携帯電話端末)が出たのを機に、携帯電話を所持するようになったが、電子メール機能は利用したことがないほか、2008年1月の放送では、「持ってなくても不便ではないから、常には持ってない」と発言している。
・かつては自動車を運転していたこともあったが、「人をひきたくない」と思うようになり、運転しなくなった[50]
・"楽しくなければ嫌”というモットーを一貫しており、リハビリの車いすを選ぶ際にも『どんなのがある?』と好奇心旺盛で、展示場で目を輝かせていた。このため、長女の永千絵ら家族はどうすれば永を楽しませられるかを常に考えねばならなかった。病院嫌い、薬嫌いでもあり、服用のための子ども用のゼリーを粉薬にかけても、上のゼリーだけすくって食べて、薬は残っていた。待つことが嫌いな永のため、家族は自宅近くのクリニックへの通院では、朝一番に駆けつけて受付けを済ませ、その後、「すぐに父を呼んで来ます」と、2番目に並ぶ患者さんにも聞こえるように言い、走って迎えに行って受診させた。待合室でも、永を楽しませるためのおかしなネタを仕入れて置くなどしなければならなかった。疲れた顔など見せようものなら、「楽しくないのなら、お帰りください!」というのが永のスタンスであったという[51]


伝統
・「天皇陛下に公式の場で和服(着物)をおめしいただこう」という運動(「天皇に着物を! 市民連合」略称「天着連」)を主催する形で、天皇と日本の民族衣装である着物に対する敬意を持つことを表明している[52]
・反捕鯨運動には、日本の伝統文化としての捕鯨を守る立場から一貫して批判的である。シーシェパードなど実力行使を伴う反捕鯨運動を「テロリズム」と批判している[53]
・伝統的建築復権運動を進めている。日本では建築基準法により、建築物にボルト締めは不可避だが、ボルトを使わず木材だけで建築した建物が地震で崩れないのに、何故そういう建築を認めないのかと憤慨している。晩期になって伝統的な職人の服装の復権を呼びかけていた。
メートル法が施行されて日本古来の尺貫法が禁じられ、曲尺鯨尺の製造・使用が違法扱いになって多くの職人が困っていると知り、1975年に尺貫法復権運動を始めた。日本の建築や着物など多くの日本文化が尺貫法に則って作られてきたにも関わらず、それを違法とするおかしさをラジオや講演で訴え、尺貫法復権の立役者となった。
山田洋次監督『男はつらいよ』シリーズ第18作、1977年正月映画(1976年12月公開)の「男はつらいよ 寅次郎純情詩集」には主人公車寅次郎が露天商として「くじら尺」を売る場面があり、「家を建てるにも、服を作るにも、このくじら尺をというものがないと始まらない。これがなくては職人さんも困っちゃう。」という口上を述べるシーンがあり、その様子を怪訝な表情で見つめる警察官が登場するが、その警察官役を永が務めている[54]
佐渡島を舞台として活動する伝統芸能をもとにした和太鼓集団、鼓童の前身である鬼太鼓座の立ち上げに尽力したことから、鼓童も支援し続けた。『土曜ワイド』でも佐渡から生放送したことがある。
・「ご先祖様は大事だが、先祖を奉れと強要する人がいてよろしくない」「何何をしないと不幸になるという人がいて不快」という発言を、ラジオ番組ですることが多い。
・1960年代から安藤鶴夫との知己を得て狂言歌舞伎講談落語浪曲などの伝統芸能と接する機会が増え、以降東京の伝統芸能を積極的に後援していた。実家である浅草の最尊寺においては自身を肝煎とする寄席「永住亭」を1986年から年4回定期的に開催し、東京の女性寄席芸人による木遣を唄う集団「住吉木遣り連 大江戸小粋組」のサポーターも勤めていた。1960年代の終わり頃およそ1年半に渡って大阪に居住し、上方の文化と芸能に接した。安藤鶴夫から豊竹咲大夫を紹介された。


信条
叙勲制度に反対している。
・死刑制度に反対している。
天皇制には反対の立場を貫いた。これは天皇を嫌っているわけではなく、むしろ同世代という連帯感もあるとしている[55]。また、晩年は、この国で誰よりも日本国憲法を大切にしているのは明仁天皇皇后両陛下である、として尊敬の念を示していた。


共産党
しんぶん赤旗日本共産党推薦人になり、党や支持団体が主催するイベントで度々講演[56]していた。また、日本共産党中央主催の赤旗まつりでは色紙展に出品するのが恒例となっていた。
・同じく日本共産党の支持者であった井上ひさしとの縁と自身の信念から、井上らが構成する護憲組織「九条の会」に賛同している[57]が、「九条以外は日本国憲法を改正してもいい」という永の考えの賛同メッセージが消されているため距離を置いていた。なお井上とは不仲にならず亡くなるまで親交は続いていたという。また、永は日本国憲法を「二度と飢えた子どもの顔は見たくない[注釈 5]」の一言を組み込んで世界でいちばん短い憲法にするべきと言った考えを述べていた[58]
・2006年11月19日、日比谷公会堂で開かれた「週刊金曜日」主催の集会に参加し、日本国歌「君が代」をアメリカの有名な行進曲「星条旗よ永遠なれ」のメロディーで歌った[注釈 4]


交流
青島幸男が東京都知事時代、官僚と対決する公約を破っていると指摘した。田原総一朗石原慎太郎におもねった発言をしたとの理由で批判している[59]
東京やなぎ句会の同人である桂米朝とも親交が深く、弟子の桂ざこばとかつて新宿駅西口地下広場で反戦噺会を開いていた。
中山千夏とも古くから親交があり、当時の「反ジェンダーフリー・保守的教育復興運動」には批判的で、2007年の東京都知事選挙では親交のある中山千夏と共に浅野史郎を支援した。
辛淑玉と親交があり、彼女が『世界一受けたい授業』に講師として出演した際「推薦VTR」で出演していた。また、2007年5月5日に長野県松本市の寺で行った彼女の生前葬では葬儀委員長を務め、無着成恭と共に読経した。


詳しいことは、『永 六輔ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E5%85%AD%E8%BC%94
(wikiより)

 

 

永 六輔

 

 

⇧⇩ 墓参をしたら、絵葉書をいただきました。

 

 

 

 

 

〇 原文

喜多川柯理墓碣銘

 

喜多川柯理本性姓丸山称蔦屋重三郎

 

父重助母広瀬氏

 

寛延三年庚午正月初七日

 

生柯理於江戸吉原里

 

幼為喜多川氏所養

 

為人志気英邁

 

不修細節

 

接人以信

 

嘗於倡門外闢一書舗

 

後移居油街

 

乃迎父母奉養焉

 

父母相継而歿

 

柯理廓産業

 

一倣陶朱之殖

 

其巧思妙算

 

非他人所能及他

 

遂為一大賈

 

丙辰秋得重病獮月危篤

 

寛政丁巳夏五月初六日謂人日

 

吾亡期在午時

 

因処置家事決別妻女

 

而至午時笑又日

 

場上未撃柝何其晩也

 

言畢不再言

 

至夕而死

 

齢四十八歳

 

葬山谷正法精舎

 

予居相隔十里

 

聞此訃音心怵神驚

 

豈不悲痛哉

 

吁予霽壌間一罪人

 

餘命惟怙知己之恩遇而巳

 

今既如比

 

嗚呼命哉

 

 銘日

 

人間常行 軾在稗史 

通邑大都 孰不知子

 

                   石川雅望 

                   大田南畝
(石碑文より)

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〇 
喜多川柯理 ( からまる ) 墓碣銘 ( 墓碣・ぼけつ 円柱の石碑の意 )

 

喜多川柯理 ( からまる ) 本姓 ( 生家の苗字 ) 丸山、蔦屋重三郎と称する。

 

父は重助、母は広瀬氏。

 

寛延三年庚午一月七日江戸吉原の里に生まれる。

 

幼くして喜多川氏の養子になる。

 

その人となりは志、人格、才知が殊に優れ、小さな事を気にもかけず、人には信順をもって接した。

 

吉原大門の外に一軒の書店を開き、後に通油町に移転、父母を迎えて厚く養ったが、その父母も相次いで亡くなった。

 

柯理は廓 ( 吉原 ) の産業を盛んにして自らも一廉の財をなした。

 

その巧思妙算 ( 発想力や人を結びつける力と世事物事を見通す計算高さ ) は他の及ぶところなく頭抜けていて、ついに耕書堂という大店を成すこととなった。

 

丙辰の年の秋に重病を得て一ヶ月後危篤となる。

 

寛政丁巳の年の夏、五月六日にこう言った「私は今日の昼時には死ぬよ」身の回りの始末をし妻と別れの言葉を交わし、昼時になり笑ってまた言った

「自分の人生は終わったはずなんだが ( 芝居の終演に鳴らす ) 拍子木がならない。ずいぶん遅いな。」言い終わった後はもう言葉を発することはなく夕刻になって亡くなった。

 

齢四十八歳。

 

山谷の正法精舎 ( 当山正法寺 ) に葬られた。

 

自分は十里を離れたところに居てこの訃報を聞き畏れの心と共に心底驚いた。まさに悲痛の極みである。

 

まあ私などただの霽壌間の一罪人に過ぎぬ身である、そんな余生を君と知り合うことのできた恩遇と共に過ごしていくこととしよう、今はこんな気持ちである。ああ命の儚さよ。

 

銘日 人間常行 軾在稗史 通邑大都 孰不知子

 

                        石川雅望 大田南畝

〇 原文

実母顕彰の碑文

 

広瀬氏者書肆耕書堂母也

 

諱津与江戸人

 

帰尾陽人丸山氏

 

生柯理而出

 

柯理幼冒北川氏称蔦屋重三郎

 

其居近倡門

 

天明三年癸卯九月移居城東通油町而開一書肆

 

競刻快書大行

 

都下之好稗史者称耕書堂

 

寛政四年壬子十月廿六日広瀬氏病死葬城北山谷正法寺

 

癸丑二月柯理來未聞出曲中而起業者也

 

子之志渝則蓋足以観母氏之遺教矣

 

銘日小説九百母徳可摘

 

寛政丑莫春南畝子題
(石碑文より)

〇 

実母顕彰の碑文

 

広瀬氏は本屋耕書堂 ( 蔦屋重三郎 ) の母、諱 ( いみな ) は津与、江戸の人である。

 

尾陽の人丸山氏に嫁ぎ柯理 ( からまる 蔦屋重三郎 ) を生みのち離縁する。

 

 柯理は幼くして喜多川氏の養子となり蔦屋重三郎と称する。

 

その住まいは吉原大門のそばにあった。

 

天明三年癸卯の年九月に城東の通油町に居を移し書店を開く。

 

商売を競って優れた本を次々に出版し大いに繁盛、江戸の言い伝えでは皆その店を耕書堂と呼んだという。

 

寛政四年壬子の年十月二十六日、広瀬氏病死し城北の山谷正法寺に葬られた。

 

癸丑の年二月、柯理が来て言うには「私は七歳で母と別れさみしい思いをしたが後に再会し一緒に暮らすことができて今の自分がある。願わくば片言の言葉を墓に捧げてその苦労に報いてやりたい。」私はこう言った「あなたは ( 寛政の改革による弾圧で ) 破産し獄中にもあった、なのにそんな逆境を乗り越え起業を成した。そんな人物が他にいるだろうか。子のすべき行いとは、母の遺した教えを変えることなく大切にし努力する事である ( だから蔦屋重三郎は成功したのだろう )」


蔦屋重三郎
 

蔦屋 重三郎(つたや じゅうざぶろう、寛延3年1月7日1750年2月13日) - 寛政9年5月6日1797年5月31日))は、江戸時代版元出版人)である。朋誠堂喜三二山東京伝らの黄表紙洒落本喜多川歌麿東洲斎写楽浮世絵などの出版で知られる。「蔦重」ともいわれる。狂歌名を蔦唐丸(つたのからまる)と号し、歌麿とともに吉原連に属した。

人物
父(丸山氏)は江戸の吉原遊廓の勤め人だったという。寛延3年(1750年)、重三郎も吉原に生まれ、のちに喜多川氏の養子になった。「蔦屋」は喜多川氏の屋号であり、吉原の茶屋といわれる。また、「耕書堂」とも号した。安永2年(1773年)、重三郎は吉原大門の前に書店を開き、はじめは鱗形屋孫兵衛に独占されていた吉原細見(店ごとに遊女の名を記した案内書)の販売、出版から出版業に関わっていった。安永3年(1774年)に遊女評判記『一目千本』、翌安永4年(1775年)に吉原細見『籬の花』を出版している。後に通油町、横山町1丁目、小伝馬町2丁目、浅草並木町、嘉永頃に浅草寺中梅園院地借り市右衛門店に移った。


安永9年(1780年)に売れっ子作家・朋誠堂喜三二の黄表紙を出版したのを手始めに本格的に出版業を拡大。かねてから付き合いのあった狂歌師[1]たちや絵師たちを集め、それまでにない斬新な企画を統括し(現代で言うプロデューサー業)、洒落本や狂歌本などでヒット作を次々に刊行した。天明3年(1783年)には丸屋小兵衛の株を買取り一流版元の並ぶ日本橋通油町に進出、洒落本黄表紙狂歌本絵本錦絵を出版するようになる。浮世絵では喜多川歌麿の名作を世に送ったほか、栄松斎長喜東洲斎写楽などを育てている。また、鳥居清長渓斎英泉歌川広重らの錦絵を出版している。


しかし自由な気風を推し進めていた田沼意次に代わり老中となった松平定信による寛政の改革が始まると、娯楽を含む風紀取締りも厳しくなり、寛政3年(1791年)には山東京伝の洒落本・黄表紙『仕懸文庫』、『錦の裏』、『娼妓絹籭(しょうぎきぬぶるい)』が摘発され重三郎は過料により財産の半分を没収、京伝は手鎖50日という処罰を受けた。


その後も、寛政6年(1794年)には東洲斎写楽の役者絵を出版するなどしていたが、寛政9年(1797年)に48歳で没。脚気であったという。


面倒見がよく、また人の才能を見抜く術を心得ていたといわれている。写楽をはじめ曲亭馬琴十返舎一九など重三郎の世話を受けた人物は数多い。


なお、2代目は番頭の勇助が継いでおり、初代同様、狂歌本を多数出版した。享和2年(1802年)に葛飾北斎の狂歌本『潮来(いたこ)絶句集』を出版すると、装丁が華美ということで処罰された。耕書堂は5代、明治初期まで続いた。
 

作品
・北尾重政 『一目千本花すまひ』 吉原細見 安永3年(1774年)

・鳥居清長 「雪月花東風流」 中判 錦絵揃物 天明末ころ

・喜多川歌麿 『身貌大通神略縁起』 黄表紙 志水燕十作 天明1年(1781年)

・喜多川歌麿 『画本虫撰』 絵入狂歌本 天明8年(1788年)

・喜多川歌麿 「婦女人相十品」 大判 錦絵揃物 寛政3年‐寛政4年頃

・北尾政演 『錦之裏』 洒落本 山東京伝作 寛政3年(1791年)

・喜多川歌麿 「歌撰恋之部」 大判 錦絵揃物 寛政5年頃

・栄松斎長喜 「四季美人」 大判 錦絵揃物 寛政中期

・東洲斎写楽の版画全作品 寛政6年5月 - 寛政7年1月

・北尾重政、葛飾北斎、鳥文斎栄之ほか 『男踏歌』 絵入狂歌本 寛政10年(1798年)

・渓斎英泉 「新吉原八景」 大判8枚揃 錦絵 文政初期

・歌川広重 「諸国六玉河」 横大判6枚揃 錦絵 天保6年(1835年)‐天保7年(1836年)

・歌川広重 「膝栗毛道中雀」 横大判 錦絵揃物

2代歌川国輝 「東京築地ホテル館」 大判3枚続 錦絵
 

注釈
1. 天明年間は田沼時代とよばれ、江戸市中は潤沢な資金により商人隆盛の豊かな時期が続き、娯楽として狂歌が大流行していた。

参考資料
鈴木俊幸『蔦重出版書目』(日本書誌学大系、1998年、青裳堂書店) - 安永3年(1774年)から没後の天保年間末(1840年代)まで800点以上の書目が挙げられている。

・「蔦屋重三郎の仕事」(別冊『太陽』、1995年、平凡社)

佐藤薫「写楽と秋田藩」(伊藤公一大阪大学名誉教授退職記念論集 帝塚山法学)



関連書籍
吉田漱 『浮世絵の基礎知識』 雄山閣、1987年 ※154 - 155頁

松木寛『蔦屋重三郎 江戸芸術の演出者』日本経済新聞社、1988年 のち講談社学術文庫

小林忠 大久保純一 『浮世絵の鑑賞基礎知識』 至文堂、1994年 ※210頁

倉本初夫『探訪・蔦屋重三郎 天明文化をリードした出版人』れんが書房新社 1997年

・鈴木俊幸『蔦屋重三郎』若草書房、1998年 のち平凡社ライブラリー

矢嶋道文監修『忠臣蔵蔦屋重三郎 江戸風雲録』文化図書 2011年

増田晶文『稀代の本屋 蔦屋重三郎』草思社 2016年
 

関連項目

カルチュア・コンビニエンス・クラブ - 書店・レンタルビデオ大手TSUTAYAの運営企業。2019年現在、TSUTAYAの名の由来のひとつとして蔦屋重三郎にあやかったことを挙げている。しばしば「越後屋」と「三越百貨店」との関係同様数百年来の血脈・組織資本を同社が直接受け継いでいると利用客から誤解を受けることがある。

モーニング (漫画雑誌) - 重三郎を主人公とした漫画「じょなめけ」が連載された(2007年-)。

フランキー堺 - 1995年篠田正浩監督映画『写楽』で企画総指揮を務めると同時に、重三郎を自ら演じた。

外部サイト
書評『蔦屋重三郎』
(wikiより)

 

蔦屋重三郎

 

 

 

 

高倉 健[注釈 1](たかくら けん、1931年昭和6年〉2月16日 - 2014年平成26年〉11月10日)は、日本俳優歌手。愛称、健さん。身長180cm[1]、体重71kg血液型B型[1]。高倉プロモーション所属。


福岡県中間市出身[2]1998年紫綬褒章2006年文化功労者2013年には文化勲章を受章した。

生涯
俳優になるまで
1931年2月16日福岡県中間市の裕福な一家に生まれる。父は旧海軍の軍人で、炭鉱夫の取りまとめ役などをしていた[3]。母は教員だった。幼少期の高倉は、肺を病み、虚弱だった。終戦を迎えた中学生の時、アメリカ文化に触れ、中でもボクシング英語に興味を持った[3]。学校に掛け合ってボクシング部を作り、夢中になって打ち込み、戦績は6勝1敗だった[3]。英語は小倉米軍司令官の息子と友達になり、週末に遊びに行く中で覚え、高校時代にはESS部を創設して英語力に磨きをかけた[3]旧制東筑中学福岡県立東筑高等学校全日制課程商業科を経て、貿易商を目指して明治大学商学部商学科へ進学。在学中は相撲部のマネージャーを1年間務めていた。


1955年に大学時代の知人のつてで、当時、美空ひばりが所属していた新芸プロのマネージャーになるため喫茶店で面接を受けたが、居合わせた東映東京撮影所の所長で映画プロデューサーマキノ光雄にスカウトされ、東映ニューフェイス第2期生として東映へ入社。マキノ雅弘は「高倉は山本麟一と同じ、高倉の明大の先輩で東映のプロデューサーだった光川仁朗の口利きで東映入りした」と話している[4]。同期には今井健二丘さとみ、岡田敏子、五味龍太郎らがいた。
 

スターへの道のり
ニューフェイスは映画デビューまでに俳優座演技研究所で6か月の基礎レッスン、さらに東映の撮影所で6か月の修行(エキストラ出演など)を経験することが決められていたが、俳優座研究所では「他の人の邪魔になるから見学していてください」と云われる落ちこぼれだったという[5]。しかし採用から1か月半で主役デビューが決定、その際にマキノの知人から「高倉健」と芸名をつけられる。本人はシナリオに書かれてあった主人公の役名「忍勇作」が気に入り、「これを芸名に」と希望したが却下され、嫌々ながらの芸名デビューともなった。演技経験も皆無で、親族に有名人や映画関係者がいるわけでもない無名の新人だったが、翌1956年の映画『電光空手打ち』で主役デビュー。元々俳優を目指していた訳ではなかったことから、初めて顔にドーランを塗り、化粧をした自分を鏡で見た時、情けなくて涙が止まらなかったという。


アクション喜劇刑事ギャング青春もの戦争文芸作品ミステリなど、幅広く現代劇映画に主演・助演して、東映の期待は大きかったが、その後の作品はどれも当たらなかった[6]片岡千恵蔵中村錦之助美空ひばりの映画などにも助演していた。美空の主演シリーズ『べらんめえ芸者』の2作目から、岡田茂は相手役に高倉を選び、知名度を上げ人気を高めようとした[6]。しかし芝居の硬さが目立ち、見え隠れする暗い陰や低音の声もあいまって、派手さや洗練さに欠ける地味で暗い雰囲気が漂った[6]。粋さが求められる同シリーズで、美空は高倉と組まされ続けることに不満であった[6]。燻り続ける高倉に岡田は「今の路線ではダメだから、アクションスターになれ。あなたほどの立派な顔だったら、スターになれるよ」と日活から引き抜いた井上梅次の『暗黒街最後の日』など、アクション映画に出演させた[7][8]。岡田は話すより高倉の立ち姿に魅力があると踏み、台本に目を通し「高倉のセリフをどんどんカットしろ」と指示した[9]。本人は自らを厳しく律してを飲まず、筋力トレーニングを続けていた。
 

任侠映画
1963年に『人生劇場 飛車角』で高倉は準主役に抜擢された[10][11][12][13][14]。本格的な大作の準主役は初の抜擢ばってきだった[15]。高倉は本作で任侠映画のスターとしての足掛かりをつかむが[11]、さらに翌1964年の『日本侠客伝』では降板した中村錦之助に代わり、高倉が主演し[16][17]、寡黙な立ち姿と目力が任侠シリーズでその威力を発揮した[9][11][17][18][19]


これ以降、仁侠映画を中心に活躍[10][20][21]、耐えに耐えた末、最後は自ら死地に赴くやくざ役を好演し、ストイックなイメージを確立した[22]。本作を切っ掛けに、翌1964年から始まる『日本侠客伝シリーズ』、1965年から始まる『網走番外地』シリーズ、『昭和残侠伝シリーズ』などに主演し東映の看板スターとなる[10][22][23][24]


『網走番外地』シリーズの主題歌(同タイトル)は、のちに歌詞の一部が反社会的であるとの理由で一時は放送禁止歌になったが公称200万枚を売り上げ[25]1966年には『昭和残侠伝』シリーズの主題歌『唐獅子牡丹』も大ヒットし、今も、カラオケなどで歌い継がれている[注釈 2]


70年安保をめぐる混乱という当時の社会情勢を背景に、「鍛えられた体の背筋をピンと伸ばし、寡黙であり、不条理な仕打ちに耐え、言い訳をせずに筋を通し、ついには復讐を果たす」という高倉演じる主人公は、サラリーマン学生運動に身を投じる学生を含め、当時の男性に熱狂的な支持を集め、オールナイト興行にまでファンが溢れ、立ち見が出たほどであった。他のスターとは一線を画した印象を示したことが、大ヒットシリーズ連発の一因であったが[10]、本人は年間10本以上にも及ぶ当時のハードな制作スケジュール、毎回繰り返される同じようなストーリー展開、という中で心身ともに疲弊し、気持ちが入らず不本意な芝居も多かったという。そうした中で、何度か自ら映画館に足を運んだ際、通路まで満員になった観客がスクリーンに向かって喝采し、映画が終わると主人公に自分を投影させて、人が変わったように出ていくさまを目の当たりにし、強い衝撃を受けたという。これについて「これ、何なのかな……と思ったことあるよ。わかりません、僕には。なんでこんなに熱狂するのかな、というのは。だからとっても(映画というのは)怖いメディアだよね。明らかに観終わった後は、人が違ってるもんね。」と、当時の様子を客観視し語っている[注釈 3]。当時の風貌は、劇画ゴルゴ13』の主人公・デューク東郷のモデルにもなり、同作の実写映画版への出演は、原作者のさいとう・たかをたっての要望であったという[注釈 4]


60年代半ばの東映による任侠映画ワンパターン量産体勢は高倉を疲弊させ、結果的に気持ちが入らない不本意な演技が見られるようになった[27]。高倉がそれでも「定番」を演じ続けたのは、劇場で目の当たりにした観客の反応があったからである[27]

独立
映画『カミカゼ野郎 真昼の決斗』 (1966年にんじんプロダクション / 國光影業) を皮切りに、ハリウッド映画や東映以外の作品に出演する一方、1970年「ヤクザ映画にも出演し続けるが、好きな映画を作る自由も認めてほしい」と、東映社長・大川博の了承をもらい、高倉プロを設立する[28][29]。しかし翌1971年8月に大川が死去。社長が岡田茂に代わり、特例は認めないと反故にされた[28][30]


この間、1970年に自宅が全焼する。


1972年11月、高倉の海外旅行が「高倉健 蒸発」「仕事を放り出して蒸発することで、高倉プロを認めさせる最後の手段に出た」と報道された[28][31]。帰国した高倉は「僕はそんな手段を使って、会社とやり合うようなケチな根性は持ってない」と説明したものの[28][31]1973年には『仁義なき戦い』がヒットすると[32]、岡田は「鶴田浩二も高倉健もしばらく止めや」[33]実録路線に変更したため[31][34]、高倉と岡田の関係は悪化[35][36]。「このまま東映にいたら、ヤクザ役しかできなくなる」という危機感も加わり[37]、東映作品の出演を拒みだすようになってしまう[28]。そんな矢先に当時海外で流行中だったパニック映画に触発され東映が企画していた大作『新幹線大爆破』の台本を手にする。本作の企画の面白さに高倉は新幹線に爆弾を取り付ける犯人グループの主犯・沖田哲男役を希望し本作の主演を務めることとなる。高倉がこれまで演じてきた役柄とは大きく異なるキャラクターではあったが、従来のイメージを一新するステップアップ作となり、また海外にも輸出され本作はヨーロッパで空前の大ヒット作となる。その後、高倉は1976年に東映を退社[35][36][38]、本数契約となった[39]。出たら俳優を続けることはできないかもしれないと引退覚悟の決断であった[40]


フリー転向後、同年の映画『君よ憤怒の河を渉れ』(永田プロ / 大映) にて主演。10年以上、出演し続けた仁侠映画のイメージから脱却した。1977年には『八甲田山』、『幸福の黄色いハンカチ』の2作品に主演し、第1回日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞と、第20回ブルーリボン賞の主演男優賞のダブル受賞に輝いた。これ以後も数々の作品に出演し、合計4度の日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞、2度のブルーリボン賞の主演男優賞に輝いている。これと前後してアメリカ映画中国映画などの海外作品にも出演しており、1998年には紫綬褒章を受章した。一方でテレビドラマへの出演は1977年の初主演作『あにき』をはじめ、5作品である[41]。その出演理由も「故郷にいる母親に、テレビで毎週自分の顔を見て安心して欲しいから」というものである。CMにも数多く出演しているが、富士通のパソコンFMVのCMでは『幸福の黄色いハンカチ』で夫婦を演じた倍賞千恵子と再び夫婦役で共演、コミカルな演技を見せた。1989年7月に母親が死去するが、『あ・うん』の撮影中だった高倉は、スタッフの葬儀参加のすすめをことわり、そのまま映画撮影に参加を続けた。


1994年前後にハリウッド映画『ブラック・レイン』で一緒に仕事をしていたヤン・デ・ボンがハリウッド版『ゴジラ』の監督に就任した際に劇中に登場する日本人科学者役を高倉にオファーし快諾、ハリウッドに渡米してスクリーンテスト撮影を行い日本のメディアでも報じられるなど出演する準備を整えていた。しかし当時の制作会社だったトライスター・ピクチャーズが制作予算の懸念からヤン・デ・ボンを監督から降ろす処置を取ったため高倉も出演を取りやめている。


2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・男優編」で日本男優の4位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター男優」では第2位になった。


2006年4月2日の『世界遺産』(TBS)で初めてナレーションを務めた。
 

晩年
2006年4月に北京電影学院客員教授に就任。同年11月に行われた天皇・皇后両陛下主催の文化勲章受章者・文化功労者を招いたお茶会に出席[42]


2012年8月、前作『単騎、千里を走る。』から6年ぶり、205本目の主演作品となる映画『あなたへ』で銀幕復帰。

11月27日、本作により「第37回報知映画賞」主演男優賞を受賞した。高倉の同映画賞での受賞は1977年に『八甲田山』、『幸福の黄色いハンカチ』で主演男優賞を受賞して以来、35年ぶりである[43]。本作では12月6日に発表された「第25回日刊スポーツ映画大賞・石原裕次郎賞」でも主演男優賞を受賞。作品は石原裕次郎賞を受賞した。2013年1月22日に発表された日本アカデミー賞優秀主演男優賞にも選出されたが、「若い人に譲りたい」との理由で、これは辞退している。受賞辞退は2002年の『ホタル』以来2度目となる。10月10日には「五十有余年におよぶ活躍と、孤高の精神を貫き、独自の境地を示す映画俳優としての存在感」により、第60回 菊池寛賞に選出された。授賞式は欠席し、代理人を通じて「思いがけない受賞で驚いています。非常に光栄です。ありがとうございます」とのコメントを寄せた[44]


2013年10月25日、政府は高倉を含む5人に文化勲章を授与することを決定[45]11月3日、皇居で親授式が行われた[46]。親授式後の記者会見で高倉は、「日本人に生まれて本当によかったと、今日思いました」と述べている[47][48]。また、この受章については親授式前の10月にも、「今後も、この国に生まれて良かったと思える人物像を演じられるよう、人生を愛する心、感動する心を養い続けたいと思います。」とのコメントを発表している[5]


主演となる次回作の映画『風に吹かれて』の準備をしていたが[49]2014年11月10日午前3時49分、悪性リンパ腫のため東京都内の病院で死去[50][51]。5年ほど前に前立腺癌で手術を受けて寛解したものの、その定期検査で悪性リンパ腫が発見されて療養していた[49]。「入院中の姿を見せたくない」と親しい関係者だけにしか知らせておらず[注釈 5]、容体が急変して意識不明になったのは亡くなる数日前で安らかな笑顔で旅立っていた[49]。満83歳没。高倉の遺志により近親者によって密葬が執り行われ[53]、終わった同月18日に高倉プロモーションから「往く道は精進にして、忍びて終わり悔いなし」の言葉が添えられたFAXでその死が発表された[49][50][53]

詳しいことは、「高倉 健ウイキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%80%89%E5%81%A5
(wikiより)

 

⇧ 高倉健

 

鎌倉霊園にあった高倉健のお墓 ⇩

 

 

 

 

 

⇧ 江利チエミさんとの、お子様のお墓です。

 

 

 2021年 2月 27日 鎌倉霊園再訪

な、なんとお墓が無くなってる!!

 

 

それからしばらくして・・・

 

材木座・光明寺に・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

宗英寺墓域の片隅に、「鮎川千女」「梅相容寒信女」と刻まれた墓石があります。
 
せん、という名の女性の墓であります。

 
せん。享年17。
 
許嫁であった鮎川市左衛門がある事件に連座して切腹の刑に処せられたため、まだ夫婦の契りを交わす前だったにもかかわらず、

「忠君は二君に仕えず、貞女は二夫にまみえず」
 という遺書を残して自ら命を絶ったのです。
 
以降、せんは貞女の鑑として会津人の口端に語り継がれ、彼女の墓に香華の絶えることもなかったのですが・・・

 
この、せんの許嫁である鮎川市左衛門が如何なる罪状で切腹に処せられたかというと。

 
承応元年(1652)1月10日の朝、本二ノ丁鈴木杢之助宅前の側溝で、安武太郎右衛門という若い藩士の惨殺死体が発見されました。
 
死因は、太郎右衛門自身の脇差で右脇下から左脇下まで刺し貫かれたことによる失血死ですが、犯人はあろうことか絶命した太郎右衛門の顔の皮をはぎ、尚且つ肛門から喉まで刀を刺し貫いたままにしておく、という残酷極まりないことをしているのです。
 
この猟奇殺人に、藩当局は全力をもって真相解明に努めました。
 
その結果、捕えられたのが、鮎川市左衛門ら 5名だったのです。
 
 
事件の動機は、恋のライバルの抹殺です。
 
しかも、それはどうやら衆道だったらしく、町野権三郎という美青年をめぐって安武太郎右衛門と宮本四郎左衛門が激しく争い、ついに宮本が阿武を殺害するに及んだとのこと。
 
男色における嫉妬心は、相手が女性の場合よりもはるかに激しいものになるらしいです(^_^;) おそらく、権三郎の好意は、安武のほうにより多く向けられていたんでしょうねえ。

 
鮎川市左衛門は恋の当事者でなかったようですが、宮本と同じグループにいたことが不運を招いたのかもしれません。

 
ちなみに、藩当局はこの不祥事を表沙汰にしないため、宮本や鮎川には今回の殺人事件とはまるで無関係な別件によって処罰を申し渡しています。

 
そんな思いもよらないことで許嫁を失い、自らも命を絶つしかなかった「せん」が哀れです。

 
戦前くらいまでは訪れる人も少なくなかった「せん」の墓も、昨今は忘れ去られて物寂しい限りとのこと。
 
宗英寺を訪れることがあれば、是非「せん」の墓にも手を合わせてきてほしいと思う今日この頃です。



 この記事は、「呆嶷館 私設会津部屋分室」様のサイトより御許しを頂いて引用させて頂きました。

 

 

⇧ 鮎川市左衛門・せん墓所全景

 

 

⇧ 鮎川市左衛門墓 ( 左 )

 

 

⇧ 本安宗心信士

 

 

⇧⇩ 鮎川市左衛門

 

 

 

⇧ 鮎川市左衛門墓石

 

 

⇧ せん墓 ( 右 )

 

 

⇧⇩ 梅相容寒信女

 

 

⇧ 鮎川千女

 

 

⇧ せん墓石

 

ジャッキー佐藤(じゃっきーさとう、本名:佐藤 尚子(さとう なおこ)、1957年10月30日 - 1999年8月9日)は、日本の元女子プロレスラー神奈川県横浜市港南区出身。

経歴

川崎市立桜本小学校在校時から長身で、横浜市立浜中学校在学中はバスケットボール部で活躍。その後結局は1975年3月に神奈川県立商工高等学校を2年で中退し全日本女子プロレスに入門。デビュー戦は同年4月27日のマキ上田戦。 1976年2月24日にマキとビューティ・ペアを結成しWWWA世界タッグ王座を獲得した。ビューティ・ペアは「かけめぐる青春」「真赤な青春」「青春にバラはいらない」などの曲が大ヒットする。当時のビューティ・ペア人気は凄まじく、試合前のリングで歌を披露する際はリングに紙テープや紙吹雪がいっぱいになった。

 

 

荒川区南千住・回向院にある「カール・ゴッチ」のお墓です

 

カール・ゴッチKarl Gotch、本名:Krel Alfons Ceclie Istaz / Karl Istaz1924年8月3日 - 2007年7月28日)は、プロレスラーおよびプロレスのトレーナー。


1961年までは、カール・クラウザーKarl Krauser)のリングネームを名乗っていた。


プロフィール上はドイツハンブルク出身とされているが、実際はベルギーアントワープ出身と言われている。