宗英寺墓域の片隅に、「鮎川千女」「梅相容寒信女」と刻まれた墓石があります。
せん、という名の女性の墓であります。
せん。享年17。
許嫁であった鮎川市左衛門がある事件に連座して切腹の刑に処せられたため、まだ夫婦の契りを交わす前だったにもかかわらず、
「忠君は二君に仕えず、貞女は二夫にまみえず」
という遺書を残して自ら命を絶ったのです。
以降、せんは貞女の鑑として会津人の口端に語り継がれ、彼女の墓に香華の絶えることもなかったのですが・・・
この、せんの許嫁である鮎川市左衛門が如何なる罪状で切腹に処せられたかというと。
承応元年(1652)1月10日の朝、本二ノ丁鈴木杢之助宅前の側溝で、安武太郎右衛門という若い藩士の惨殺死体が発見されました。
死因は、太郎右衛門自身の脇差で右脇下から左脇下まで刺し貫かれたことによる失血死ですが、犯人はあろうことか絶命した太郎右衛門の顔の皮をはぎ、尚且つ肛門から喉まで刀を刺し貫いたままにしておく、という残酷極まりないことをしているのです。
この猟奇殺人に、藩当局は全力をもって真相解明に努めました。
その結果、捕えられたのが、鮎川市左衛門ら 5名だったのです。
事件の動機は、恋のライバルの抹殺です。
しかも、それはどうやら衆道だったらしく、町野権三郎という美青年をめぐって安武太郎右衛門と宮本四郎左衛門が激しく争い、ついに宮本が阿武を殺害するに及んだとのこと。
男色における嫉妬心は、相手が女性の場合よりもはるかに激しいものになるらしいです(^_^;) おそらく、権三郎の好意は、安武のほうにより多く向けられていたんでしょうねえ。
鮎川市左衛門は恋の当事者でなかったようですが、宮本と同じグループにいたことが不運を招いたのかもしれません。
ちなみに、藩当局はこの不祥事を表沙汰にしないため、宮本や鮎川には今回の殺人事件とはまるで無関係な別件によって処罰を申し渡しています。
そんな思いもよらないことで許嫁を失い、自らも命を絶つしかなかった「せん」が哀れです。
戦前くらいまでは訪れる人も少なくなかった「せん」の墓も、昨今は忘れ去られて物寂しい限りとのこと。
宗英寺を訪れることがあれば、是非「せん」の墓にも手を合わせてきてほしいと思う今日この頃です。
※ この記事は、「呆嶷館 私設会津部屋分室」様のサイトより御許しを頂いて引用させて頂きました。
⇧ 鮎川市左衛門・せん墓所全景
⇧ 鮎川市左衛門墓 ( 左 )
⇧ 本安宗心信士
⇧⇩ 鮎川市左衛門
⇧ 鮎川市左衛門墓石
⇧ せん墓 ( 右 )
⇧⇩ 梅相容寒信女
⇧ 鮎川千女
⇧ せん墓石