蔦屋重三郎碑(台東区東浅草1-1-15・正法寺) | HONMOKU JACK - Honky Tonk Gang.

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ジャンルに拘らず 昔懐かしい音楽動画を貼り付けたりしたいと思います。

〇 原文

喜多川柯理墓碣銘

 

喜多川柯理本性姓丸山称蔦屋重三郎

 

父重助母広瀬氏

 

寛延三年庚午正月初七日

 

生柯理於江戸吉原里

 

幼為喜多川氏所養

 

為人志気英邁

 

不修細節

 

接人以信

 

嘗於倡門外闢一書舗

 

後移居油街

 

乃迎父母奉養焉

 

父母相継而歿

 

柯理廓産業

 

一倣陶朱之殖

 

其巧思妙算

 

非他人所能及他

 

遂為一大賈

 

丙辰秋得重病獮月危篤

 

寛政丁巳夏五月初六日謂人日

 

吾亡期在午時

 

因処置家事決別妻女

 

而至午時笑又日

 

場上未撃柝何其晩也

 

言畢不再言

 

至夕而死

 

齢四十八歳

 

葬山谷正法精舎

 

予居相隔十里

 

聞此訃音心怵神驚

 

豈不悲痛哉

 

吁予霽壌間一罪人

 

餘命惟怙知己之恩遇而巳

 

今既如比

 

嗚呼命哉

 

 銘日

 

人間常行 軾在稗史 

通邑大都 孰不知子

 

                   石川雅望 

                   大田南畝
(石碑文より)

はIMFパッドを使っても該当しなかった文字です。

〇 
喜多川柯理 ( からまる ) 墓碣銘 ( 墓碣・ぼけつ 円柱の石碑の意 )

 

喜多川柯理 ( からまる ) 本姓 ( 生家の苗字 ) 丸山、蔦屋重三郎と称する。

 

父は重助、母は広瀬氏。

 

寛延三年庚午一月七日江戸吉原の里に生まれる。

 

幼くして喜多川氏の養子になる。

 

その人となりは志、人格、才知が殊に優れ、小さな事を気にもかけず、人には信順をもって接した。

 

吉原大門の外に一軒の書店を開き、後に通油町に移転、父母を迎えて厚く養ったが、その父母も相次いで亡くなった。

 

柯理は廓 ( 吉原 ) の産業を盛んにして自らも一廉の財をなした。

 

その巧思妙算 ( 発想力や人を結びつける力と世事物事を見通す計算高さ ) は他の及ぶところなく頭抜けていて、ついに耕書堂という大店を成すこととなった。

 

丙辰の年の秋に重病を得て一ヶ月後危篤となる。

 

寛政丁巳の年の夏、五月六日にこう言った「私は今日の昼時には死ぬよ」身の回りの始末をし妻と別れの言葉を交わし、昼時になり笑ってまた言った

「自分の人生は終わったはずなんだが ( 芝居の終演に鳴らす ) 拍子木がならない。ずいぶん遅いな。」言い終わった後はもう言葉を発することはなく夕刻になって亡くなった。

 

齢四十八歳。

 

山谷の正法精舎 ( 当山正法寺 ) に葬られた。

 

自分は十里を離れたところに居てこの訃報を聞き畏れの心と共に心底驚いた。まさに悲痛の極みである。

 

まあ私などただの霽壌間の一罪人に過ぎぬ身である、そんな余生を君と知り合うことのできた恩遇と共に過ごしていくこととしよう、今はこんな気持ちである。ああ命の儚さよ。

 

銘日 人間常行 軾在稗史 通邑大都 孰不知子

 

                        石川雅望 大田南畝

〇 原文

実母顕彰の碑文

 

広瀬氏者書肆耕書堂母也

 

諱津与江戸人

 

帰尾陽人丸山氏

 

生柯理而出

 

柯理幼冒北川氏称蔦屋重三郎

 

其居近倡門

 

天明三年癸卯九月移居城東通油町而開一書肆

 

競刻快書大行

 

都下之好稗史者称耕書堂

 

寛政四年壬子十月廿六日広瀬氏病死葬城北山谷正法寺

 

癸丑二月柯理來未聞出曲中而起業者也

 

子之志渝則蓋足以観母氏之遺教矣

 

銘日小説九百母徳可摘

 

寛政丑莫春南畝子題
(石碑文より)

〇 

実母顕彰の碑文

 

広瀬氏は本屋耕書堂 ( 蔦屋重三郎 ) の母、諱 ( いみな ) は津与、江戸の人である。

 

尾陽の人丸山氏に嫁ぎ柯理 ( からまる 蔦屋重三郎 ) を生みのち離縁する。

 

 柯理は幼くして喜多川氏の養子となり蔦屋重三郎と称する。

 

その住まいは吉原大門のそばにあった。

 

天明三年癸卯の年九月に城東の通油町に居を移し書店を開く。

 

商売を競って優れた本を次々に出版し大いに繁盛、江戸の言い伝えでは皆その店を耕書堂と呼んだという。

 

寛政四年壬子の年十月二十六日、広瀬氏病死し城北の山谷正法寺に葬られた。

 

癸丑の年二月、柯理が来て言うには「私は七歳で母と別れさみしい思いをしたが後に再会し一緒に暮らすことができて今の自分がある。願わくば片言の言葉を墓に捧げてその苦労に報いてやりたい。」私はこう言った「あなたは ( 寛政の改革による弾圧で ) 破産し獄中にもあった、なのにそんな逆境を乗り越え起業を成した。そんな人物が他にいるだろうか。子のすべき行いとは、母の遺した教えを変えることなく大切にし努力する事である ( だから蔦屋重三郎は成功したのだろう )」


蔦屋重三郎
 

蔦屋 重三郎(つたや じゅうざぶろう、寛延3年1月7日1750年2月13日) - 寛政9年5月6日1797年5月31日))は、江戸時代版元出版人)である。朋誠堂喜三二山東京伝らの黄表紙洒落本喜多川歌麿東洲斎写楽浮世絵などの出版で知られる。「蔦重」ともいわれる。狂歌名を蔦唐丸(つたのからまる)と号し、歌麿とともに吉原連に属した。

人物
父(丸山氏)は江戸の吉原遊廓の勤め人だったという。寛延3年(1750年)、重三郎も吉原に生まれ、のちに喜多川氏の養子になった。「蔦屋」は喜多川氏の屋号であり、吉原の茶屋といわれる。また、「耕書堂」とも号した。安永2年(1773年)、重三郎は吉原大門の前に書店を開き、はじめは鱗形屋孫兵衛に独占されていた吉原細見(店ごとに遊女の名を記した案内書)の販売、出版から出版業に関わっていった。安永3年(1774年)に遊女評判記『一目千本』、翌安永4年(1775年)に吉原細見『籬の花』を出版している。後に通油町、横山町1丁目、小伝馬町2丁目、浅草並木町、嘉永頃に浅草寺中梅園院地借り市右衛門店に移った。


安永9年(1780年)に売れっ子作家・朋誠堂喜三二の黄表紙を出版したのを手始めに本格的に出版業を拡大。かねてから付き合いのあった狂歌師[1]たちや絵師たちを集め、それまでにない斬新な企画を統括し(現代で言うプロデューサー業)、洒落本や狂歌本などでヒット作を次々に刊行した。天明3年(1783年)には丸屋小兵衛の株を買取り一流版元の並ぶ日本橋通油町に進出、洒落本黄表紙狂歌本絵本錦絵を出版するようになる。浮世絵では喜多川歌麿の名作を世に送ったほか、栄松斎長喜東洲斎写楽などを育てている。また、鳥居清長渓斎英泉歌川広重らの錦絵を出版している。


しかし自由な気風を推し進めていた田沼意次に代わり老中となった松平定信による寛政の改革が始まると、娯楽を含む風紀取締りも厳しくなり、寛政3年(1791年)には山東京伝の洒落本・黄表紙『仕懸文庫』、『錦の裏』、『娼妓絹籭(しょうぎきぬぶるい)』が摘発され重三郎は過料により財産の半分を没収、京伝は手鎖50日という処罰を受けた。


その後も、寛政6年(1794年)には東洲斎写楽の役者絵を出版するなどしていたが、寛政9年(1797年)に48歳で没。脚気であったという。


面倒見がよく、また人の才能を見抜く術を心得ていたといわれている。写楽をはじめ曲亭馬琴十返舎一九など重三郎の世話を受けた人物は数多い。


なお、2代目は番頭の勇助が継いでおり、初代同様、狂歌本を多数出版した。享和2年(1802年)に葛飾北斎の狂歌本『潮来(いたこ)絶句集』を出版すると、装丁が華美ということで処罰された。耕書堂は5代、明治初期まで続いた。
 

作品
・北尾重政 『一目千本花すまひ』 吉原細見 安永3年(1774年)

・鳥居清長 「雪月花東風流」 中判 錦絵揃物 天明末ころ

・喜多川歌麿 『身貌大通神略縁起』 黄表紙 志水燕十作 天明1年(1781年)

・喜多川歌麿 『画本虫撰』 絵入狂歌本 天明8年(1788年)

・喜多川歌麿 「婦女人相十品」 大判 錦絵揃物 寛政3年‐寛政4年頃

・北尾政演 『錦之裏』 洒落本 山東京伝作 寛政3年(1791年)

・喜多川歌麿 「歌撰恋之部」 大判 錦絵揃物 寛政5年頃

・栄松斎長喜 「四季美人」 大判 錦絵揃物 寛政中期

・東洲斎写楽の版画全作品 寛政6年5月 - 寛政7年1月

・北尾重政、葛飾北斎、鳥文斎栄之ほか 『男踏歌』 絵入狂歌本 寛政10年(1798年)

・渓斎英泉 「新吉原八景」 大判8枚揃 錦絵 文政初期

・歌川広重 「諸国六玉河」 横大判6枚揃 錦絵 天保6年(1835年)‐天保7年(1836年)

・歌川広重 「膝栗毛道中雀」 横大判 錦絵揃物

2代歌川国輝 「東京築地ホテル館」 大判3枚続 錦絵
 

注釈
1. 天明年間は田沼時代とよばれ、江戸市中は潤沢な資金により商人隆盛の豊かな時期が続き、娯楽として狂歌が大流行していた。

参考資料
鈴木俊幸『蔦重出版書目』(日本書誌学大系、1998年、青裳堂書店) - 安永3年(1774年)から没後の天保年間末(1840年代)まで800点以上の書目が挙げられている。

・「蔦屋重三郎の仕事」(別冊『太陽』、1995年、平凡社)

佐藤薫「写楽と秋田藩」(伊藤公一大阪大学名誉教授退職記念論集 帝塚山法学)



関連書籍
吉田漱 『浮世絵の基礎知識』 雄山閣、1987年 ※154 - 155頁

松木寛『蔦屋重三郎 江戸芸術の演出者』日本経済新聞社、1988年 のち講談社学術文庫

小林忠 大久保純一 『浮世絵の鑑賞基礎知識』 至文堂、1994年 ※210頁

倉本初夫『探訪・蔦屋重三郎 天明文化をリードした出版人』れんが書房新社 1997年

・鈴木俊幸『蔦屋重三郎』若草書房、1998年 のち平凡社ライブラリー

矢嶋道文監修『忠臣蔵蔦屋重三郎 江戸風雲録』文化図書 2011年

増田晶文『稀代の本屋 蔦屋重三郎』草思社 2016年
 

関連項目

カルチュア・コンビニエンス・クラブ - 書店・レンタルビデオ大手TSUTAYAの運営企業。2019年現在、TSUTAYAの名の由来のひとつとして蔦屋重三郎にあやかったことを挙げている。しばしば「越後屋」と「三越百貨店」との関係同様数百年来の血脈・組織資本を同社が直接受け継いでいると利用客から誤解を受けることがある。

モーニング (漫画雑誌) - 重三郎を主人公とした漫画「じょなめけ」が連載された(2007年-)。

フランキー堺 - 1995年篠田正浩監督映画『写楽』で企画総指揮を務めると同時に、重三郎を自ら演じた。

外部サイト
書評『蔦屋重三郎』
(wikiより)

 

蔦屋重三郎