[Intermission]「理由はひとつ、彼が石原慎太郎であったことだ」…東京都知事選の歴史
石原はなぜ負けた?「理由はひとつ、彼が石原慎太郎であったことだ」東京都知事選三大名勝負
http://www.excite.co.jp/News/reviewbook/20121204/E1354585821962.html
(エキサイトニュース 2012年12月4日 11時00分)
管理人より。
最初にお断りしておくが、見出しに反し当該引用記事は石原慎太郎・元都知事/日本維新の会代表を誹謗中傷する数多の文章のひとつ、ではない。表題は1975年の、美濃部亮吉と石原慎太郎(当時42歳)の実質2人の対決で、美濃部が都知事3期目を勝ち取った都知事選の結果を踏まえ、ノンフィクション作家の沢木耕太郎(当時27歳)が発した言葉である。
この記事で近藤正高氏が、三島由紀夫『宴のあと』を引き合いに出し、過去の都知事選と都知事を振り返った記事がなかなか興味深い。というか、こういった内容を積極的にアップしたいと願う管理人は羨ましくも思うのだが…。
ライター情報:近藤正高
1976年生まれ。サブカル雑誌の編集アシスタントを経てフリーのライターに。著書に『私鉄探検』(ソフトバンク新書)、『新幹線と日本の半世紀』(交通新聞社新書)。一見関係なさそうなもの同士を関係づけてみせる“三題噺”的手法を得意とする。愛知県在住。 ※エキサイトニュースより。
ツイッター/@donkou ブログ/Culture Vulture
先週木曜(11月29日)に東京都知事選挙が告示されたのに続き、本日(12月4日)、衆議院議員総選挙が公示された。まさか10月25日に石原慎太郎前知事が知事職の辞任を表明した時点で、衆院選とのダブル選挙になるとはほとんどの人が思わなかったことだろう。
ちなみに、東京都知事が任期途中で辞任することは今回が初めてだ。都知事選の時期も、戦後まもない1947年に「東京都知事」というポストが誕生して以来、その選挙はずっと4月に行なわれてきたので、12月の実施は異例といえる。
時期ばかりでなく、過去の都知事選からはいくつかのジンクスというか、共通する特徴が見出せる。これについて、佐々木信夫『都知事 権力と都政』には特徴として下記のような5つの事項があげられている。
【1】これまでに無競争当選は一度もなく、数名の有力候補とそれを取り巻く10人以上の候補者によって争われること。
【2】都知事が交代する場合、「親しみやすさが売りだった青島幸男から、強いリーダーシップを期待された石原慎太郎へ」という具合に、まったく違ったタイプの人物が選ばれること。
【3】一期しか務めなかった青島を除けば、歴代都知事はみな二期目(再選時)に最大得票を得ていること。
【4】初当選の年齢が高く、都知事を終える最終就任年齢は、先述の青島と初代都知事の安井誠一郎を除けばみな70歳に達していること。
【5】現職が立候補した場合、落選したケースはなく(ゆえに、都知事の交代は現職が退陣したときに限られる)、他道府県知事の経験者が都知事になったケースもいまのところない。
もっとも、これら特徴はあくまで過去の選挙がそうだったというだけの話で、くつがえされる可能性は十分あるわけだが。しかし第四の特徴のように、年齢を重ねた候補が選ばれるのは、やはり東京ならではという気もする。今回の選挙でも、9人の候補者のうちじつに7人が60歳以上だ。
それにしても、日本の首都のトップを決める選挙だけに、都知事選は東京都以外からも強い注目が集まる。大物、著名人同士の対決も少なくないことから、激戦となることも少なくない。そこでここからは、過去の東京都知事選から、とくに目立った対戦、トピックスを3本紹介したい。題して「東京都知事選三大名勝負」。これを読んでいただければ(さらに文中で紹介した本を読めば)、都知事選がより興味深いものになるのではないだろうか。
■1959年 東龍太郎vs.有田八郎――オリンピックとプライバシー
東龍太郎。
東の任期中に副都知事として、東以上の活躍をしたのがかの鈴木俊一なのは覚えておくべき歴史的事実である。
政治学者の御厨貴は、歴代の都知事を「実務性」か「象徴性」か、いずれに重きを置いたかで分類している(『東京 首都は国家を超えるか』)。…
これでいけば、内務省の官僚出身で、戦後復興に精力を注いだ初代都知事・安井誠一郎は「実務性」一本やりで3期12年を務めた。
これに対し、安井が後継に選んだ東龍太郎は日本のスポーツ医学の草分けであり、国際オリンピック委員会(IOC)の委員を務めた経験も持つ。おりしも東京は1964年のオリンピック開催をめざし招致活動の最中にあり、都知事選の翌月、1959年5月には開催地を決めるIOC総会を控えていた。東への後継指名は、まさにオリンピック招致、開催に向け、その「象徴性」を買われてのことであった。
東の最大のライバルは、社会党代議士で元外務官僚の有田八郎だった。有田はこの前回、1955年の都知事選にも立候補し、現職の安井に敗れたとはいえ善戦していた。戦前・戦中に4度外務大臣を務め、戦争末期には早期終戦を訴えたという有田の経歴は、社会党をはじめとする革新陣営を象徴するにふさわしいものであった。
しかしここにボタンの掛け違いが生じる。翌1960年の日米安全保障条約の改定を控え、社会党はイデオロギーの違いを争点とするべく有田を送り出したものの、一方の東陣営はイデオロギー対決を回避、オリンピックという明確な目標のもと、都市整備をしていくという方針を打ち出したのだ。果たして選挙は前回同様、接戦になったものの東が当選を果たした。都政の実務を副知事の鈴木俊一にゆだねた東は、当選直後、IOC総会出席のため外遊に出ている。もっとも、これがちょうど東の最初に手がける予算編成のさなかであったため、物議をかもしたのだが。
さて、1959年の都知事選のトピックスはオリンピックばかりではない。じつはこのときの選挙をモデルにした小説がある。それは三島由紀夫の『宴のあと』だ。
1960年に発表されたこの小説は、モデルとされる有田八郎がプライバシーの侵害だとして裁判に訴えたことで知られる(日本でプライバシーという言葉が定着したのも、この裁判がきっかけだとされる)。
たしかに、有田の妻が、経営する料亭を抵当に入れて資金をつくるなど物心両面で選挙を支援したことは、小説に書かれたとおりだった(落選ののち夫妻が離婚するのも同じ)。しかし小説と事実とはあくまで別物である。そもそも『金閣寺』など、三島の小説には実際の事件を素材にしたものは少なくないが、いずれも細かい部分では事実と異なるものばかりだ。作家の橋本治はここから、『宴のうた』(管理人注:原文ママ)裁判の原告はむしろ、《自分の顔と衣装を勝手に使われて、自分とはまったく違うものを提出されてしまった》からこそ、三島を訴えたのだという見方を示している(『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』)。…
とはいえ、『宴のうた』(管理人注:原文ママ)における主人公の料亭の女主人(福沢かづ)の、夫・野口雄賢の選挙戦中の言動を読むと、三島の現実政治に対する洞察力、予見性を感じずにはいられない。彼女が選挙に惜しげもなくカネを使うことや、あるいは自分の故郷の民謡として「佐渡おけさ」を歌って庶民の心をがっちりつかむところからは、どうしても三島の死後、首相となる田中角栄のことが思い浮かんでしまう。
■1975年 美濃部亮吉vs.石原慎太郎――太陽の“挫折”
ナイスミドルの印象が強く、女性人気が絶大だった美濃部亮吉。マルクス経済学の信奉者でもあった。またあまり知られていないが、東京都に歩行者天国をもたらしたのは美濃部である。
若りし頃の石原慎太郎そして三島由紀夫。
1963年に再選し、翌年の東京オリンピックを成功させた東だが、高度成長により発生したさまざまな都市問題に対しては後手後手にまわった。1967年の東京都知事選では、自民党が立教大学前総長の松下正寿を擁立したのに対し、社会党や共産党といった革新陣営は東京教育大学(筑波大学の前身)教授で経済学者の美濃部亮吉を立てた。結果はおりからの都議会の汚職事件から保守陣営に逆風が吹いたこともあり、美濃部が勝利する。それまでの都政が開発主導だったのに対し、美濃部は福祉重視をうたい、国に先駆けて老人医療の無料化を実現した。もちろん反発もなかったわけではなく、フォークグループのソルティー・シュガーのヒット曲「走れコウタロー」(1970年)では美濃部が実施した公営ギャンブル廃止が風刺されたりもした。
二期目をめざす1971年の選挙では、自民党推薦で立った前警視総監の秦野章が対立候補となった。このとき秦野陣営の応援に川端康成が駆けつけている。それまで政治からは距離を置いていたはずのノーベル賞作家の行動に、多くの人が首をかしげた。だが川端の応援の甲斐なく、選挙は美濃部の圧勝に終わる。
続く1975年の都知事選には、後ろ盾となる社会党と共産党が対立したこともあり、いったんは美濃部は出馬断念を表明している。だが、とある衆院議員が出馬を発表したことから一転、美濃部は3選のため動き出す。その相手とは誰あろう、石原慎太郎だ。当時71歳の美濃部に対し、42歳だった石原はことあるごとに若さと新旧交代を強調しながら選挙戦を戦った。
このときノンフィクション作家の沢木耕太郎(当時27歳)は、石原陣営について選挙の一部始終を見届け、「シジフォスの四十日」というルポ(『馬車は走る』所収)を書いている。そこでは石原の選挙支援のため集まった有名無名の人たちの姿が活写され、なかなか面白い。車に乗りつつ、町を行く人たちから票を入れてくれる人、入れてくれない人をずばずばと見定めていく選挙のプロがいるかと思えば、渡されたスケジュール表がどんなものであれ、毎日、最後の演説予定地では8時きっかりで終わるように選挙カーを到着させる運転手がいたり(渋滞の激しい東京では至難のわざだ)。…
石原陣営の参謀には、劇団四季の浅利慶太をはじめ牛尾治朗、香山健一、黒川紀章などといった経営者や文化人が集まっていた。沢木のルポでは、浅利の《「昭和六十年代」に自分たちの世代が世の中を動かす主体となるために、いま闘っておくことが必要だった》という言葉がとりあげられている。実際、1980年代に入り彼らが自民党政権のブレーンを務めることを思うと興味深い。
このように多士済々で活気に満ちた石原陣営に対し、美濃部の存在感はきわめて希薄であった。しかし勝ったのは美濃部であった。石原はなぜ負けたのか、沢木は《理由はひとつ、彼が石原慎太郎であったことだ》と書く。それを示すエピソードとして、選挙戦中のある日参謀たちと食事に出かけた石原が、店の庭でボーイと鉢合わせ、相手が譲ろうとしないのでついに「おまえ、ボーイだろ、どけよ!」と声を荒らげたという話が紹介されている。
で、その後石原が変わったかといえば、そうは思えない。1999年に彼は再出馬した都知事選でついに当選を果たすわけだが、これはよくいえば彼が「ぶれなかった」せいでもあるのだろう。
一方の美濃部の福祉政策は、1970年代の2度のオイルショックによる不況下にあって、財政を逼迫させた。1979年に彼は3期12年の任期をまっとうして退任するが、後任の知事には財政再建が最大の課題として残された。
■1991年 鈴木俊一vs.磯村尚徳――80歳現職、前屈で「若さ」をアピール
故・鈴木俊一。石原慎太郎は鈴木を「地方自治の星」とし自らの都政のモデルとしていた。当然築地移転は、鈴木より間接的に引き継がれた推進を行っていた。
都知事としての後期はその大規模開発が都の財源圧迫を誘発し「ハコモノ都政」の批判も浴びたりした。
1979年の都知事選では、内務省出身で、東知事時代に副知事を務めた鈴木俊一が、革新陣営の立てた太田薫を破り当選した。鈴木は就任まもなくして学者らを中心に「都財政再建委員会」を設置し、職員定数削減などの答申を得て行政改革を断行、就任3年で都財政の黒字を実現した。そのやり方も、現役の職員のクビを切るのではなく、退職などにより生じた欠員を補充しないという、比較的受け入れられやすい方法がとられた。鈴木自身も給料を半減することで、都職員や都民の理解を求めている。
財政再建を果たしたのち、2期目以降に彼が取り組んだのは大型開発であった。ちょうど時期的にバブル景気と重なったことも追い風となり、臨海副都心開発や、丸の内にあった都庁の新宿移転といった目玉政策が推進される。1991年の都知事選は、都庁移転後初めて行なわれる選挙となった。このとき鈴木は、自民党の小沢一郎幹事長から支持率の低さを理由に勇退を切り出されるが、これを突っぱね出馬を表明している。…
結局、自民・公明・民社の3党はNHK特別主幹だった磯村尚徳を擁立、対する鈴木陣営には都議会の自民・民社党議員や東京選出の国会議員が支援にまわるという、国政と都政の分裂選挙となった。
このとき80歳となっていた鈴木だが、高齢・多選批判を封じるため、ある議員の発案で、体をかがめ手を床につけて若さを訴えるパフォーマンスを披露し話題を呼んだ。毎朝欠かさず体操で鍛錬してきた成果であった。もっとも本人は《こんなやり方は、私には大して意味があると思えませんでしたが》とのちに語っている(読売新聞解説部『時代の証言者7』)。
一方の磯村は、庶民派アピールのため銭湯で人々の背中を流すというパフォーマンスを行なったものの、どうしてもわざとらしい印象がつきまとった。有権者はこういうことに敏感だったのだろう、軍配は“自然体”の鈴木に上がることになる。
だが前後してバブルは崩壊、臨海副都心開発に進出した企業があいついで撤退を表明するなど、鈴木都政の末期には財政悪化の兆候が現れ始める。1995年の都知事選では、鈴木が後継に指名した前内閣官房副長官の石原信雄に対し、臨界副都心で開催予定だった「世界都市博覧会」の中止を公約に掲げたタレントで前参院議員の青島幸男が勝利するにいたった。
「実務性」か「象徴性」か、「ハード重視」か「ソフト重視」か、「保守」か「革新」か……過去の都知事選は、さまざまな対立軸で争われてきた。しかし著名な候補者が乱立した1999年の都知事選以降、回を追うごとに対立軸が不明確になっている印象は否めない。今回にいたっては総選挙のほうにどうしても目がいきがちだ。
しかし都政の歴史を振り返れば、美濃部亮吉の福祉政策や鈴木俊一の財政再建など、国政に先んじた政策も少なくない。日本の先導役としての東京都知事が誰になるのか、東京都民でなくてもやはり注視する必要があることはたしかだ。(近藤正高)
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