1975年10月10日 映画「童貞」
劇場公開日:1975年9月20日
1975年製作 /90分 /松竹
この年の4月 会社に入社 社内研修やら販売応援と8月盆
休みまでは丁稚奉公が続き 9月末に 51名いた(大学・
高専)卒業の侵入社員は それぞれ振り分けられました。
私は工場勤務となり 10月の連休に 10名程度 振り分
けられた東京支店をぶらりとたずねました。行きの南海電車で
うとうとしていて難波でバッグがなくなっていました。
(まあ着替えだけなんで しょうないな)ちゅうことでその
まま東京に行き 東京支店の独身寮(中央線の武蔵小金井)
に泊めてもらい 新宿の△ビル(住友ビル)あたりをうろつ
いて やることないのでブラリと 映画館に入った。
五十嵐ジュン(淳子)て 引退したと聞いたのに、こんなち
ょいとセクシーな役もやるんやと 当時思いました。
<以下 五十嵐淳子の以外な経歴>(Wikipedia)より
五十嵐淳子はデビュー当初は、五十嵐じゅんとして清純派ムード
が愛され、男の子を中心に、人気を博していたが、週刊誌に銀座
の高級クラブでホステスとして働いていた過去を暴かれ、1973年
4月、正式に芸能界を引退した。以降2年間マスメディアから消え
ていたが、渡辺淳一原作の『阿寒に果つ』を読んで感銘を受け、
1974年秋に東宝で同作品の映画化が決定したことから、同作の
田中収東宝プロデューサーに売り込みをかけ、1975年1月17日、
『阿寒に果つ』のヒロインに決定し、芸能界の復帰が決まった。
五十嵐は「芸能界には友達もなく、もうこのまま引退でいいと思
っていたけど、原作を読んで初めて仕事をやりたいと思いました。
これを機会に本物の役者になりたいんです」と話した。
『阿寒に果つ』のヒロインに決まっていなければ、芸能界に復帰し
なかったかもしれない。また『スタア』(平凡出版)1976年4月号
で自身の過去を正直に話すとし、生い立ちと芸能界入りの経緯につ
いて、浦和生まれや父は電器店やレコード販売の経営などは、それ
まで伝えられた通りだったが、キネマ旬報社刊行『日本映画俳優
全集 女優編』59頁に書かれた「高校在学中、雑誌のモデルをして
いるところをスカウトされ…」の件は事実でなく、「川村高校2年
17歳の夏に家出し、高校は中退した。銀座のクラブ『徳大寺』で
1週間だけアルバイトをした。このとき、上条英男さんに会ったが、
すぐに芸能界入りしなかった。芸能界入りの直接のきっかけは18歳
の誕生日の後、1970年の秋に東映東京撮影所に遊びに行ったときに
上条さんに再び会って芸能界入りした」などと話した。
『週刊セブンティーン』1972年3月14日号の「アイドル名鑑」には
「東映ニューフェースとしてデビューして芸能界入り」と書かれて
いる。「徳大寺」のママ・徳大寺美瑠は「安西マリアも
レオ(風吹ジュン)も歌はヘタだったけど、踊りは上手かったわね。
この二人に比べて、全然何もしなかったのが五十嵐淳子。お客さま
の席についても、お話しするわけじゃないし、お酒を飲むでもない。
それでいてモテたわね。私は自分でお店を経営してから12年、
その間、いろんなホステスさんを見てきましたが、その中でも三本
の指に入るわ、モテ方が。とにかく老いも若きも、という感じよ。
私が印象的だったのは水沢夕子(歌手=引退)ね。彼女はものすご
く堅い娘だったけど、それにも関わらずモテたのは彼女ぐらいじゃ
ないかしら。彼女は関口宏と結婚寸前まで行ったけど、結局、
久保ひろしと結婚したわけ。関口の宏ちゃんは彼女と切れてから
も、芸能界に入った彼女のバックアップをしてたのよ(中略)
五十嵐淳子がうちに来たのもレオと同じケースね。六本木のゲイバ
ーの男の子と恋愛し、アパートを借りにうちに来たの。ウチの店に
来てからは生活は楽になったみたい。一時、某大会社の社長が、
淳子のスポンサーとウワサされていたけど、彼女はあんな年寄りも
いけるのか、という感じ。淳子は完全に恋愛を割り切っていたのね。
何もしないのにどうして、と思っていたんですが、お客とポチョポ
チョやってたようよ。とにかく淳子に限らず、彼女たちは絶対に
餓死はしないでしょうね(中略)例えば、淳子など、いかにも清純
そうに見えるし、事実、清純かもしれないけど(恋愛を)何の抵抗感
もなくできるタイプね」などと話している。
梅宮辰夫は「五十嵐じゅんを銀座のクラブでスカウトしたのは僕」と
述べている[。梅宮の実弟は銀座のナンバーワンスカウトと言われた人
で、梅宮も自身が勝手知ったる銀座のホステスをタレントとしてスカ
ウトし、自身の主演映画に出演させ、梅宮の主演映画は"不良性感度
映画"ばかりのため、既存の女優は出演を嫌がった。上条英男は、
2020年の吉田豪の著書『超 人間コク宝』(コアマガジン)でのインタ
ビューで、梅宮が話した通り「そうなんだ。五十嵐じゅんだけは俺の
スカウトじゃないんだよ、梅宮辰っちゃん。梅宮の『不良番長』に誰
か女を出したとき、辰ちゃんが『おい彼女、俺の車で送ってやるから
乗れ』と言ってね。サンダーバードかなんかの助手席に五十嵐じゅんが
いたんだよ。『上条、悪いけどこいつ芸能界に入れてくれないか?』
と言われたんだ。だけど五十嵐じゅんは渋谷のナンバーワンのホスト
と付き合ってたの。そいつが『週刊女性』に一番ヤバい写真を売り込
んでたんだ。あれ書かれたら五十嵐じゅんの人生は終わってたよ。
で『週刊女性』の編集長の前で、五十嵐じゅんの手を引っ張って窓か
ら飛び降りようとしたの。五十嵐じゅんだけは命懸けてもいいぐらい
のいい女だったの。そしたら編集長が『上条、もうやめてくれ』って
俺の脚をつかんでさ、俺の目の前でフィルムを焼いてくれたの。
もうこれ(タレントのマネジメント)は俺の手に負えないって悟った。
それで西城秀樹に会ったとき、大きな組織に入れないとダメだと秀樹
を芸映に入れたんだ」などと述べている。西城秀樹は「僕のサインは、
同じ事務所にいた五十嵐淳子さんが考えたんです」と述べている。