悲運の柔道家「岩釣兼生」 | HONDAのブログ

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前に 猪木よりはるかに実力があったがその性格ゆえ

2番手に甘んじた 坂口征二 を書きましたが、今回は

最強のプロレスラーになりそこねた「岩釣兼生」を書きたい。

1964の東京オリンピック後の 柔道日本一は

64年 神永昭夫 *東京オリンピック

65年 坂口征二

66年 松永満雄

67年 岡野功

68年 松阪猛 *メキシコオリンピック

69年 岡野功

70年 篠巻政利

71年 岩釣兼生

72年 関根忍   *ミュンヘンオリンピク 

この中で 世界選手権のチャンピオンになれなかったのは

71年の 岩釣兼生 のみ

岩釣は 柔道の鬼といわれた「木村政彦」が 郷里熊本で

みいだし 自身がコーチしていた拓殖大学柔道部に入れ

本当の実践柔道を 教えこんだ秘蔵っ子だった。

当初の目標は 日本一になり 72年のミュンヘンオリンピック

で オランダの ヘーシンクに奪われた 柔道世界一を

ヘーシンク引退後 最強といわれた W・ルスカを倒し

名実ともに 柔道世界一奪回だった。

しかし 72年の 5月の日本選手権で まさかの2回戦負け

をきっし その年の8月のミュンヘンに出場できず、

Wルスカが 無差別+重量級の 2冠王となったのは衆人の

知るところ、もしはないが「岩釣」がオリンピックに出ていたら

ルスカの2冠王はあったかどうか?

その後 木村と共に 拓殖大学でコーチをしていた 岩釣が

「プロレス(力道山)への復讐を画策し」 木村の指導で

今でいう 「総合格闘技を 1年 死ぬ思いで稽古し」

1976年全日本プロレス 入りが決まっていた

が、契約書にサインする段階になって社長のジャイアント馬場

拓大側の要求にずれがあり決裂、全日本プロレス入りは幻に終わった。

このとき、岩釣は師匠木村政彦とともに裸でのスパーリング、空手ボクシング

脚関節などを含めた真剣勝負(いわゆるバーリトゥード )を前提にした一日7時間に及ぶ

秘密特訓を続けていた。1954年 の木村政彦vs力道山 の復讐をしようとしていたのだ。

この木村vs力道山は、通常のプロレスルールだったが、途中、

力道山が本気で殴りかかって木村が流血、失神KO負けを喫した謎の試合だ。

拓大側は「力道山にだまし討ちにあった木村政彦先生の敵を討ちたい」という考えで

、馬場社長に「デビュー戦はジャイアント馬場とやり、プロレスのアングルとして

岩釣を勝たせる。その要求を呑めないならばリング上で真剣勝負に持ち込み

馬場を潰す」という過激な条件を提案した。

馬場はこの拓大側の要求に怒り、「もしそういうことになったらウチの若いレスラーたちが

岩釣君をリングから降ろさないが、そういう覚悟があるのか」と応じた。それに対して

岩釣に付き添っていた拓大の先輩が「この野郎っ! 拓大をなめるんじゃねえ!

貴様こそリングから降ろさんぞ!」と激怒、今ここで「その細い腕を折ってやってもいいぞ」

 

契約は白紙に戻された。

後に岩釣は「命をかけて木村先生の敵討ちをするつもりでした」と語っている。

この事件は「昭和の忠臣蔵 」として柔道界の伝説となっている。

こののち 岩釣は 柔道連盟より「危険な男」として阻害され 柔道界からも

ほされるようになってしまった。

もし 1976年 馬場の言うなりなりに契約し 、 リングの上で「逆力道山」を

演じていたとしたら、 昭和のプロレスも大きく変わったかもしれない。

実際 23年後の1999年の1月 後輩の 小川直也が 坂口征二の目の前で 

それをやったことにより 日本のプロレスラーの 本当の実力が明らかになり、

プロレス最強伝説は崩壊 し 今のプロレスはまったくのマイナーになってしまった。

 

岩釣が逝去したのは 2011年 この 小川の 「リング上で真剣勝負に持ち込み

○○を潰す」ということの実践をどんな思いで見たのだろうか?

1972年の 柔道日本選手権での番狂わせがなかったら 岩釣は 日本人が誰も

が知る 大ヒーローになっていたかもしれない、歴史にイフはないけれど。。。。