ガッツ石松伝説 今なら即ボクサーライセンスはく奪
その後の 世界王者の道も閉ざされていただろう。
(逮捕)はされたが(正当防衛の不起訴)ということで
一命をとりとめ、0k牧場となった。
《S47年10月15日深夜に「事件」が起きた》
相手は十数人もおり、「お前ら卑怯(ひきょう)だぞ」
と私が言うと「関係ないのは黙ってろ」「関係大あり
なんだ、この野郎!」となった。1人目が殴りかかっ
てくるととっさに右ストレートが出てあごに命中。
男は卒倒してうつぶせに倒れ、身動き一つしなかった。
2人目、3人目にも右ストレートを浴びせ、いずれも気絶。
4人目からは嫌々かかってくる感じだったので右は使わず、
左で対応した。8人目までの5人は左ジャブ一発でころがり、
へたりこんだ。9人目からはかかってきませんでした。
気が付けば、パトカーが何台も駆けつけ、私は傷害の現行犯
で逮捕され、すぐ近くの池袋警察署に連れていかれました。
池袋署ではすぐに取り調べを受けた。
「何っ、東洋ライト級チャンピオン! これは『広報事案』
ではないか」「あんたの拳は凶器なんだから、気をつけてよ。
一つ間違えば人を殺してたよ。留置場で2泊してもらうから
ね」あの夜、留置場のすえた臭いの中で、私は事の重大性を
徐々に認識していた(聞き手 佐渡勝美)
ガッツ 石松(ガッツ いしまつ、1949年6月5日生まれ本名は
鈴木 有二(すずき ゆうじ)。栃木県上都賀郡清洲村 中学卒
業とともに上京。様々な職業を転々としながら、ボクシング
米倉ジム入門。最初のプロテスト不合格だったが1966年
(17歳)12月11日に藤原正夫(堀口)に1回KO勝ちでプロ
デビュー。当時のリングネームは鈴木石松。「石松」の由来は
「死んでも直らないほどのおっちょこちょい」という(森の
石松)である 1969年、(20歳)全日本ライト級新人王。
同期の新人王にウェルター級の輪島功一がいた。
1970年(21歳)1月25日、世界王座挑戦がほぼ決まっていた、
東洋ライト級王者・ジャガー柿沢(中村)の前哨戦の相手に
選ばれるが、番狂わせの一方的な判定勝ちを収め、柿沢に代
わって世界挑戦権を得る。
1970年6月6日(21歳)、パナマでWBA・WBC世界ライト級
王座挑戦。イスマエル・ラグナ(パナマ)に13回TKO負けを
喫する。
1971年3月3日(22歳)、日本ライト級王者高山将孝(堀口)
に挑むが、10回引分でタイトル奪取ならず。
1972年1月16日(23歳)、5か月前にKO負けしている門田
新一(三迫)の東洋ライト級タイトルに挑戦。今度は判定勝ち
で王座奪取する。
1972年10月15日(23歳)東洋ライト級王者となった後、
池袋で白タクの利権がらみで弟にからんだトラック運転手等
15人を相手に喧嘩をし、8人をKOしたという事件(俗に言う
池袋乱闘事件)を起こし、現行犯逮捕された(後に正当防衛を
認められ釈放された)。その時の事情聴取でガッツは「チャン
ピオンは“いついかなる時でも誰の挑戦でも受けなければなら
ない”と賞状に書いてある」と供述した。(注釈)
本来の意味は、相手がどんな挑戦者であろうと「チャンピオン
は組まれたマッチメイクを受ける義務」の規定である。その後
2日間勾留されたが、プロボクサーライセンス剥奪には至らな
かった。
1973年9月8日(24歳)、WBA世界ライト級王座挑戦。
石の拳ロベルト・デュラン(パナマ)の持つ世界ライト級王座
に敵地パナマで挑戦し、10回KO負け。
当時は試合で少しでも形勢が悪くなると試合放棄に近い行動を
取り勝てる試合を落としたりした(日本の世界王者の中でチャ
ンピオンになる前に10敗以上しているのはガッツのみである)
1974年4月11日(25歳)、東京で、WBC世界ライト級王座
挑戦。ロドルフォ・ゴンザレス(メキシコ)に8回KO勝ちで
王座奪取、下馬評はガッツは99%勝てない。と言われる程の
圧倒的不利の予想であった。最初のダウンを奪ったパンチは、
本人曰く「ワンツーパンチ」だが、左・右を繰り出す間隔が
短く相手には右腕の動きが見切れないことから、“幻の右”と
評された(試合後のインタビューで自ら語っていたといる)。
ゴンザレスへの挑戦前は、世界王座獲得後は元の鈴木石松に
戻すと語っていたが、実行しなかった。
1974年9月12日愛知県体育館でチュリー・ピネダ(メキシコ)
1974年11月28日大阪府立体育会館で、ロドルフォ・ゴンザレ
スとリターンマッチしKO勝利
1975年2月27日(26歳)、王者であり、超一流のテクニシャ
ン指名挑戦者ケン・ブキャナン(イギリス )と防衛
1975年6月5日(26歳)、大阪の近大記念体育館で、前回引
き分けているチュリー・ピネダと再戦
1975年12月4日、東京・日大講堂で、アルバロ・ロハス(
コスタリカ)を苦戦の末、10回に右アッパーでダウンKO
1976年5月8日(27歳)、6度目の防衛戦でエステバン・デ
・ヘスス(プエルトリコ)に15回判定で敗れ王座から陥落
1977年4月2日(28歳)、WBC世界ジュニアウェルター級
王座に挑戦するが、センサク・ムアンスリン(タイ)に6回
KO負けし現役を引退した。
注釈). 本来は、相手がどんな挑戦者であろうと「チャンピオンは組
まれたマッチメイクを受ける義務」の規定である。

