プロレスの世界王座は S49年 2万5000ドル | HONDAのブログ

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プロレスの NWA世界ヘビー級チャンピオンが

まだ なんとか権威を保っていた時代の話


 

S49年 時の世界チャンピオン Jブリスコの回想記

によると G馬場に 「1週間」チャンピオンベルト

を 預ける 値段は 2万5000ドル (当時の邦貨

で 7.5百万円)だったという興味深いお話。


 

その前に その時代の 日本のプロレス事情を語りたい。

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S46.12月  猪木が乗っ取り容疑で「日本プロレス」

         を追われる

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S47.3月  猪木が「新・日本プロレス」旗揚げ

S47.5月  日プロ最後の第14回Wリーグで 馬場優勝

S47.9月  馬場が 日プロ離脱

S47.10月 猪木VSK・ゴッチ(ノーTV)

S47.11月 馬場が「全日プロレス」旗揚げ

S47.12月 大木金太郎がインターチャンプになる

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S48.3月  日プロ 坂口征二が 猪木と合体

        NET TV放送が新日プロに鞍替え

S48.4月  日本プロレスが崩壊

S48.5月  日プロのWリーグを引き継ぐ形で 全日プロが

        第1回チャンピオンカーニバル開催

S48.10月 猪木&坂口 VS ゴッチ&テーズの一戦

S48.11月 猪木がJ・パワーズ破りNWFヘビー級Cに

S48.12月 元柔道C Aヘーシンクが 全日プロ入団

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S49年3月  猪木VS小林による 日本一決定戦

S49年5月  馬場 第二回チャンピオンカーニバル優勝

S49年10月 猪木VS大木(金一)同門最強決定戦


という具合に推移し 老舗の「日本プロレス」は崩壊し NET 

TVにより 崩壊寸前の 「新日本プロレス」が息を吹き返し、

NETのバックアップで 夢の対決を次々実現させていた。

一報 日本TVの絶大な支援により 船出した 馬場の 全日プ

ロレスは 毎回 豪華な 外人レスラーが来日するものの めっ

きり衰えの目立つ G馬場との対戦では 話題がなかったため、

起爆剤として元柔道C の Aヘーシンクを 引っ張り出した

(日TVが)が、はなから プロレスをなめている ヘーシンク

では 人気回復とはいかなかった。

どんどん 攻めてくる A猪木の 攻勢に 窮余の一策として

G馬場を 東洋人としては 初めての NWA世界チャンピオ

ンにして 盛り返そうと考えた(日本TVが。。)


(真ん中が J・ブリスコ その後ろが

NWA理事 サム・マソニック

ブリスコの持つのが NWAチャンピオンベルト)

 

以下はその時の チャンピオンJ・ブリスコの回想記である。

********ブリスコの回想記(BRISCO)より******************

1974年12月 日本にいくことになっていた私(ブリスコ)

の所に全日プロの ブッカーだった T・ファンクから電話

があった

T「ジャック、馬場がタイトルがほしいと言ってるんだ」

B「そらそうだろう、みんな世界チャンピオンになりたいさ」

T「馬場は それ相応の金を払うと言っている」

B「いくら払うというんだい?」

T「1週間で 1万ドル」

B「それはどうかな」

T「NWA本部には気つかれないよううまくやれるさ、万が一

 気つかれても、君が偶然頭を打って失神して、馬場はフォール

 するしかなかった、翌週にはベルトを返す約束をしてくれた」

 と 言いはればいいじゃないか。

私は NWAの供託金(BOND)について テリーに説明した、

(もし 不慮の事故等で NWAチャンプが NWA本部の威光

 背いて ベルトをとられた場合 NWA本部に預けてある 

私の 2万5000ドルの供託金は没収される)

1万ドルもらっても NWA本部が 供託金を没収してしまえば

差引 1万5000ドルの損失になる そんなのには乗れない。

数日後 再びテリーから電話があり、「馬場は 2万5000

ドル」出すと言っているとのこと。  

B「テリー聞いてくれ、2万5000ドルなら +-0だ、私も

  NWA本部と交渉してみる 骨折り代に 試合があろうとな

かろうと  日給 2000ドル出してほしい さらにタイトル

マッチ費用  として 1試合当たり 8000ドル、自分が

帰国するとき  米ドルのキャッシュではしい」

テリーは 馬場に話てみるといった、NWA本部とは自分が交渉

することになった。

馬場が 提示条件を0kだと聞いて、私はNWAの理事 サム・

マソニックに これから日本でやろうとしてることを説明し、彼が

何か言う前に私からこう言った。

「いいですか、私はNWAのために1晩25ドルの試合もしてきた、

いま私の前には 2万5000ドルを受け取るチャンスがあり、私

はそうするつもりだ」 マソニックは反対しなかった、もし文句が

あっても結局彼らには何もできなかっただろう、(ルーテーズ時代

であれば 1週間だけのチャンピオン明け渡しは タイトルの権威と

いうことで却下されただろう、かつて テーズが 日本で力道山と

同じようなことをしようとしたが NWAは受付なかった)

しかし 今は私がチャンピオンであり 自分自身こんなおいしい話

を見逃すには あまりに惜しい話であった。

そして 私は 12月1日に日本に降り立ち 2日の鹿児島で馬場に

敗れ王座は 馬場の手にうつった 12月6日 東京で 馬場と引き

分け 馬場は 予定どうり初防衛(東京で馬場は負けるわけにはいか

ないという理由)



12月9日 豊橋という地方都市で 予定どうり 馬場は私に負けて 

ベルトを返してくれた。私の取り分は タイトル移動料(2万500

0ドル)タイトルマッチ 3回X8000ドル=2万4000ドル、

シリーズ参加費用 11日X2000ドル=2万2000ドル

しめて 7万1000ドル(邦貨で 約2000万円)を 日本を発

つ前にキャッシュで がっぽりいただいた。日本出国の時はビクビク

もんであった。

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というのが J・ブリスコの 回想である。

では 7万ドルも出して 「全日プロレス」の人気は飛躍的に改善され

た?かというと 「そうでもなかった」というのが結論である。

躍起になっていたのは 日本TVであったが 肝心の 馬場のプロレス

は素人目にも 衰えが目立ち  ヘーシンクは一向にプロレスになじめ

ず、期待のJ鶴田は 伸び悩み であり、 S51年に Mアリ戦を

実現させる 猪木の新日本プロレスとは 差があいていくばかり

であった。

 

NWA世界ヘビー級タイトルは 全米のプロモーターの集合体が

認定していたタイトル。ルーテーズー>ハットンー>オコーナー

ー>ロジャースー>ルーテーズー>Gキニスキー と渡った

1960年代は 1週間のチャンプ交代なぞ ご法度であったが

1969年 キニスキーー>ドリーファンク に タイトルが

わたり 1970年代に入り アメリカのプロレスそのものの

人気にも陰りが見えドリー -> H・レース ->Jブリスコ

に 移動した この 1974年には NWA世界チャンピオン

そのものの権威も 陰りが見えていた時代であった。