◆木村英樹『中国語はじめの一歩』ちくま新書、1996年4月

必要に迫られて、最近、中国語の勉強を始める。独学なので、発音がうまく出来ているのかどうか判断できないのがつらい。発音は仕方ないので、文法だけでもきちんと身につけたいものだ。

本書は新書だが、けっこう詳しい解説があって面白い。ちょっと事項が多くて、一気に読むのが大変なのだが。それでも、中国語の原理というか、単に文法や用語の説明だけではなく、その背後にある考え方も説明しているのがよいと思う。

木村 英樹
中国語はじめの一歩

◆佐々木瑞枝『生きた日本語を教えるくふう 日本語教師をめざす人へ』小学館、2003年11月

日本語教師はどうやって日本語を教えているのか気になって、読み始めた。日本語を教えるのは難しいものだなと思う。日本語も難しいのかもしれないが、そもそも人に「教える」こと自体が難しいことなのかと。

佐々木 瑞枝
生きた日本語を教えるくふう―日本語教師をめざす人へ

◆立岩真也『希望について』青土社、2006年7月

ここ数年に書かれた、比較的短い文章を集めた本。テーマは多岐にわたる。たとえば、国家、政治、境界、労働、所有、社会(学)など。どの文章も興味深く読んだ。特に、労働の分配について論じている「労働の分配が正解な理由」と、構築主義や本質主義、(脱)構築などについて考える「社会的――言葉の誤用について」が面白い。

立岩 真也
希望について

◆トルーマン・カポーティ(佐々田雅子訳)『冷血』新潮文庫、2006年7月

一家四人が惨殺されるという事件が起きる。その犯人の逃亡と捜査、そして裁判を経て、犯人たちが死刑になるまでを描いたノンフィクション・ノベル。ニュージャーナリズムの先駆けとも言われる作品。訳者のあとがきによると、「カポーティは『冷血』の執筆に先立ち、三年を費やしてノート六千ページにも及ぶ資料を収集し、さらに三年近くをかけてそれを整理」(p.620)したそうだ。そのために、かなり重厚な作品に仕上がっている。特に各登場人物の内面描写に重点が置かれていた。

読み終えてみると、すべてが終わったにもかかわらず、なんだかすっきりしなくて、もやもやとした重たいものが残る。

カポーティ, 佐々田 雅子
冷血

◆田島正樹『読む哲学事典』講談社現代新書、2006年5月

各項目は短い文章で書かれているが、なかなか読み応えがあって、何度も読み返したい本だ。何かを考える際のきっかけとして。全体に硬めの文章が続く中、途中で「ハゲとブス」という項目が入っているのが面白い。

田島 正樹
読む哲学事典

◆大江健三郎『憂い顔の童子』講談社文庫、2005年11月

『取り替え子』のつづきが気になって、『憂い顔の童子』も読んだ。そうしたら、このつづきがまた気になってきた。大江健三郎の小説がこんなにも面白いとは。――

本作では、「re-reading」がけっこう重要な主題となっている。もちろん、読み直しは本作だけに限らず、大江文学にとって重要な主題なのだろうが。読み直し、語り直しの対象となるものはいろいろあって、それはたとえば、自分が以前に書いた小説であったり、先行する文学作品(『ドン・キホーテ』等)であったり、批評であったりするわけだ。ここで本作では、読み直しのパートナーとして、「ローズ」という「ロシナンテ」に通じる古義人の小説の研究者が登場してくる。このようにして、あらゆる言説がこの小説のなかに取り込まれて、読み直しや語り直しが行われる。そうやって、この小説は、まるで宇宙(あるいはブラックホール)のように膨張していく。ここが非常に魅力的なのだ。

大江 健三郎
憂い顔の童子

◆川西政明『小説の終焉』岩波新書、2004年9月

「~~の終り」とか「~~の終焉」といった類の言説は、うさん臭い。それによって、何か面白い論点が出るのだろうかと、最近考えている。

この本のタイトルは、そのものずばり『小説の終焉』だ。著書はどういった考えで小説の終焉を語ろうとしているのか気になる。

《僕は小説が好きだ。日本で小説を一番多く読んでいる一人だと思う。僕は四十数年の間、毎日、小説を読んできた。筆一本の批評家だから、だれにも遠慮なく、思う存分、小説を読む時間がある。その上、『昭和文学史』(全三巻、講談社)を書くために、十七年かけて小説を読み直した。そこで実感した。小説はどうやら終焉の場所まで歩いてきてしまったらしい。(p.ⅵ)》

40年以上にわたって、毎日小説を読み続けた結果、「小説はどうやら終焉の場所」に来てしまったというのだから、たしかに説得力はある。著者は、現在の小説には、過去の小説を凌駕するようなものがないと感じている。そこで、これからも小説が続いていくためには、「百二十年の歴史が積み上げてきた豊饒な世界を凌駕するまったくあたらしい小説の世界が生み出されなければならない」とする。そのために、本書は書かれた。過去の豊饒な世界を凌駕したと判断できる「土台」となるものを、著者は提示しようとしたというわけなのである。その意気込みは理解できる。

それにしても、40年間ひたすら小説を読み続けたというのは伊達じゃない。著者は、あとがきにこんな言葉を記している。

《その僕のなかで、小説はその使命を終えてしまった。読みたい小説は全部読んでしまったからだ。今、読みたい小説を再読しようとしても、小説のほうで、もう隅から隅まで読んでもらった、あらためて読んでもらわなくてもいいよと語りかけてくる。(p.212)》

「全部読んでしまった」と言い切れる自信。これはとんでもないなと思ったりもする(半分揶揄の気持ちもあるが)。私もいつかこんな言葉をつぶやくようになるのだろうか。そうはなりたくないものである。

川西 政明
小説の終焉

◆芥川龍之介『奉教人の死』新潮文庫、1968年11月

いわゆる「切支丹もの」と呼ばれる作品。キリスト教という宗教自体に関心があったというよりも、「切支丹もの」で日本と西洋の文化の融合・対立を描こうとしたと言われる。また独特の言葉を用いることによって、一種のエキゾチシズムを醸し出す役割もあったようだ。

いくつか面白い作品があったのだが、特に「おしの」がいい。

おしのは、息子の病を治してもらいたいと南蛮寺の神父のところにやってくる。うわさでは、この神父は難しい病も治療するという。神父はおしのの願いを聞き入れる。おしのは、息子の命が助かるならば、キリストに一生仕えてもいいとまでいう。それを聞いた神父は、勝ち誇ったようにキリスト教の教えを説きはじめる。そして、神父はこう言った。

《「考えても御覧なさい。ジェズスは二人の盗人と一しょに、磔木におかかりなすったのです。その時のおん悲しみ、その時のおん苦しみ、――我我は今想いやるさえ、肉が震えずにはいられません。殊に勿体ない気のするのは磔木の上からお叫びになったジェズスの最後のおん言葉です。エリ、エリ、ラマサバクタニ、これを解けばわが神、わが神、何ぞ我を捨て給うや?……」(p.170-171)》

この言葉を聞いたおしのは、なぜか神父を見つめている。しかも、おしのの眼には、「神聖な感動でも何でもない」「唯冷やかな軽蔑と骨にも徹りそうな憎悪」だけがあった。神父はあっけにとられ、何も言えない。そして、おしのは「まことの天主、南蛮の如来とはそう云うものでございますか?」と言い放った。

《「わたくしの夫、一番ヶ瀬半兵衛は佐佐木家の浪人でございます。しかしまだ一度も敵の前に後ろを見せたことはございません。去んぬる長光寺の城攻めの折も、夫は博奕に負けました為に、馬はもとより鎧兜さえ奪われて居ったそうでございます。それでも合戦と云う日には、南無阿弥陀仏と大文字に書いた紙の羽織を素肌に纏い、枝つきの竹を差し物に代え、右手に三尺五寸の太刀を抜き、左手に赤紙の扇を開き、「人の若衆を盗むよりしては首を取られりょと覚悟した」と、大声に歌をうたいながら、織田殿の身内に鬼と聞えた柴田の軍勢を斬り靡けました。それを何ぞや天主ともあろうに、たとい磔木かけられたにせよ、かごとがましい声を出すとは見下げ果てたやつでございます。そう云う臆病ものを崇める宗旨に何の取柄がございましょう?(以下略)」(p.172)》

こうして、おしのは神父に背を向け、寺をあとにしてしまう。茫然とする神父が残される。「切支丹もの」に限らず、芥川は最後の最後にどんでん返しのような落ちをつけることが多いが、この作品の落ちもなかなか面白いと思った。解説で、作家の小川国夫は「芥川は歴史を考えて、周到にリアリズムに徹しようとしています」(p.231)と述べている。なるほど、こういう受容の仕方が日本人にあったのかもしれない。「エリ、エリ、ラマサバクタニ」という言葉を、意気地なしの泣き言じゃないかというのは面白い。

芥川 龍之介
奉教人の死

◆津島佑子『山を走る女』講談社文芸文庫、2006年4月

津島佑子の長篇作品を読んだのは、はじめてだ。これがなかなか面白い。

『山を走る女』は、著者のはじめての新聞小説だという。書かれたのは1980年。題材は、今の言葉で言うなら「シングル・マザー」ということになる。「父のいない子ども」を育てる女性、「小高多喜子」が主人公だ。もう少し、著者自身の言葉を参照すると、本作は「孤独」が主題ではないかと思っているという。女ひとりで、子どもを育てていくのは、もちろん経済的な問題も大きいが、なにより社会的な「孤独」が一番つらいことなのではないかと思い、本作品を書いていたという。

多喜子は、仕事を通じて知り合った男と、なんとなくつきあいができて、妊娠してしまう。妊娠が分かった頃には、多喜子と男は別れてしまい連絡も取れなくなっていた。多喜子の父や母は、多喜子が出産することを強硬に反対する。しかし、多喜子は子どもを産み、ひとりで育てていくことを決意する。

出産、育児、仕事、人間関係で、さまざまな困難にぶつかる。そんななか、アルバイトで雇ってもらった会社で、「神林」という男と出会う。「神林」には、障害をもった10歳の子どもがいた。そして、互いの子どもの話を通じて、多喜子は神林に惹かれる。多喜子は、神林に精神的なつながりを見いだし、そうして自分の生を肯定する。――

津島佑子の作品では、「水」が特徴的だが、本作でもいろいろな場面で「水」が登場し、多喜子と水が非常に強い結びつきを示している。多喜子はまた自然、木々の緑に目を奪われる。要するに、多喜子は植物と言ってもよく、水と太陽の光を浴びることで生き生きとする。水と光が、多喜子の生命の源なのだ。このあたりに多喜子の強さを感じる。読んでいて、とても気持ちがいい。

津島 佑子
山を走る女

◆町田康『きれぎれ』文春文庫、2004年4月

「きれぎれ」で芥川賞を受賞したわけだが、私には「くっすん大黒」のほうが面白かった。「きれぎれ」は、どこか計算されて作られているなという印象を受けてしまう。でも面白い。

町田 康
きれぎれ