◆町田康『くっすん大黒』文春文庫、2002年5月

遅ればせながら、町田康のデビュー作を読んでみる。とんでもなく面白い。これはすごいなあと感心しながら、一気に読んでしまう。また、文庫本の解説を三浦雅士が書いているのだが、この解説も非常に面白い。三浦は、ここで「くっすん大黒」と梶井基次郎の「檸檬」を比較しているのだが、冗談なのか本気なのか分からない論で、町田康の文体をうまく利用している。さすがだ。

町田 康
くっすん大黒

◆関口安義『よみがえる芥川龍之介』日本放送出版協会、2006年6月

最新の芥川研究を取り入れて書かれている本書は非常に面白い。芥川というと、神経質で気むずかしい作家のイメージがあるが、本書を読むと実は友情にあつく、また旅行好きというアクティブな面を持った人物であったことがよく分かる。かわいらしいラブレターを書いていたりして、微笑ましい。著者は、「根っからの厭世家で、芸術のみを頼った芸術至上主義という研究者の貼り付けたレッテルは、剥がす必要がある」(p.164)と述べているが、たしかに再考の余地がありそうである。

著者は、芥川の作品の訳者であるジェイ・ルービンの「芥川はモダニストであるだけではなく、ポストモダンを開拓する作家ではないかと感じる」という言葉を引いているが、芥川のポストモダン的な一面は注目に値する。近代を突き詰めて考えた芥川には、近代の矛盾を鋭敏に感じ取っていた。

たとえば、芥川のプロレタリア文学に対する認識など興味深い。本書には、次のような芥川の文章が引用されている。

《 唯僕の望むところはプロレタリアたるとブルジョアたるとを問わず、精神の自由を失はざることなり。敵のエゴイズムを看破すると共に、味方のエゴイズムをも看破することなり。こは何人も絶対的にはなし能はざるところなるべし。されど不可能なることにあらず。プロレタリアは悉く善玉、ブルジョアは悉く悪玉とせば、天下はまことに簡単なり。簡単なるには相違なけれど、――否、日本の文壇も自然主義の洗礼は受けし筈なり。(「階級文芸に対する私の態度」1923年2月)》

このような分かりやすい二項対立批判は、最近でもよく言われていることだ。芥川また「僕等」は「階級」だけに拘束されているのではない、「僕等」はもっと複雑な存在であることを強調している。現代で通じるような芥川の認識は、当時は受け入れられず、逆にブルジョア作家として攻撃に対象となっていたことは不幸なことだったと思う。

本書で興味を引いたのは、芥川が関東大震災の際、例の自警団に参加していたということである。どうやら近所への手前、参加を要請され断り切れず、参加したようだ。しかし、芥川はそこで見た暴行を痛烈に批判していたことは重要である。著者は、「我我は互いに憐れまなければならぬ。況や殺戮を喜ぶなどは、――尤も相手を絞め殺すことは議論に勝つよりも手軽である」という芥川の言葉を引いている。芥川はまた、震災後の東京の惨状を見に行き、目に留めようとしていた。芥川の社会的関心の高さをうかがわせる。書斎に閉じこもった単なる芸術至上主義者ではないのだ。

関口 安義
よみがえる芥川龍之介

◆中原昌也『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』河出文庫、2000年9月

よく分からない。中原昌也の小説は苦手だ。暴力とエロとナンセンスに満ちている。だから意味や物語を求めても仕方がなく、既成の言葉が使い減らされていくさまをただ眺めるのが、本書を楽しむコツなのだろうか。中原昌也の作品は、おそらく好きな人は好きだし、嫌いな人にはどう説明しても受け入れられない。評価が両極端に分かれる作家だ。私は、後者の立場で、つまりこの小説は価値がないのではないかと考える。

中原 昌也
マリ&フィフィの虐殺ソングブック

◆津島佑子『女という経験』平凡社、2006年1月

「女」とはなにか(p.7)――という問いのもと、古今東西の宗教や神話、物語をとりあげ、そのなかに描かれる「女」のイメージを読み解く。かなりの数の神話を小説家らしく自由奔放に読んでいるのが特徴的。

津島 佑子
女という経験

◆田中小実昌『ポロポロ』河出文庫、2004年8月

敗戦間近の昭和19年に、繰り上げとなって軍隊に入隊し、その後中国に送られ、そこでの軍隊生活を回想して語る「ぼく」。「ぼく」は、アメーバ赤痢やマラリアなどに罹り、年中下痢をしている。ろくに食べ物もない生活。そんな軍隊生活を語っていくのだが、語り口が不思議な印象を与える。飄々としているというか、淡々としているというか、うまく説明することができなくて歯がゆいが、とにかく語り口が面白い。

また、もう一つ面白いのは、後半になって「物語」について「ぼく」が語るところだ。「物語をはなす者は、もうすっかり、なにもかも物語なのだ」「世のなかは物語で充満している」(p.172)と「ぼく」は考えている。だからといって、物語がいけないとか悪いとか言うのではなく、「ぼく」がつまらないと思っているのは、何より「自分で物語だとわかってることを、自分にはなしてきかせても……」(p.172-173)ということだ。

「ぼく」は、「軍隊」という語も物語だという。

《軍隊というのが物語だ。軍隊とは、いったい、なにか? だれもこたえられはしない。だれもこたえられないものを、軍隊、軍隊と平気で言っていられるのも、物語として通用しているからだ。そして、物語として通用している軍隊のほかに、いったい、どんな軍隊があるというのか?》

このあたりの認識は、戦争を語る他の文学と異なる点なのかもしれない。

それにしても、本書の問う問題は難しい。単に物語を拒否すればいい、物語化を批判すればいいといった簡単な問題ではなさそうだ。口に出して話してしまうと物語になってしまう。だが、だまっているわけにもいかない。では、どうすればいいのか。

《しかし、物語は、なまやさしい相手ではない。なにかをおもいかえし、記録しようとすると、物語がはじまってしまう。(p.221)》

「ぼく」の父が牧師だった教会で唱えていたように、「ポロポロ」と「言葉にはならないことを、さけんだり、つぶやいたり」するしかないのではないか。

田中 小実昌
ポロポロ

◆筒井康隆『小説のゆくえ』中公文庫、2006年3月

評論からエッセイ、選評や短い推薦文までさまざまな文章が収められている。内容はどれもかなり面白い。

筒井 康隆
小説のゆくえ

◆佐藤喜彦編『【中国の大学生】素顔と本音――日本語でつづる「日本、そして私の国」』河出書房新社、2006年5月

本書は、日本語を学んでいる中国の大学生が、日本や中国に関するテーマで書いた作文を集めたもの。「日本そして日本人」「愛する祖国「中国」」「中国の諸制度に思う」「両親は私の誇り」「世界のリーダー国を目指して」の5つの章で構成される。

現代の中国の若者が、日本や自分たちの国についてどう考えているのかよく分かる。興味を引いたのは、中国でも大学生の就職が困難であるということ。特に日本語を専攻している学生は厳しいらしい。入試の改革などによって、大学生が近年増加したことが原因となっている。どこの国でも、教育と仕事のバランスを取るのが難しいのだろう。

佐藤 喜彦
中国の大学生 素顔と本音 日本語でつづる「日本、そして私の国」

◆大杉栄『大杉栄自叙伝』中公文庫、2001年8月

アナキスト大杉栄の自叙伝。子どものころの話から、初恋の話もあり、平民社の人たちとの関係が始まるところまでと、それから神近市子に刺される有名な「葉山事件」についても書いている。「葉山事件」というと、やはり吉田喜重の『エロス+虐殺』だ。この映画を見たとき以来、大杉栄が気になる存在であった。

大杉は、子どもころから我が強い。また乱暴なところもあり、いたずらや喧嘩をして、しょっちゅう母親に叱られていた大杉栄。大杉栄の母親もちょっと変わっていて、「ほんとにこの子は馬鹿なんですよ。箒を持ってこいと言うと、いつも打たれることがわかっていながら、ちゃんと持ってくるんですもの。そして早く逃げればいいのに、その箒をふりあげてもぼんやりして突っ立っているんでしょう。なお癪にさわって打たないわけにはゆかないじゃありませんか」(p.107)などと言っていた。軍人になるべく、幼年学校に入るも、憂鬱に襲われ、ある時喧嘩で大怪我し、幼年学校を退学することになる。その後、文学に興味を持つが、「文学は困る」と言う父親に妥協して、語学を勉強するということで、東京の中学校を受験する。このときのエピソードも面白い。

この時、大杉は「東京中学校」と「順天中学校」を受けることにしたが、この二つの入試は同時に行われた。そこで、学力に自信のあった大杉は東京中学校を受け、順天中学校には「換玉」を使った。ところが、東京中学校の試験に、大杉の苦手とする問題があり不合格となってしまう。一方、「換玉」はうまくいって順天中学校に合格したという。

いろいろ面白いエピソードが書かれてあって、けっこう面白い自伝だと思う。明治のころの学校の雰囲気もよく分かる。

大杉 栄
大杉栄自叙伝

◆大江健三郎『取り替え子』講談社文庫、2004年4月

「長江古義人」と「塙吾良」、そして古義人の妻である吾良の妹でもある「千樫」という登場人物の関係で織りなされる物語。周知の通り、この登場人物の関係は、大江健三郎と伊丹十三の関係がモデルとなっている。

物語は吾良の自殺から始まる。吾良は古義人に、自分の声を吹き込んだカセットテープを送っていた。それは「田亀のシステム」と呼ばれるのだが、吾良の自殺後、古義人はこの田亀のシステムを使って、吾良との「対話」に耽る。

古義人と吾良の関係は、松山での高校生の頃からはじまる。二人の関係が対照的で面白い。まず、古義人は小説家であり吾良は映画監督だ。古義人は、その作品をめぐってかつて右翼に狙われた経験があるが、吾良もやはり作品をめぐってやくざに襲われ大怪我を負うことになる。古義人と吾良の原点ともいえる「アレ」について、一方は「小説家の技法」で迫り、もう一方は「記録映画の厳密な手法」で迫る。二人は似たもの同士でもあるし、方法的には違いを持った存在でもある。この二人の蝶番のような役割が、「千樫」ということになるだろうか。したがって、物語が古義人と吾良の原点ともいえる「アレ」について語り終えた後に、重要な役割を担うのは「千樫」なのだ。

この物語において、小説と映画の対立はフィクションと事実の対立とも言えるのかもしれない。もちろん、フィクションと事実の対立は、この小説が注目された要因でもあるし、また大江文学の一つの特徴をなしている。古義人と吾良の「対話」は、フィクションと事実との対話でもあり、この対話が大江文学そのものとなる。

大江 健三郎
取り替え子(チェンジリング)

◆山本博文『日本史の一級史料』光文社新書、2006年5月

常々歴史家は、どのように普段研究をしているのか気になっていた。本書は、東京大学史料編纂所で研究を続けている著者が、歴史家が史料をどう読んでいるのか教えてくれる歴史研究入門書だ。

史料を求めて各地を移動したり、厖大な史料を整理したりと、歴史家の仕事は大変そうだが同時に魅力的だ。一通の手紙からその背後にある人間関係や政治状況を読み取る手腕は実に見事である。

山本 博文
日本史の一級史料