今週、秋田へ帰省した。
帰省したと言っても母の実家だ。
僕は小学生の頃、毎夏秋田へ遊びに行っていた。
長い時は1ヶ月も秋田に滞在していた。
夏は毎年だが、冬は2~3年に1度くらいの割合で行っていた。
林でカブトムシを取ったり、田んぼでゲンゴロウを捕まえたり、川で遊んだり、冬はかまくらを作りスキーをしたりと、小学生の僕にとって、それはそれは楽しい時間だった。
小学生時代3回も転校したが、全部東京だったので、都会っ子だったけど、秋田ライフのお陰で田舎の子のようでもあった。
東京の同級生はカブトムシを500円くらい出して買っていたのに対して、僕はハチミツを木に塗りつけたりして捕っていたのだった。
母の母である、お婆ちゃんは厳しい人でもあったが、たまに来る孫へ、たんまりお小遣いをくれるお婆ちゃんだった。
18歳になった頃、ふと秋田へ自転車で行ってみたくなった。
理由は2つ
1.自転車で長距離を走るという冒険をすることによって「漢(おとこ)」になってみたかったのと、
2.東京からカワイイ孫が来たら、お婆ちゃんがしこたまお小遣いをくれるに違いない
と言う理由だ。
純粋なんだか不純なんだか、よく分かんない理由だが、とにかく自転車を北へと走らせた。
地図で東京=秋田間を調べると、550キロだった。
時速30キロで1日10時間走れば、2日で着ける!となんとも無謀な計画を立てた。
タイヤの細い自転車・ロードレーサーに最小限の荷物とお金を持って、早朝の東京を出発した。
1泊目は、豪勢に温泉旅館に泊まり、エビを食べたりした。
しかし2日目に嵐に追い越されズブ濡れに。
1日目は軽い嵐がやってきて追い風で、「これはイケる!」と思っていたのだが、抜かされたのと同時に、向かい風気味になってしまったのだ。
かなり気合を入れて走ったが、どうも2日では到着しない。
かといって2泊目のお金を持っていなかったのだ。
道中トラックの運転手に声をかけて「すごく安く泊まる場所を知らないですか?」と聞いたら、少し先のドライブインで50円出せば貸し毛布を得られて仮眠が出来るという。
おお!助かったぜ!と思っていたら「おい、金が無いのか?しょーがねーな。ラーメンご馳走してやるから、この先のラーメン屋で待ってるぞ」
親切に驚きながらも甘えることにしてラーメン屋へと自転車を走らせた。
ラーメン屋でご馳走になっていると、話を聞いたラーメン屋のオバチャンが「ほら、これも食べて力をつけなさい」と言いながら、餃子をご馳走してくれたのだ。
親切心が骨身に染みてありがたかった。
途中、道が二手に分かれてわかりにくい場所があり、間にあったガソリンスタンドで道を聞いた。
「どこから来たの?東京?どこへ行くの?秋田!すごいね。ちょっと待って。」
親切に道を教えてくれたスタンドのお兄ちゃんが、おにぎりとコーラを持ってきてくれた。
感激のあまり、最大限のお礼を言いながらも、とにかく腹が空いていた僕は、道中スタンドを発見する度に道を聞いた。すると3件に1件くらいの割合で何かもらえたのだった。
ちゃっかりしながらも、とにかく腹が減って仕方が無かったので、好意に甘えまくっていたのだった。
地図上ではあまり気にしていなかったのだが、奥羽山脈という山間部を超えないと秋田へは行けず、これがまた自転車で登るとすげー大変だったのだ。
何にせよ、これは1泊では無理だったなぁ~と思いながらも、奥羽山脈を超えて秋田へと着いたのだった。
今までに無いくらいの深い満足感と達成感を味わい、そして色んな人たちから親切にされたことが骨身に染みてありがたいなぁと思った。
そして、お婆ちゃんは15万円も僕にくれたのだった。
予想外の大金をもらい、帰りは豪華に寝台列車で東京へ帰ったのだった。
話はさかのぼるが、最初に自転車旅のキッカケとなったのが、通学でだ。
中学生の頃、4~50分くらい電車に揺られて通学をしていたのだが、中2の頃、定期代を親から貰った日、そのお金を全部ゲームセンターで使ってしまったのだった。
その日以来、帰宅部にもかかわらず、「朝練に行ってくる」と親に言い残し、早い時間に自転車で学校へと向かったのだった。
最初は1時間半くらいかかっていたのだが、脚力が上がり近道を覚えたりして4~50分で学校へ行けるようになった。
電車で行くのと変わらないタイムが出ると、電車で行くのがバカらしくなって、次の定期代を貰うと、そのままゲーセンで消えたのだった。
まったく持ってオバカな中学生だったのだが、そんなキッカケでチャリダー(自転車乗り)となったのだ。
その後、秋田や浜松へ自転車で走り、23歳になるとオーストラリアを自転車で一周の旅に出たのだ。
想像以上にバカでかいオーストラリア大陸を自転車で走りながら、秋田のお婆ちゃんと文通をした。
お婆ちゃんの字は達筆過ぎて、読めない字も多々あったが、帰国したら、お婆ちゃんと話をするのが楽しみなので、そのときは字が読めなくても気にしなかった。
そして「お小遣い、すっげーもらえそうだなぁー」と不謹慎にも思っていたのだった。
想像以上に大きなオーストラリアは、想像以上に居心地が良く、1年の滞在予定が1年を5ヶ月もオーバーしたのだった。
もっと長く居たいなぁ、今度はニュージーランドかカナダを走りたいなぁと思っていたら、悲しい知らせが日本から入った。
お婆ちゃんが脳梗塞で倒れて意識が無いというのだ。
直ぐに帰国をしたのだが、現実を受け入れることが出来ず、東京行きの飛行機ではなく、あえて福岡行きの飛行機に乗って、福岡から東京へヒッチハイクで目指すことにした。
東京に着けば悲しい現実を受け入れなくてはならなく、その準備が自分には中々できなかった。
いくつかの友人宅へ泊まりながら、名古屋に着いた頃、お婆ちゃんが亡くなった知らせを聞いた。
ヒッチハイクは止めにして、電車に乗り東京へと戻り、直ぐに秋田へ向かった。
お婆ちゃんが亡くなっていなければ、あと1~2年、僕は海外をさまよっていただろう。
旅は面白い上、将来のビジョンを何も持てず不安な気持ちから逃げるのに最適だったからだ。
お婆ちゃんが亡くなったショックだけでなく、バブル経済崩壊の影響を受けて父の会社が、都心の神田から千葉に近い葛西へ事務所を移した状況を知り、更にショックだった。
僕がオーストラリアへ行ってる最中に移動したのだが、それだけ会社の状況が悪くても気を使って僕にはあまり話してくれなかったのだ。
なんとも自分の不甲斐なさやら、お婆ちゃんと話せない気持ちやらで、ブルーになりつつも、オーストラリアで見たインターネット事情に感化され、父の会社をインターネットを使って盛り上げられないだろうかと考えた。
ホームページを活用すれば、オフィスがどこにあってもチャンスを得られると思ったのが大きかった。
帰国後直ぐにホームページを作ろうとするが、それより先に会社の営業を手伝ったり覚えたりするのが先決で、1年はホームページを作ることはできなかった。
その後試行錯誤して、2000年の1月にホームページを作り上げた。
ちょうど10年前の今だ。
お婆ちゃんが亡くならなかったら、きっと僕はホームページを作るタイミングを失っていただろう。
あの頃はまだ、同業他社がホームページに注目しておらず、簡単なホームページでも先行者利益を十分に得られ、自分の自信となり、のめり込む事が出来た。
ホームページを作り出すタイミングが2~3年後、いや1年後でも、きっと自信に結びつく結果とはなりにくいだろうから、僕は中途半端に終わらせていただろう。
すごく限られた狭いタイミングにうまく合ったと後になって気がついた。
あぁお婆ちゃんがあのタイミングで亡くなってくれたからかなぁ。
でも、お婆ちゃんが亡くなったことを正当化したくは無いので、感謝したいようなしたくないような複雑な心境だった。
あれから12年
お婆ちゃんの13回忌で秋田に集まった。
実際に亡くなった日よりも10日以上はやい、1月10日に法事を行った。
1998年の1月10日、僕はオーストラリアから福岡空港に帰国した。
なんだか、再び呼ばれたような気がした。
この12年色々あったが、本当に幸せだと思う。
妹は子供2人と旦那さんを連れて。
僕はお嫁さんになる人を連れて。
両親と一緒に秋田で楽しい時間を過ごした。
親戚もたくさん集まった。
お婆ちゃんとお爺ちゃんの写真を見ながら「あぁ、この人たちがいなければ、ここにいる大勢の人たちは存在すらしなかったんだな」と、ふと思った。
そして何もお礼を言ってないし、感謝もしていなかったことに気がついた。
月日は流れたが、やっぱりお婆ちゃんとお爺ちゃんに話したいなぁ。
お礼を直接言いたいなぁ。
今、幸せだ
ありがとう
いずれ自分にも子孫が出来て、子孫が今の自分と同じ気持ちになるのだろうか?
まったく考えたこともないけど、この幸せな気持ちを次の世代にバトンタッチすることをふと考えると不思議な感覚になった。
子供の頃は寝台列車に乗って秋田へ行っていた。
夜の9時くらいに上野を出て朝の6時くらいに着いていた。
軽く海外に行けるくらい時間がかかった。
今はローカル線に40分揺られた後、新幹線で行けるようになったが、それでも4~5時間かかる。
でも、寝台列車に揺られて秋田に行った時の方が、旅情を感じられたなぁ。
上野から秋田に向かうと、新庄を越えたあたりくらいから雪が見えてきて、わくわくしたものだった。
最近有名になった、横手焼きそば。
挽肉が入って、目玉焼きと、紅しょうががあるのが特徴。
子供の頃、よく食べたのだ。