例えば、電車の中で乗り合わせた人々が話をしている。
会社の愚痴を言っている人もいるかもしれない。他人には特に面白くもない、身内の笑い話をしている人や、何かを抱えて黙り込んでいる人も、いるかもしれない。
知らない他人の、
知らない人生の。
知らない断片。
自分に関わりはないけれど、ふと耳にした話から、我々は連想をする。今、目の前で話している二人の、関係性。
話題に上っている人物の、人となり。彼(彼女)らの価値観。人生観。
ほんの一瞬、
関係のない他人の人生が意識に入り込む…。
ふらりと入った、風変わりな喫茶店で、そんな瞬間に耳を済ませ、彼らの人生を覗き見ているような。
そんな気分にさせられるお芝居でした。
只今、ホンワカしてます。
お芝居っていいなぁ。と、思うのは、面白い芝居に出会った時でも、泣ける芝居に出会った時でも、いい役者さんに出会った時でも、もちろんあるんですが。
居心地のいい芝居って、そんなに無いよなぁと思うのです。
という訳で、二度目の『三日月堂書店』です。
舞台は、タイトルどおり、三日月堂書店という古本屋のお話。
以下、ネタバレ気にせず書きますので、読みたくない方はご注意を。
古本屋であり、喫茶店も兼ねたその店には、いろいろな人々が出入りします。
田舎ですので(そういえば具体的にはどこなんだ?青森なのかな?)みんな、店主夫婦とは顔見知り。
彼らは、店に顔を出すだけではなく、店の中に自分たちの事情や、人生も持ち込みます。
とにかく、ここはいろんなものを兼ねた場所のようでした。
社交場、会議室、相談所。
休憩所、友人宅。思い出の場所。家のない人がとりあえず寄る避難所のようでもあり、もちろん、喫茶店であり、古本屋。
店主の祖父の代には、そもそも、その古本屋の建物は、映画館であったらしい。(店主は、北海道育ちなので、映画館時代は知らない様子)
この空間にいると、まずそこ(それ、ではなくあくまでもそこ、その場所という感覚)がお芝居であることを忘れます。客席すらも、舞台の上で繰り広げられている日常に埋没しそうになる。
そして、すっかり自分の気持ちもその中の一部と化した時になって、「ああ、これはお芝居だ」と思う。
ストーリーはあるようで無く、無いようで確かにある。
意識的なのか、それとも無意識的になのか、登場人物の背景を説明するセリフは、ほとんど最低限しか織り込まれていません。だから始めは人間関係や、彼らが何をしている人なのかもよくわからない。
会話に耳を澄ますうちに、ようやく輪郭が見え始める。
しかも、彼らは彼らの了解のうちでしか会話をしないので、かなり頻繁に話が見えなくなります。
ある意味では難しく感じるお芝居です。
でも、他人の事というのは、案外そんなものです。我々は結局、人の言葉の端々から、相手の思惑や考えを推測するしかない。
他人の人生は垣間見えるだけで、本当に全て知ることができるのは、自分の人生のみ。
でも、他人の人生に自分を映して、理解できることもある。
登場人物たちもまた、そうなのです。
うーん。何だか、書きたいことが上手く書けませんが、この芝居の中に、メッセージ性が無いかといえば、そうではない気がします。
押し付けるようなものでも、わかりやすいものでもないけれど、芝居全体が語っている。
それは、それぞれの登場人物の物語や問題や、滑稽さなどではなく、人が人を理解すること(理解できないということ)そのもの。…であった気がします。
しかし、居心地のいい空間でした。ああいうお芝居もあるのだなぁ。面白い。
中野MOMOにて。
明日が千秋楽です。