こんにちは。
ホリスティック美人塾主宰のMichikoです☆
すっかりご無沙汰をしてしまいました。
一昨日、今年の1月に92歳のお誕生日直前で亡くなった
祖母の納骨をしてきました。
この祖母には特に可愛がってもらっていたので、
今まで見送ってきた親戚の中でも、一番近しい人の死でした。
今回のことで、どんなに頭で理解したつもりになっても、
悲しいことは悲しく、また、まだまだ何にも解っていない自分自身に
改めて気づきました。
亡くなる数週間前ごろから、祖母が言葉を発せられなくなると、
手を握っていても、祖母の言いたいことが分からず、
今までどれだけ目で見えるものや、発せられた言葉を
表面的に受け取って、分かった気になっていたのでしょうか、と
愕然としました。
そんな中、姉だけは、言葉を発せられなくなった祖母とも
交流できているように見えました。
姉は、特殊な能力を持っているわけでもないですし、
医療関係者でもありません。
ただ、祖母を見た目や数値、データ等で判断せず、祖母をそのまま、
ありのまま感じるようにその場にいるので、姉がいると、祖母は
分かってくれる人がいる安心感なのか、手を伸ばしたり、
話にうなずくのです。
青木新門さんの『納棺夫日記』の中に、こんな文章があります。
末期患者には、激励は酷で、善意は悲しい、説法も言葉もいらない。
きれいな青空のような瞳をした、すきとおった風のような人が、
側にいるだけでいい。
(青木新門著『納棺夫日記』 136-137頁 文春文庫)
私は今回、姉の姿から、この文章で表現されている人は
こういう人なのではないか、と感じました。
ちょうど今年のお正月、姉と京都へ行った際に、普段の話し方や
言葉の使い方について、状況や感情を話すことよりも
自分の「気持ち」を表現すること、相手のことも表面的な言葉の
意味でなく、奥にある気持ちを感じながら話をするといいよ、と
言われ、手探りしているところだったので、今回の祖母を見送らせて
もらう経験は、言葉だけでなく、生き方も一から生き直しだ・・・
と、思い知らされるものでした。
一人の人の死は、たくさんの気づきと、これからを生きていく
エネルギーを送って下さるものですね。
今年は巳年で、瞬間瞬間、脱皮の一年です。
理事を務めさせていただいているNPO法人心とからだの研究会の
機関紙に、ちょうど紹介文を掲載していただきましたので、今年の
抱負をお読みいただければと思います。