昨日、午後8時より皇大神宮(内宮)で第62回式年遷宮遷御が厳か
に行われた。
最近、テレビ番組で都度々神宮関係の番組が取り上げられていて
今更,北斗星が説明をする必要もないのだけど、北斗星が今まで生
きてきて仕事の節目や思い悩んだ時に神宮(伊勢)に行くと清浄な
境内を歩くだけでも身体の中まで洗い流してくれまたリフレッシュが
出来る場所で北斗星の人生においても大事なところでもある。
理屈を云えば数限り無いけど、何も語らなくても神宮は静かに北斗
星を受け入れてくれる。

建国祈念祭

 北斗星が皇太神宮(内宮)に参宮をしてもご正宮に参拝が叶わな
かった事が1回ありました。この写真は平成3(1991)年2月11日に
訪れた時です。
この時、建国記念日で内宮では建国祈念祭が挙行されていました。
折悪く春先の低気圧で風雨が強くこの写真の通り大きな雨粒が降り
注ぎとうとうご正宮も宮域にある荒祭宮(あらのつりのみや)、風折宮
(かざひのみのみや)にも行けない程の風雨が強くなり参拝を断念を
した。今から22年も前の事です。

北斗星はこのブログでも伊勢神宮と書きません !

正確には『神 宮』が正式名称であるからです!!

でも他に霧島神宮、明治神宮、鹿島神宮、香取神宮等、神宮号を
名乗る神社がいくつかある。
もともと、「神宮」の社号を名乗るためには勅許(天皇の許可)が戦
前まであった。その始まりは『日本書紀』は、神宮(伊勢)と石上神
宮だけが「神宮」と名乗り、平安期には石上神宮の神宮号を排し
鹿島神宮と香取神宮の社号はこの3社のみ許され江戸時代終末
まで続いた。

名称は大事である !!!

簡単に伊勢神宮と地名を被せて呼ぶのは解り易いが創設する以
前の天皇家のかかわり歴史的経緯、格式等を見てみれば『神 宮
』と呼ぶのが私は良いと思う。
しかし『神 宮』、『神 宮』と連呼すると、東京にある神宮球場と勘違
いする人もいてなかなか厄介である。
北斗星は友人のメールや手紙にも頑固に、神宮(伊勢)と表記をし
ている。


風折宮橋からの 平成21年11月9日皇大神宮(内宮)風折宮橋より五十鈴川を望む。

話がそれてしまいましたが東京では昨日(平成25年10月2日)の午後
7時以降の何処のテレビ局でも神宮(伊勢)皇大神宮(内宮)の遷御の
儀を取り上げていた。
もともとは人に見せるものではないので秘儀に近い祭儀でもある。
式年遷宮は8年余もの期間と時間と人々奉賛で成し得る事業である。
北斗星は遷御の儀には招かれてはいないが午後8時我が家の神棚
に静かに手を合わせた…

北斗星家の神棚

 
御神体の 遷御は次の様に行われるらしい…
北斗星が直接見た訳でなく正確ではないのでこのブログを読んで
いる皆様が想像出来ますか?

遷御は天照坐皇大御神様の御正体である八咫の鏡(やたのかが
み)を新御正殿に遷し奉る行事である。
一般招待者3000名が見守るなか道歌と云う雅楽が奏でられるなか
大少宮司が御正殿の御扉を開き禰宜が共に参入して殿内に明かり
が灯される。同じくして新御正殿にも明かりが灯される。
瑞垣御門下の宮掌が…
カケコ- !  
                      カケコ- !
                                         カケコ- !
鶏の声をまねた神職の「鶏鳴三声(けいめいさんせい)」を唱える
天の岩戸に閉じ籠もった太陽神の天照大神を外に出そうとして、
鶏を鳴かせたという故事にちなむとされる儀式。
天皇陛下の差遣される勅使手塚英臣掌典長が「新宮に遷幸願い
奉る」と神儀奉遷の祭文を奏上して、出御(しゅつぎょ)、出御、出御
と三唱、唱える。
神宮臨時祭主 黒田清子さん(今上陛下第一皇女)大宮司鷹司 尚武
氏以下神職、供奉、雑掌等百数十名が奉仕するなか、皇室代表秋
篠宮、安倍内閣総理大臣を含む8閣僚が参列、北斗星は招かれな
かったが…3.000名の招待者の見守る中、挙行された。


内宮の神域は、明かりが一斉に消され、清らかで穢れのない浄闇
(じょうあん)と言われる暗闇と静寂に包まれ、遷御の儀は厳かに始
まる。

大神遷幸の列はおよそ次の様である。
神宮(伊勢)ホームページ

御神宝は皇大神宮だけでも19種199点もある。
(他に豊受大神宮、別宮、摂社末社計125社の御装束525種1.085点
御神宝189種491点 合計1,576点作成され何れも人間国宝を含む
一流工芸家の手になる第一級品ばかり…しかしどんなに名のある
工芸家であっても神の前では一奉仕者でしかない…)


旧正殿から、西隣の新正殿まで遷御の列が歩く距離は約320m。
雨よけのために設けられた雨儀廊(うぎろう)を通り、午後8時30分、
神様は桧の香りが漂う新御正殿殿へ入御される。
召立にしたがって前陣と後陣の奉持してきた御神宝類を禰宜が
殿内に奉納して最後に大少宮司が御扉を閉める。
勅使が祭文を奏上して奉仕した全員が中重(内玉垣と外玉垣の間
中重鳥居のある場所)で神宮の八度拝を行い順次退出をする。

皇大神宮御垣内図面 
さらにその帰途、荒御魂遥拝所において荒祭宮を遥拝する。
この遷御が行われている時、今上陛下は皇居の神嘉殿(しんかで
ん)の南庭で神宮(伊勢)の方角に向かって拝礼されたそうである。

式年遷宮については他で沢山語られているので改めて説明は省く
が神様が瑞々しさを取り戻し、永遠の発展を願う「常若(とこわか)」と
いう神道の考えと云われている。
お正月を迎えるため家の大掃除、自宅の周りを掃き清めるのと同じ
事と北斗星は思う。


あと数日御の10月5日(土)午後8時から豊受大神宮(外宮)で遷御の
儀が斎行される。
台風23号が近づいているため当日の天気が心配であるが無事に
遷御が出来る事を祈り筆を置きたい。

(ここまで長々お読み戴きましてありがとうございます。誤記がある
やもしれませんが薄学のためお許し下さい。)












 

 




  

神宮(伊勢)はあと数日で式年遷宮を迎える。
一般に式年遷宮は『神様の引っ越し。』として社殿の建替えをして
神移しをするように簡単に説明をされているが正しい答えではない。
社殿の建替えはもちろん神様が使われる装束神宝までもが一切
新しく作られる大掛かりな事業でもある。
一番初めは皇大神宮(内宮)の入り口、五十鈴川に架かる宇治橋
の掛替が行われる。
今年の式年遷宮の4年前、平成21(2009)年11月3日に宇治橋渡始
式を斎行された。


北斗星も完成後の平成21年11月9日に愚妻と共に真新しい宇治橋
を渡り神宮(伊勢)内宮に参拝をしました。

 宇治

宇治橋は明治22年から式年遷宮に合わせた造替であるがそれ
以前は限り修理をしながら…修理も出来ない状態になり掛替を
行っていたようです。
 
出来たばかりの真新しい宇治橋は桧の香りに包まれ、橋の欄干
に手を触れると優しい桧の肌理の細かい滑々した感触は今も忘
れられません。


今回の宇治橋造替も材料である桧材、欅材、和釘等の御用材
は神宮から支給品で建設請負は株式会社間組が取り仕切った。
橋梁は建築では無く土木の分野であるのでゼネコンに委ねては
いるが実際は造替のため従事した職人は宮大工、舟大工等で神
宮(伊勢)の御遷宮に係れるため若い宮大工さんも参加されてい
ると三重テレビで放映された『時をこえて』と云う番組で紹介され
ていた。



平成21(2009)年11月9日皇大神宮(内宮)、神明鳥居は豊受大神宮
(外宮)御正殿で使われていた棟持柱 ! 内側の神明鳥居は皇大神
宮(内宮)御正殿の棟持柱です。
今回の御遷宮後、外側の神明鳥居は三重県桑名市桑名宿の七里
の渡しの神宮(伊勢)の一位の鳥居(神宮遥拝用)として、内側の鳥
居は鈴鹿峠の麓にある三重県亀山市関町関宿の関の東の追分、
一位の鳥居(神宮遥拝用)として20年間使用される。

 
宇治橋は16基の御柱があり葱花型(そうかがた)仏教式に云えば
擬宝珠で装飾される。
橋の造替はされるがこの金物だけは使い回しです。

宇治橋の西詰北側第二の男柱の葱花型には
「天照皇太神宮 御裳裾川御橋 元和五巳未年三月 奉行 山口丹
波守 源直信」と刻まれている。
元和(げんな)五巳未年三月とは西暦1619年4月である。
大阪夏の陣の後の年代である。
江戸幕府の職制に山田奉行が置かれた。
山田奉行は神宮(伊勢)の守護・造営修理と祭礼、遷宮、門前町の
支配、伊勢・志摩における訴訟、鳥羽港の警備・船舶点検などを担
当した。
この葱花型には宇治橋の守護として内宮所管社の饗土橋姫神社
の万度麻(まんどぬさ=お守り)が収められている。

宇治橋平成元年解体古材表札我が家玄関

 我が家の玄関、北斗星家の表札は実は宇治橋の古材を頂い
たものです。
第61回式年遷宮に先達って造替するため平成1(1989)年 に解
体された古材です。

表札の字は伊豆山温泉・蓬莱旅館の女将 古谷清遊さんにムリ
ムリお願いをして書いて戴きました。

近所の書道の愛好家の方がこの表札の字をご覧になり町早春
さんの書いたものと勘違いするほど流麗で独特の書体です。

我が家の玄関の写真が少なくクリスマスに撮影したものしかあり
ません。
神も…仏も…キリストも何でも縋る節操の無い北斗星です

宇治橋平成元年解体古材表札 
 今も我が家の玄関にあり、大切な守り神でもあります。

 宇治橋平成24年8月24日
平成24(2012)年8月24日に参宮に訪れ、宇治橋を撮影。

神宮(伊勢)の事はまた別に書く予定ですが…平成24年8月に神宮
に参拝した時は、「夏場は比較的参拝者が少なくノンビリとお参り
…ー」  と思い、神宮に来て見ると最近のパワースポットブームも
あって家族連れ以外に多くの若い女性達の姿が多く目立ったのが
印象的でありました。



 






 

 

 

平成25(2013)年6月16日から1泊2日で結婚記念日と愚妻の
誕生日を兼ねてで愚妻と奥湯河原温泉に出掛けた。
我が家はネコの多頭飼いをしているので泊で出掛けるのは
そう多くは無い。
隣家に住む義妹にネコを託してしての旅行である。
そのため東京の片田舎から片道2時間程度で行ける範囲で
の旅行地として奥湯河原温泉を決めた。
奥湯河原温泉については後日このブログでお知らせすると
して道中にある小梅堂の名物 山芋かるかんをご紹介したい。
 小梅堂はこの山芋かるかんときび餅が名物である。
きび餅は写真も撮らず愚妻と食べてしまい後の祭り !! 写真
が無いと表現力の無い北斗星は上手く説明が出来ないため
今回は山芋かるかんのみの紹介になり済みません…

小梅堂山芋かるかん2 
 小梅堂の全景、奥湯河原に向かうバスの車中から撮りました。
小梅堂のきび餅、山芋かるかんは以前紹介した京懐石海石榴
に宿泊の土産として買い求めその美味しさは何時も頭の悪い
北斗星は何時も忘れることは無かった。
小梅堂の店内に入ると二昔余以来であったが懐かしさで一杯で
あった。

小梅堂3

 

 小梅堂は 創業90年、湯河原一の老舗と言われ「きび餅」の元祖
和菓子店である。
湯河原の名物の名物としてきび餅は数店の和菓子店が製造販売
をしている。
北斗星は小梅堂のものしか食べた事が無いので他店と比較が出
来ないが小梅堂のきび餅は本当にお勧めです。


小梅堂山芋かるかん3

 
  小梅堂山芋かるかん3 
  小梅堂の山芋かるかん

北斗星は鹿児島の明石屋のかるかん(軽羹と書く)がお馴染みで、
東京は紀伊国屋でも手に入れることが出来る。
材料は米粉と山芋と白砂糖、蒸して製造をする。江戸時代薩摩藩
では当時貴重な白砂糖を使用した製法のため

で是非ご覧戴きたい。http://www.akashiya.co.jp/stories/

小梅堂山芋かるかん5 
 小梅堂の山芋かるかんを割ってみた、上品な漉し餡がかるかんを
際立たせる。
お茶は当然としてコーヒーや紅茶にも合うお菓子です。
 

小梅堂で何故山芋かるかん…なのかは上品な女将さんにお聞きし
たいところ…お嫁さんらしき方とお二人で店内を切り盛りれていまし
た。北斗星と愚妻はきび餅と山芋かるかん、北斗星のリクエストとし
て小梅堂のゆず羊羹、愚妻は和三盆の干菓子を買い求めた。

小梅堂
http://www.yugawara-sci.or.jp/gift/koumedo/koumedo.htm


小梅堂
http://www.kanagawa-kankou.or.jp/meika/shop/koume_dou/index.html