世界で最初に原爆を扱った作品
映画「原爆の子」
1952年 97分近代映画協会制作
<監督>
新藤兼人
<キャスト>
乙羽信子、
滝沢修、
宇野重吉、
多々良淳、
奈良岡朋子、
北林谷栄、
齋藤美和、
殿山泰司、
東野英治郎、
芦田伸介、
大滝秀治、
劇団民藝の方々オンパレード!
おとよ婆さん演じる北林谷栄さんはこのころから老け役やっています。このとき41歳
<内容>
石川孝子(乙羽信子)は昭和二十年八月七日原爆が投下された時広島に住んでいて、家族の中で彼女一人だけが生き残った。
その後瀬戸内海の小さな島で女教員をしていた孝子は、原爆当時勤めていた幼稚園の園児たちのその後の消息を知りたいと思い、夏休みを利用して久しぶりに広島を訪れた。
街は美しく復興していたが、当時の子供たちは果たしてどんなふうに成長しているだろうか。
幼稚園でともに働いた旧友の夏江から住所を聞いて次々と訪問していく孝子だった。
三平も敏子も平太も中学生になっていた。三平は子だくさんな貧しい父母の元で、靴磨きをして家を助けていた。
敏子は原爆症で寝ていた。孤児の彼女は教会に引き取られて看護されていたが、明るい顔をして生きていた。
平太も親を失って兄や姉の手で養育されていたが、一家は明るくまじめに生き抜いていた。
孝子は亡き父母の下で働いていた岩吉爺(滝沢修)やに出会ったが、息子夫婦を原爆で失い、老衰し、盲目になり、七歳になる孫の太郎と乏食小屋で暮らしているのだった。孝子は二人を島へ連れていこうとしたが、どうしても承知しないので太郎だけでも引き取りたいと思った。初めは承知しなかった岩吉も、孫の将来のためにようやく太郎を手離すことにした。孝子は広島を訪れたことによって色々と人生勉強をし、また幼い太郎を立派に育てようという希望を持って島へ帰っていくのだった。
(Movie Walkerより抜粋)
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先日の裸の島に続いて、新藤兼人作品。
若き日の新藤監督もそうですが、出演者は後の名優オンパレードですね。
そして子役も含め俳優陣の演技が心に響いてきます。
原爆を扱った題材のせいもあるかもしれませんが・・。
主人公の孝子(乙羽信子)が教え子を訪ねながらひとつひとつ、原爆による悲劇と対峙していく物語です。
終戦後7年は経過していますが、まだその傷跡が残る広島の街並みもこの映画でうかがえます。
各場面場面が心を揺さぶらせてくれます。
面会した子が原爆症で寝たきりになっていた。
もういつまでもつかわからない命。
その少女が歌を歌ってと懇願する。
幼稚園の時に歌っていた歌を少女に聴かせながら・・・。
色々な状況の人々が登場してきます。
原爆によって子どもが生めない体になってしまった旧友、そして足を悪くしてしまった兵太の姉が、嫁ぐ前日に過ごす兄弟らとの団欒など、各場面に古き良き日本映画の哀愁を感じさせてくれます。
また次のシーンは涙腺が崩壊しました。
戦争でそして原爆で子供夫婦をなくし、なおかつ自分も原爆によってケロイド状の顔になってしまい視力も奪われてしまった、元奉公人の岩吉爺さん。
乞食稼業(差別用語になるかもしれませんが、映画の中で表現されていた言葉をそのまま使用します)で孫を育てている。
その孫のためを思って乙羽信子は自分が引き取らせてもらおうと、孫の太郎に話します。
岩吉爺さんは自分も後から行くから先に行きなさいと太朗に話す。
太郎は「じいちゃんと一緒じゃなきゃ嫌だ」と答える。
必ず後から行くからと話すも、
「うそだ。一人じゃいかんよ。じっちゃんは後からこないだろう」と怒ります。
言うことを聞かない太朗をしかるのですが、太朗は岩吉爺さんの足にしがみつきワンワン泣きます。
こうなるだろうと予測はしていましたが、涙なしには観ることができませんでした。
ひとつ突っ込むとしたら、原爆のためにほどんど見えない盲目という設定の岩吉爺さんなのですが、まったくその感じがしませんでした。
スタスタと歩くし、料理もしっかり作るし・・・w(まぁ見逃しましょうw)
しかしその後、太郎が戻ってきては彼のためにはならないと、ある行動をとります。
孫のためを思ったすさまじい覚悟の行動。
そして彼の「自分の体を皆に見てもらえるように」と発した、最後の言葉が強烈に印象に残りました。
この映画もラストシーンは、なかなか考えさせてくれる素晴らしいラストだったと思います。
曇り空の中、上空に聞こえる飛行機の爆音。
空を見上げる孝子の、不安落胆を感じさせる憮然とした表情に、この映画の核心が表れていたと思います。
戦争が終わった後の人々の生活。
それは戦争の傷跡を残しながら引きづりながらでも、明日に向かって耐えながら生きていく人々がいました。
真実を撮る。社会派の新藤兼人監督の真骨頂を感じさせてくれる作品でした。
改めて平和のありがたみを感じます。
また、来年は元号が平成から改元されます。幸いにして、平成の時代には戦争が日本にはありませんでした。
新元号の時代も平和な世の中を維持できるよう、他人事ではなく今まで以上真剣に、核兵器や原発問題の事なども含め、考え行動する必要を痛感しました。
<おまけ>
反核映画の第一号
以下ウィッキペディアより抜粋。
1953年昭和28年)、カンヌ国際映画祭に出品された。
しかし、外務省はアメリカの対日感情を刺激することを怖れて西村熊雄駐仏大使に、主催者からの参加拒否の依頼、参加の場合も受賞は辞退とするように電報を送ったが、フランス外務省と協議した西村は「政府が介入すればかえって世界の注意を引くだけであるから、取り扱いは映画祭当局の判断に任せる方を適当とする意見一致した」として、そうした工作は実行されなかった。
また西ドイツでは反戦映画として軍当局に没収されるなど 、各国で物議を醸したが"原爆許すまじ"という世界の声に合致し各国で大きな反響を呼び、1954年(昭和29年)には第8回カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭で平和賞、1956年(昭和31年)には第10回英国アカデミー賞で国連平和賞やポーランドジャーナリスト協会名誉賞など多くの賞を受賞し、世界に於いて反核映画の第1号となった。
現在もこの映画はヨーロッパで度々上映されている。アメリカでは1995年(平成7年)にカリフォルニア州の大学の博物館で上映、2011年(平成23年)にはニューヨークブルックリン区で上映された。
5点満点中3,9