はじめての坐禅 | Foot and Ankle

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足部の機能と足・脚のトレーニング

今朝は近くの合気道道場が主催している「早朝坐禅会」に参加させて頂きました。

私はリハビリに呼吸法を取り入れているため、ヨガや民間療法等、様々な呼吸法や身体内観法を研究していますが、いわゆる坐禅をきちんと指導して頂くのは実ははじめて。

禅寺でするものとは少々異なる趣で、気軽に体験することができました。

ですから、途中にビシッと叩かれるのもなし(笑)。

はじめてということで、礼法や禅で用いる坐法(結跏趺坐あるいは半跏趺坐)、そして呼吸法に関する一通りの説明の後、20分✕2回という比較的短時間の坐禅を行ないました。

坐禅の目的や意味について、先生から色々とお話を伺う中で特に印象に残った話が2つ。

一つは、「日常で身をおいている時間や場所(空間)といったしがらみから、一旦自分を切り離す」ということ。もう一つは、「集中はするが一生懸命考えるという意味ではなく、五感に注意を向けるという意味での集中」というお話。


私が最近、つくづく思っていることの一つが、日常にしても健康づくりにしても或はスポーツにしても、また身体や心についても、中庸が崩れて陰にも陽にも偏ってしまうことが怪我や病期の原因になっているということ。

一般論としては、良く耳にする内容で、当たり前なこととして十分に理解しているつもりでしたが、心や身体を病んでいる人にまさに共通する「兆候」だと感じられるようになりました。

理学療法士(その前はフィットネス・コーチ)という職業柄か、以前は人を観察するとき、痛みや怪我、障害の原因を筋力や体格、関節の動きといった外見上の特徴ばかりに目を奪われていました。

でも、実は随分前から自分の見立てが見当違いであるかもしれないという疑問は持っていいたのです。

患者さんを前にして、運動学的には間違っていないと思われるような評価やプログラムを組んではいても、常に「これが正しいのだろうか。自分の見立てというのは、全く事の本質に切り込んだものではないのでは?」というような自己不信があったのです。

そんな時、理学療法士になりてての頃は、理学療法士の先達や、自分とは異なる技術や理論を展開している方の講習会等に参加して、「足りないもの」や「本質的なもの」を探していました。

答えは全く見つかりませんでした。

ところが、10年程前から民間療法や武術はもとより、コーチングや自己啓発セミナー等、はたまたマネジメントの勉強等にも手を広げて模索をしているうちに、知らずに「観の目」が養われていたようです。

以前には患者さんを前にして気に留めもしなかったようなことに気がつくようになり、それが、より問題(病期や怪我)の本質に近いことであると考えるようになってきました。

坐禅の先生の教えはもうひとつ、「坐禅をする目的が何かが必要」。

私の場合は武術の稽古も坐禅も、目的は「理学療法士、或はコーチとしての観察眼を養うこと」です。