マンオブザ北海道 栗林元二郎 | 北海道歴史探訪

北海道歴史探訪

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FMアップル「北海道歴史探訪」
毎週金曜日20:00〜21:00
FM76.5MHZ YouTubeでも放送中
北海道には歴史がない、あるいは浅いなどといわれますが、
意外と知られざる歴史は多いのです。
そんな北海道にまつわる歴史を紹介します。

 

 

 

 

FMアップル「北海道歴史探訪」

毎週土曜日11:00~12:00

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2017年3月4日の放送テーマは、栗林元二郎でした。

 

 

 

 

                    

 

北海道の農業は、行政から民間まであらゆる人々が切磋琢磨して向上させてきました。実際の開墾から作物の育成、さらには教育など、様々な側面を充実させていかなくてはなりませんでした。

 

明治から昭和にかけて、それらのことを推進した人物がいました。彼の名は栗林元二郎といいます。

 

元二郎は明治29年、秋田県の農家に生まれています。当時、農家の土地を相続できるのは長男だけ。次男・三男は他所へ土地を求めて出ていくか、違う商売を始めるしかない時代でした。

 

1919年・大正8年、22歳の元二郎はそんな境遇の仲間たちを引き連れて、北海道に入植することを決心します。同行した人々は全員で80名程度。移住先は、現在の芽室町上美生でした。

 

元二郎と北海道庁との間では、5年間で一定の面積の開墾に成功すると、その土地は自分たちのものになるという条件がつけられていました。彼らは札幌から十勝に移動し、入植地に入っています。

 

この時期、十勝は晩成社が入った後で、人口は12,000人になっていました。しかし彼らの開墾地は、全くの原生林。本当に開墾できるのかと誰もが不安になっていました。

 

団長の元二郎まで怯むわけにはいきません。彼は率先して開墾を行いました。その労働時間は、1日に20時間にもなったともいわれます。初年度で開梱した土地は30ヘクタールにもなりました。

 

それに勇気づけられた人々も開墾に励みます。その結果5年間の予定を大幅に短縮し、わずか3年で200ヘクタールもの土地が開墾されました。この業績によって、元二郎は北海道庁から功労賞を受賞しています。

 

受賞後、元二郎は芽室にとどまらず、人々を北海道の農地に迎える仕事をしていきます。彼は北海道庁の移民招致係として、多くの入植者を募っていきました。

 

しかし根本的なこととして、農家の次男・三男が農業にチャレンジするには経営センスが必要だと感じていきました。そしてそのためには、教育が絶対に欠かせないことだと考えるようになります。

 

元二郎は、まず自分の能力の幅を広げようとしました。農業経営をするにあたって、酪農を知らないというわけにはいかない。そう考えた元二郎は、札幌真駒内種畜場に研究生として入学しました。

 

実践はよく知っている元二郎でしたが、化学などの勉強には苦戦しました。それでも彼は生来の負けず嫌いで、猛勉強に明け暮れたと伝わります。そしてついに、独学で教員の資格をとりました。

 

仕事場として選んだのは日本植民学校でした。当時、中国や南米に渡る農業移民を養成する学校として知られていました。学力不足のため一度は断られますが、猛勉強の末に採用され講師となりました。

 

活躍の場を得た元二郎でしたが、働いてしばらくすると学校方針について違和感を覚えるようになりました。

 

日本植民学校の教育は、中国や南米の語学中心でした。肝心の農業の方は、現地に行ってから覚えれば問題ないとの方針でした。これに開墾で実績を積んできた元二郎は反発します。

 

農業には実践教育が必要。それが彼の信念でした。元二郎は自分の実体験を踏まえ、精神と技術を伝達する学校を作りたいと願うようになります。

 

元二郎は各所を奔走。知り合いの伝手を頼って、当時の総理大臣・斎藤實(まこと)にも助力を得られたといいます。斉藤も鹿追に土地を持ち、農業学校の必要性を感じていたともいわれます。

 

大正15年、元二郎は札幌市豊平区に山林農場の土地・310ヘクタールを購入しました。

 

そして昭和6年、農業専門学校を設立します。学校名は八紘学園としました。八紘とは広い地の果てという意味で、道を切り開くというコンセプトでした。

 

賛同者も多岐に渡り、斉藤實の他、理事長には元海軍大将・財部彪(たからべ・たけし)。初代学院長には佐藤昌介というように、錚々たる人物が就任しました。

 

いよいよ学校がスタート。しかし農機具はなく、いつも北海道大学農学部から借り受けながらの勉強だったといいます。その後何度か経営難にも見舞われましたが、生徒数も増え安定した学校経営が続いていきました。

 

昭和14年、元二郎は満州国での開発にも乗り出します。4,000ヘクタールの土地を確保して、八紘村を発足させました。彼は酪農を中心とした農業を展開しようとし、全道から募集した500名の移民団を組織します。

 

しかし日本の配線によって、その事業は頓挫。引き上げを余儀なくされました。戦後は農地開放問題が浮上。また中央の政財界からの援助も無くなり、経営的に厳しい状態が続いていきます。

 

元二郎は資金集めをしなくてはなりませんでした。そこで考えたのが、ジンギスカン事業。元々月寒では、明治から種牛牧場があり、食肉を含めた綿羊・牧畜業が盛んに行われていました。

 

昭和28年、元二郎は中国から持ち帰ったジンギスカン鍋を使い、ジンギスカンクラブを発足させます。外でのジンギスカン宴会を、名士を招いて実施します。またクラブを大々的に宣伝して、社交場としてのジンギスカンクラブを定着させています。

 

このことが、昭和40代になってからのジンギスカンブームに、一役買ったといわれています。

 

その後も、八紘学園・ジンギスカンクラブなど事業を継続させた元二郎は、昭和52年に81歳で亡くなっています。

 

現在も札幌市豊平区に広大な敷地がある八紘学園。その始まりは、北海道農業を実践的に学ぶという目標が掲げられて興されたものでした。その教育方針は、現在も脈々と受け継がれています。

 

 

 

 

出典/参考文献

続・ほっかいどう百年物語 STV

インターネット資料