1834年石狩地震 | 北海道歴史探訪

北海道歴史探訪

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FMアップル「北海道歴史探訪」
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北海道には歴史がない、あるいは浅いなどといわれますが、
意外と知られざる歴史は多いのです。
そんな北海道にまつわる歴史を紹介します。

 

 

FMアップル「北海道歴史探訪」
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2017年3月11日の放送テーマは、1834年石狩地震でした。                 

 

 

何年もの間、巨大地震に見舞われていない札幌周辺地域。しかし歴史を紐解くと、札幌周辺でも大きな地震が起きています。記録に残るもっとも古い地震は、石狩地震といわれているものです。

 

1833年から1835年ころは、国内が多難な時期でもありました。1833年・天保4年からは歴史的な大飢饉が人々を襲いました。また、この年10月には新潟と山形で大地震が起きています。

 

さらに、翌1844年・天保4年4月には岐阜でも大地震がおき、いつまた災害がおきるかわからないという空気が流れていました。

 

そんな1834年・天保5年旧暦1月1日・現在の2月19日午前10時頃、蝦夷地・石狩地方で大地震が発生しました。

 

マグニチュードは推定で6.4。凄まじい揺れが襲いかかり、地が割れ・泥が噴出するなどの大惨事となります。

 

当時、石狩地方は松前藩により、イシカリ場所が置かれていました。場所は10を超える知行主によって運上屋が置かれ、漁業を中心に賑わっていました。

 

人々の住まいや、茅葺きの蔵・会所などは凄まじい揺れに耐えきれず、全部で81の建物が全半壊しました。

 

様々な文献で地震についての記述があり、津波があったとする記録もあります。それによると、沿岸部に津波が押し寄せ家屋数十を洗い去ったといいます。

 

津波による死傷者はいませんでしたが、揺れは遠く東北・江戸までに達したとも記されています。

 

甚大な被害が出たことに松前藩は驚きました。当時の藩主は、松前良広という人物でした。藩祖から数えて10代目の藩主でしたが、祖父章広の後を継いだばかりで、わずか11歳の少年でした。

 

しかも病弱で、江戸につめてはいても将軍への拝謁もできなかったといいます。そのため、藩政も家臣たちが実施していました。

 

松前藩は被害の状況を確認し、江戸幕府に届ける必要がありました。藩は担当役人を現地に派遣し、当時のイシカリ場所の役人から、地震被害およびその時の対処方を取材しています。

 

役人は地震後の悲惨な状況を目の当たりにします。建物が潰れていて、役所の役人はオタルナイの出張所に避難し、アイヌ民族の人々はアツタとオタルナイの両所に避難したとあります。

 

また、幸いにして人的な被害はなかったとも記されています。そして、2月10日から松井茂兵衛という人物に、イシカリ場所地震について見回りをしていくように指示が出されました。

 

松井は人々の状況を記録しつつも、イシカリ場所の復旧には長い時間がかかると感じていたようです。

報告では、石狩の番人は鰊場の出稼ぎ所に引き取って急場をしのいでいる。石狩の復旧には、3年ほど必要。2年間のオタルナイへの引取を許可しましたが、今後の見聞によっては3年にも4年にもなるとされています。

 

その後も2月22日頃まで地震は続き、その度に地割や泥の噴出などに見舞われたと伝わります。

 

ようやく4月19日付けで、これらのことが松前藩から幕府に被害状況として送られました。そして5月18日付けで、江戸の御用番が受け取っています。

 

当時の慣習として、天災の被害が大きければ大きいほど、藩が治める租税も減免処置になるという事情がありました。従って、記録はある程度の水増しされたものではないかとの見方もあります。

 

いずれにしても、イシカリ場所は人が住めなくなるほどの被害がでました。さらに最近の研究で新たな事実も発見されています。

 

石狩地震で津波が発生したという記録は「松前郡役所報告」にのみに記されています。現地からの報告をまとめた「天保雑記」には津波の表現はありません。これにより津波の表記は、謝って伝えられたのではないかともいわれています。

 

もしも津波が発生していないとすると、震源域が石狩湾だったとすることにも疑問がでてきます。

 

記録にあるように、役所の役人はオタルナイの出張所に避難し、アイヌ民族の人々はアツタとオタルナイの両所に避難したということから、イシカリでは被害が甚大でしたが、他の近いエリアには被害がなかったと推定されます。

 

そういったことから、震源はむしろ内陸部の方だったのではないかと推測することもできます。内陸部の被害記録がないのは、当時の札幌周辺は、ほとんど人が住んでいなかったため、記録も残らなかったと考えられます。

 

この疑問に、現代の土木工事が一定の応えを出してくれました。現在、札幌では頻繁に大型建造物が建築されています。その際に、地下の地表調査が頻繁に行われるようになりました。

 

研究者たちが注目するのは、地層の液状化。液状化は震度5以上の大きな揺れが生じたときに残されます。その中で特に札幌市内北部で、広範囲に液状化が確認されました。その南限は、現在の札幌駅周辺になっています。

 

現在確認できる液状化痕跡は全部で3つ。もっとも古いものは2,000年ほど昔の痕跡。次が10世紀以降とされます。そして、もっとも新しいのが1834年・天保5年の石狩地震に相当するものとの発表がなされました。

 

日頃意識はしているのですが、現実に起こるとは考えたくない大地震。そんな意識が防災についての行動を控えさせているのかもしれません。しかし、地震という天災はいつおこるかわからないというリスクを抱えています。

 

札幌でも過去には大地震があった。このことを改めて認識して、日々安全に過ごせるよう勤めていきたいものです。

 

 

 

出典/参考文献

札幌市とその周辺の歴史地震と最近の地震活動 笠原稔・宮崎克宣

北海道大学地球物理学研究報告 1998-03-20

北海道の商人大名 山下昌也 グラフ社 2009

読める年表 自由国民社1990

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