北海道歴史探訪

北海道歴史探訪

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FMアップル「北海道歴史探訪」
毎週金曜日20:00〜21:00
FM76.5MHZ YouTubeでも放送中
北海道には歴史がない、あるいは浅いなどといわれますが、
意外と知られざる歴史は多いのです。
そんな北海道にまつわる歴史を紹介します。

FMアップル「北海道歴史探訪」
毎週金曜日20:00~21:00
毎週土曜日11:00~12:00(再放送)
FM76.5MHZ YouTubeでも放送中







2018年2月10日の放送は「証券取引所・商品取引所」でした。






                     

「トーク1」 

証券や商品の取引は、経済活動には欠かせません。北海道でも、当然古くから経済活動がなされてきました。その歴史は、活気ある人々の動きと共に、統制の歴史でもあったようです。



戦前、株式や債券の売買は清算取引が主体となって行われていました。清算取引とは、実際に株式の売買は行わず、買値と売値の差額だけに着目する投機的な方法で、反対売買も盛んに行われていたようです。



反対売買とは、差額決済を行うための売り・買いをさします。例えば、自分が売った銘柄の買い戻しなどのことをいいます。そのような行為で、利益を出すという方法がとられていました。



これらの売買は、本来の株式売買とは違う違法に近い行為でした。当時は東京を中心として行われていたことですが、地方も東京の風習に倣ってしまい、行き過ぎた状況が目立っていたといいます。



昭和15年には北海道有価証券業協会が発足していましたが、連日のように取引の免許取り消し処分が出てしまう有様でした。北海道有価証券業協会は、定時総会で監督官庁から厳重な訓示を受けています。



このような状況を打開すべく、北海道に証券取引所を早急に作る必要があるという声が高まっていきます。



昭和16年、協会の定時総会でこのことが議論され決定しました。すぐに協会は商工省関係機関に陳情します。しかしこの年の冬、日本は英米に宣戦布告。証券取引所の件は水に流れてしまいます。



戦後、経済界に新たな動きがあらわれます。財閥解体での株の民主化という概念が発達して、1つの企業への資本集中ということにも考え方が変わります。そして、資金の証券市場への依存が次第に高まっていきました。



北海道では、産業開発の資金を集めていくという社会的な課題もありました。人々にも戦前の機運は残っていたと見え、証券取引所の設立要請運動が盛んに展開されていきます。これにアメリカ占領軍も反応しました。



占領軍が言ってきたのは、清算取引の取りやめ。これは証券界に多大な影響を及ぼしましたが、元々健全な証券売買には不可欠なことでした。



それを受けて、北海道有価証券業協会・会長の岩崎武雄という人物を中心として、札幌証券取引所の設立運動が続けられていきます。



そして、ようやく証券取引所設立に取り付けました。札幌は全国で9番目の設立であったといいます。全くのゼロからの新設であったため、土地は札幌市が買収。建物は北海道が買収しました。



場所は現在の南2条西4丁目。証券取引所には、土地・建物が賃貸形式で提供されたといいます。



昭和25年3月30日、開所式が行われ、2日後の4月1日に初立会が実施されました。このときの会員数は15社。上場会社数は87社であったと、記録は伝えています。

「トーク2」

日本の商品取引所は、1730年、大阪の堂島米会所における帳合米取引がはじめといわれます。ここでの取引は差金決済取引であり、正米価格をリードし相場安定の機能を果たしたともいわれています。



これは、近代先物取引メッカ・シカゴ市場の誕生よりも100年以上前のことでした。そのころから日本では米価の安定が必須な社会だったとも言えます。



取引所は、商品市場における売買取引の健全な運営が行なわれ、商品価格の形成や売買などの取引を公正にしていく機能があります。しかし、いわゆる先物取引として投機的なイメージがあることも否めません。



1939年・昭和14年、戦時統制・米穀配給統制法の成立により、農作物の先物取引が廃止されました。この影響か、昭和15年に北海道の小樽取引所が解散しています。



戦後、商品取引所は復活を遂げます。昭和25年、商品取引所法が公布されました。この法律は、アメリカの制度を色濃く取り入れて、徹底した自由主義な立場に立った法律であったといいます。



それを受けて、人々は取引所の復活せつりつ運動が活発になっていきました。その結果、翌昭和26年に、小樽商品取引所が開所されました。7月3日に、水産物・農産物の初立会が実施されています。



華々しく登場した小樽商品取引所でしたが、その後は停滞を余儀なくされます。農産物か価格安定法の設立、雑穀共販の影響、何より北海道の経済の中心地が、小樽から札幌に移ってきました。



人々は発展策として、札幌への移転を考えます。昭和35年12月の会員協議会で、札幌への移転が承認されました。



人々は、さらに大きな取引をしていこうと、本州会員の獲得にも動きました。東京での仲買人との会議や、熱海での開設準備委員会を経て、次第に本州会員の加入が決定していきます。


昭和36年5月、小樽商品取引所は北海道穀物商品取引所と改称されました。小樽商品取引所から数えて、10周年の式典も執り行い初立会も実施されました。


現物商が多かった小樽時代の様相が一変し、東京・大阪・名古屋から実力のある業者たちが加わり、活発な取引が行われていくと共に、これまでできなかった大衆資本の取り込みも行われていきました。


その分弊害もありました。多数の外務員が大衆資本の取り込みを無理にしようとし、人々の商品取引の悪いイメージが浸透したともいます。


昭和42年、法律が改正されて人々の保護が重要視されるようになりました。自由主義精神の商品取引は規制・統制の対象になりました。


現在でも、証券・商品取引は経済の根幹として重要視されています。いろんな情報が飛び交う中、先人たちも様々な経済活動を行ってきました。


それは人々の生活そのものであったのかも知れません。



出典/参考文献

札幌事始 さっぽろ文庫

求められる「先物悪玉論」的思考からの脱却 野村総合研究所 大崎貞和 2002年

そば会席 小笠原 取引所界隈 その1 HP

コトバンクHP