マンオブザ北海道 ホーレス・ケプロン | 北海道歴史探訪

北海道歴史探訪

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FMアップル「北海道歴史探訪」
毎週金曜日20:00〜21:00
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北海道には歴史がない、あるいは浅いなどといわれますが、
意外と知られざる歴史は多いのです。
そんな北海道にまつわる歴史を紹介します。

 

 

 

 

FMアップル「北海道歴史探訪」

毎週土曜日11:00~12:00

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2017年2月25日の放送テーマは、ホーレス・ケプロンでした。

 

 

 

 

                    

 

北海道の開拓の基礎をつくり、推進させた外国人として名高いホーレス・ケプロン。その功績は多大ですが、その人生については意外に知られていないかもしれません。彼は農業者と実業家の顔を持った人物でした。

 

ホーマス・ケプロンは1804年に、マサチューセッツ州の医師の4男として誕生しています。父は医師と共に実業家でもあり、綿布工場を経営していました。

 

そのためケプロンには、幼い頃から経営の資質が備わったようです。それと同時に彼は、機械工学を学ぶことに興味を覚えていきます。20歳ごろには、父と兄が経営する綿布製造業に従事しました。

 

その後経験を積み、25歳でメリーランド州の織物工場の監督、次いでサヴェジの紡績工場の監督になっています。

 

そんな1833年、ボルチモア・ワシントン鉄道敷設の時、労働者が暴動を起こすという事件が勃発しました。ケプロンは州の命令を受け、200人の部隊を編成して暴徒2,000人を見事に鎮圧しました。

 

このことでケプロンは、中佐に昇進しています。また、数年後には綿織工場をいくつも開設して、多くの人々の雇用を作ったともいいます。

 

さらに翌年、30歳のときにはボルチモアとワシントンを流れる大きな川に目をつけ、その水力を利用して、砂漠のような土地を畑にしていくことに成功します。彼のこの事業はアメリカの農業界に大きな影響を与えました。

 

このころ、ケプロンの農業に対する興味が決定的になったと考えられます。家畜についても熱心に愛情を注ぎ、彼が育てた牛はアメリカ1という評判も得るほどでした。

 

ケプロンの工業・農業での仕事は、順調に推移し時が流れていきました。そのまま静かな人生の晩年に入って行こうと考えていた1862年、アメリカの国内を2分する南北戦争が起こります。

 

58歳になっていたケプロンも北軍義勇兵として戦争に従軍。彼は戦場でも活躍し、代将にまで昇進しています。そして戦争にも勝利しました。

 

このことが彼の人生を変えていきます。1867年、ケプロンは多くの分野での功績を認められ、第2代アメリカ合衆国・農務局長に就任しました。彼はこのとき63歳になっていました。

 

ケプロンは実際の農業者でもあったため、農業者・農業社会が必要としているものが何かをよくわかっていたといいます。その見地から、アメリカ農業の発展に力を尽くしていきました。

 

ちょうどそのころ、日本では北海道開拓という大きな仕事を抱えていました。広大な大地を開拓・開発していくには、外国のノウハウを活用するしか手は無い。そう考えた政府は、30歳そこそこの開拓次官・黒田清隆に人材を探すため渡米させました。

 

1871年、黒田はアメリカに入りました。そして、第18代大統領・グラントの他、要人にも接触します。ケプロンも黒田に会うことになりました。

 

黒田はケプロンに、北海道開拓について語り尽力してほしいと伝えました。この要請にケプロンは応えます。アメリカ政府も、黒田の申し出を名誉なことであるという認識を示しています。

 

1871年・明治4年7月、ケプロンはアンチセル・ワーフィールド・エルドリッジを伴って日本に入りました。このとき彼は67歳。幾人かの外国人のマネジメントという立場であったとも考えられます。

 

ケプロンに依頼された仕事は、多岐にわたりました。農業のことばかりではなく、交通・運輸・道路・運河の計画や、街や駅をどこに置くかということまで考えていきます。

 

そのため彼は、北海道全体の実地調査から始めています。当時、札幌は気温が低く雪が多いため、室蘭を中心地にするべきとの意見もあったといいます。しかしケプロンは、雪は作物を豊かにする、雪の下に未来はあるという考えで札幌を基準に計画していきました。

 

ケプロンは黒田と共に、開拓10年計画を立案しています。それを元に、外国人技術者を指揮統括しながら、開拓の方針を長官に具申するという、開拓の中心的な仕事を続けていきました。

 

技術は、最新のアメリカのもの。特に農業分野では、当時のアメリカの技術を大胆に取り入れていきます。

 

ケプロンも、あまりに革新的な技術のため、北海道の人々には受け入れられないのではないかと危惧していたといいます。しかし、人々は技術の精工さに驚くと共に大いに喜びました。ケプロンも北海道の人々に対して、進歩的な気質と賞賛しています。

 

彼の仕事は、次々と新しい分野に入っていきました。豊平川からの農業水の確保や家畜・農産物の品種改良、石炭の採取にも取り組んでいます。寒い北海道の住居にガラスを普及させたのも、彼の功績が大きいといいます。

 

ケプロンの意見は、その殆どが取り入れられました。黒田と両輪となった開拓使での仕事は、実に4年にも及びました。彼は開拓に伴う報告書を残しています。その紙数は737ページにも及ぶ膨大なものでした。

 

1875年・明治8年5月、開拓構想は完全に軌道に乗り、71歳のケプロンはアメリカに帰国することになりました。

 

帰国後は夫人とともに、ワシントン郊外で暮らしたと伝わります。度々、日本についての講演を依頼され、語ったことも記録されています。

 

アメリカ帰国後も、黒田との関係は途絶えること無く続きました。様々な黒田からの依頼にも応えていて、両者の間の強い信頼が伺えます。

 

1885年・明治18年、ケプロンは病のため永眠しました。享年81。葬儀にはアメリカ大統領も参列、グラント元大統領も代拝させています。日本からは代表者が向い、黒田清隆も深い弔事を捧げました。

 

盟友・黒田清隆は、後年の世界一周の旅の途中にも、ケプロンの墓を訪れ夫人を慰めたと伝わります。

 

 

 

 

参考文献

幕末維新・えぞ地異聞 北国諒星 北海道出版企画センター 2009

ほっかいどう百年物語 STV

インターネット資料