札幌の魚菜市場 | 北海道歴史探訪

北海道歴史探訪

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FMアップル「北海道歴史探訪」
毎週金曜日20:00〜21:00
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北海道には歴史がない、あるいは浅いなどといわれますが、
意外と知られざる歴史は多いのです。
そんな北海道にまつわる歴史を紹介します。

 

 

 

 

FMアップル「北海道歴史探訪」

毎週土曜日11:00~12:00

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2017年2月11日の放送テーマは、札幌の魚菜市場でした。

 

 

 

 

                    

 

市場は、昔から人々の暮らしの中に根付いてきましたが、それは物流手段が発展すると共に活発になってきました。札幌の魚菜市場も、そういった背景で開かれてきた歴史があります。

 

1880年・明治13年、北海道で鉄道が開設しました。ルートは小樽の手宮から札幌までの間でした。この鉄道は開拓使の運営。その目的は、幌内で産出される石炭を効率よく運搬するためのものでした。

 

この鉄道は、魚菜市場にも変化をもたらしました。札幌に鉄道を通じて小樽や銭函の新鮮な魚が運ばれるようになり、札幌に居ながらにして、港にあがる鮮魚が食べられるようになりました。

 

それによって明治14年4月、札幌魚菜会社が設立されています。発起人となり、会社を立ち上げたのは多田武雄という人物。元刑法局の裁判官という異色の出身だったと伝わります。

 

市場が設けられた場所は、現在の南1条西4丁目でした。民間人・泉ミエの屋敷であったといわれます。ここで会社は魚菜卸セリを始めます。しかし取引の中心は魚になり、青果物はあまりふるいませんでした。

 

やがて市場の場所が問題となりました。この市場の真向かい・南1条西3丁目には、開拓使の仮本庁舎がありました。仮庁舎の2階からは市場の内部が丸見え。そのため常に魚臭く、市場の騒ぎも響いてきました。

 

仮本庁舎で会議等があると、その臭いと騒音が進行の妨げとなりました。そのため開拓使は、市場の移転を命じています。

 

移転先は、現在の南3条西3丁目。魚菜市場はしばらく開業していたようですが、当時の小売商の多くは、自分で産地に買い付けに出かけ自分で運搬していて、あまり市場を必要とはしていませんでした。

 

そのため利用者が少なく、市場の価値も上がらず、会社の経営が成り立たずに閉鎖してしまいます。

 

その後明治15年から17年にかけて、北海道は不況に見舞われます。そんな中、明治17年に小売商の共同化が進行しました。

 

この共同化の結果、魚市場が出来ていきます。場所は現在の南3条西1丁目近辺。狸小路の東の端で、市場が形成されました。

 

この市場は大変に繁盛したと伝わります。その賑わいは、明治20年代の後半にまで続きました。

 

明治30年頃、狸小路1丁目の魚市場は分裂。別に大通東1丁目付近に新たな魚市場が出現したといいます。

 

しばらくはそういった状態が続いていましたが、明治35年、市場を変化させる出来事が起こります。

 

明治35年6月10日、現在の南2条東1丁目で火事が発生しました。出火したエリアはすべてが消失したと伝わります。

 

火事のあと、界隈は1年以上空地になっていました。しかし、ここに魚の小売商が掘っ建て小屋を建て、店を始めていきます。この動きが連鎖して、次々と小売商の店が建っていきました。

 

やがて南2条東1丁目あたりは、魚市場街へと姿を変えていきました。火事から8年後の明治43年には、魚市場は東2丁目まで広がっていきます。

 

当時、この界隈の近くには4~5件の旅籠屋がありました。そこを利用する者は、千歳・島松・北広島あたりから木炭を馬で運んで、札幌市内で商売をするものが多かったと伝わります。

 

彼らのほとんどは旅籠に一泊して帰っていきました。このとき、彼らは市場で魚を買い付けます。但し、その目的はおみやげではなく、近在の場所に戻ってから魚を売るための仕入れでした。

 

魚市場の方も、そのマーケットに敏感な反応を見せました。とにかく大量の魚が売れるということから、朝早くから魚を箱に入れて積み上げました。

 

特にニシンは港から直接仕入れ安く提供していきます。魚代を極端に下げ、利益は箱代だけという商売さえもやったともいわれ、近在から集まる人々の数は膨大になります。

 

それに呼応して蕎麦屋や居酒屋ができ、現在の二条市場の原型が出来上がっていったといいます。

 

郊外では明治26年、西方面で動きが出ています。この年、市中に行商していた近在の農科が、南1条西11丁目あたりで市を開きました。この市場は市街地の発展に伴い、西15丁目、西20丁目と移っていきます。現在の円山青物朝市の原型になっていきました。

 

この円山のように、札幌にはたくさんの市場が開かれましたが、長く続く市場は無かったといいます。

 

市場が法的に定められるのは、大正12年になってからのことでした。この年に中央卸売市場法が公布されます。昭和5年になって札幌市もこの法律に指定されました。しかし、実現するのには、しばらく時間がかかります。

 

戦争中は、卸も小売も企業の合同が要請されました。魚も青果も配給となり、市場が活躍できない時代になります。

 

札幌で中央卸売市場法が実現されるのは、1958年・昭和33年のこと。この年に北海道大博覧会が実施されました。そして、桑園会場として2,800坪の土地が博覧会で使用されています。

 

翌年の12月、この桑園会場の跡地をそのまま利用して、札幌市中央卸売市場が開設されました。

 

今も昔も、日本人の食生活の中心には魚があります。魚菜市場は物流手段と共に発展しましたが、自然発生的に人々に作られてきたともいえそうです。

 

 

 

 

出典/参考文献

札幌事始め さっぽろ文庫

インターネット資料