札幌の病院 | 北海道歴史探訪

北海道歴史探訪

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FMアップル「北海道歴史探訪」
毎週金曜日20:00〜21:00
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北海道には歴史がない、あるいは浅いなどといわれますが、
意外と知られざる歴史は多いのです。
そんな北海道にまつわる歴史を紹介します。

 

 

 

 

FMアップル「北海道歴史探訪」

毎週土曜日11:00~12:00

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2017年2月4日の放送テーマは、札幌の病院でした。

 

 

 

 

                    

 

札幌における病院は、開拓・開墾と直結していました。多くの和人が入ってくるに従って、より医療が重要になってくるのは、自然の成り行きであったともいえるでしょう。それらの変化は明治のはじめから起こりました。

 

太政官は蝦夷地の開拓に関して、医療が必要であることを早くから考えていました。医師を5等に分け開拓使の医官を任命し、いち早く箱館病院を設置しています。

 

札幌については、明治2年旧暦10月に島義勇を判官として札幌に赴任させました時、島と共に医師を入れています。

 

様々な説がありますが、医師は2等医・平掃一と3等医師・斉藤龍安だったとされています。島義勇と2人の医師は、銭函に入りました。

 

島は銭函で民家を借り、仮の役所としています。その家の1室を仮診療室としました。これが蝦夷地の初めての病院の形といわれています。

 

翌11月には、この仮診療所が札幌の元村にあった大友亀太郎宅に移りました。大友亀太郎は、現在の創成川の原型を作り、東区北13条東16丁目付近で農場を運営して、開墾の基礎を作った人物です。

 

このとき、医師の斉藤龍安が同行したらしく、彼が札幌で初めての医師であるともいわれます。

 

翌明治3年旧暦11月、開拓使は現在の北1条東1丁目・創成川のほとりに官邸を設けました。建物の名は東三番官邸。この官邸に、元村の診療所が移りました。当時の地図には御病院と記されています。

 

まだ、市街地の形成もできていない札幌でしたが、病院は早くから形づくられていました。目的は、開拓農民や札幌本府建設労務者たちの健康保持でした。

 

そのため彼らは無料で受診することができました。しかし、高級宮使や財産があるものからは、冥加金という名目で金銭を支払わせていたといいます。

 

この施設は、いちおう病院の形をとることができてはいましたが、院内は待合室がなく入院施設もありませんでした。やってくる患者にとっては極めて不便で、心細い施設であったようです。

 

このことを問題とした斉藤龍安をはじめとした医師たちは、開拓使に嘆願書を提出しました。近年人口も増え、患者や薬を取りに来る人が控えもないため、軒下に佇んでいるという現状を訴えています。

 

この要望は開拓使に認められ、明治4年に入り40坪もの病室が新設されるなど施設が改善されていきました。

 

翌明治5年には仮医学所も開設され、医師も数も一挙に増え21人にもなりました。この医学所は、箱館病院医学所に続いて北海道内で2番目に設置された医学校で、先駆的な試みでした。

 

さらにこの年、現在の北3条東2丁目に本格的な院舎が建てられることになり、明治6年に完成しました。

 

その大きさは200m四方。広大な敷地をもつ建物に病院も医学所も移り、本格的な活動が始められるかに見えました。しかしこのとき、開拓使は大変な問題を抱えていました。

 

彼らが頭を抱えていたのは財施難。開拓に膨大な金をつぎ込まなくてはならないことから、慢性的な財政赤字に見舞われていました。当然、それは様々なものやコトに影響を与えていきます。

 

新しい病院では薬草園と製薬所も併設して、自家製薬も実施していく計画でしたが、財政緊縮のために断念せざるを得ませんでした。

 

さらに明治7年、医学所が閉鎖されました。また高級宮使の給料も切り下げられます。これに伴い、上級の医師たちが大勢東京に帰ってしまうということが起こります。

 

患者を診るべき医師が一挙にいなくなってしまう。このことで、病院の存続自体が危ぶまれるほどでした。

 

その後の病院は、行政体制にもまれていきます。開拓使が廃止されると、明治15年に札幌・函館・根室の3県が設置されました。さらにその体制が廃止されて、明治19年には北海道庁が設置されるといった経緯をたどります。

 

それにあわせて病院の所管も、変わっていきます。官立から札幌県立・公立札幌・庁立札幌・庁立北海道・区立札幌と目まぐるしく変わっていきました。

 

時代は下って明治21年、病院は移転を検討していくことになります。当時の院長はドイツ人のグリンムという人物でした。彼は新しい病院を大きなものにしようと計画しました。6つの病棟・140にも登る病床を備えた近代的な病院を作ろうとします。

 

当然そのためには広大な敷地が必要になってきます。グリンムは現在の中央区北1条西8・9丁目の敷地に注目しました。

 

しかし人々は彼の計画に異議を唱えました。病院に行くのに遠くて大変というのが理由でした。現在では街中の場所も当時の人々にとっては、郊外の遠隔地とう認識でしかなかったことが伺えます。

 

グリンムは人々の声によって、計画を変更することはありませんでした。彼は10年後の札幌は現在の札幌に非ず、幾倍もの大都市になるだろうと予言し新病院の着工に着手していきます。

 

そして明治23年11月、新病院は完成しました。この病院は、大正9年に火事に見舞われ施設の大半を失いますが、その後再建。1995年・平成7年まで、市立札幌病院として場所を変えること無く存続していきます。

 

結局グリンムの予言は的中し、札幌は大都市に発展していきました。もちろん、大都市であれ小都市であれ、医療を行う病院は必要ではあります。

 

しかし北海道の場合、医療・病院の始まりは開拓・開墾をする人々のケアを中心に計画的に進められたものでした。

 

そのことについては北海道ならではということができるでしょう。

 

 

 

 

出典/参考文献

札幌事始め さっぽろ文庫

会長講演・開拓使時代の医療 吉田信

インターネット資料